科学/技術の歴史を論理的で明快な思考で読み解く好著:村上陽一郎『文化としての科学/技術』

 『文化としての科学/技術』は、科学史家である村上陽一郎による、「岩波講座 科学/技術と人間」の論稿を元に編纂された2001年の本である。出版当時、「日本の構造改革」という言葉が巷に満ち、現実が次々と変革されていく中で、社会の構造や制度的対応が、過去の習慣の慣性のなかで立ちすくんでいる状況が見られていた。そしてその事態は、科学/技術においても同じだった。本書の狙いは、多少の長い時間的スパンのなかに現実を置き直すことで、何が変わらなければならないか、何は変わってはいけないか、という点について、明確な展望を拓くことである。
 本書は6章からなっている。以下、順に簡単に内容を紹介する。
 

 第1章「ノーベル賞の功罪」では、科学の制度化を背景に、その世界初の褒賞制度がもたらした功罪について論じられる。
 アルフレート・ノーベルの遺言で設立されたノーベル賞は、1901年、ちょうど20世紀の最初の年に第一回の受賞が行われたのであるが、この時期に成立したことは決して偶然ではないと言う。19世紀の科学の制度化の第一の特徴は、科学者を意識した人間集団の成立である。"scientist"という英語が造られたのは1840年のことである。当初「科学者」らは、自らの存在意義を主張し、権利と社会的なプレゼンスを拡大しようとして団結した。「イギリス科学振興協会(BAAS)」といった協会が生まれ始めたのはその例である。第二の特徴は、科学者のための教育制度が成立したことである。ヨーロッパ社会はこの時期になって初めて、科学者という種族を社会の制度のなかで養成することの意味を認め始めた。第三の特徴は、科学者たちが個別の共同体を創設するようになり、専門学会という制度が生まれたことである。こうした学会では論文誌を発行して、学会のメンバーに成果を公表する機会を用意するようになった。論文誌に掲載される論文の評価基準は、二つの理由で完全に「科学者共同体」の「内部」評価という形式を取らざるを得ない。第一に、論文の読者は「専門家仲間」だけである。したがってその評価も、自動的に彼らによって行われるほかはない。第二に、一つ一つの学問領域に携わる専門家と、そうでない人間との間の距離が大きくなり、生産された知識の質を論じることができる人間は、その専門家以外にはいないことになるからである。こうして科学の研究成果に対する評価は"peer review"という形をとるようになった。ここでは、科学研究という行為は「科学者が、専門家の共同体の所有になる知識体を築き上げていくことである」と規定できる。よって、その研究成果の質は知識体に"something new"を付加できるかどうか、にかかってくる。"something new"とは、いうまでもなく、「それまで他人が生産することのなかったもの」を意味する。したがってそれが唯一の評価基準である以上、他人に先駆けて「競争」が生まれるのは必至である。そしてこの傾向は褒賞制度の整備によって、拍車がかけられることになる。その先駆けが、ノーベル賞であった。そして時代が深まるにつれて、ノーベル賞というご褒美が、研究という仕事を成し遂げた「結果」として待っているものでなく、最終「目標」であるかのごとく、研究者が考えるという状況になっていった。DNAの螺旋構造の発見者の一人であるワトソンの自伝『二重ラセン』では、いかに自分たちの研究ティームが、ライヴァルを出し抜いたか、どのように蹴落としていったかが得意げに語られている。そして村上は、1950年代に生まれたこうした新しいタイプの研究者に、ノーベル賞をめぐる時代感覚の転換点をみたいと述べる。もちろん、このことはノーベル賞そのものに直接関係はない。しかし、ノーベル賞が、社会が築き上げた虚像(例えば、受賞者の数で国威を誇ったり、狭い専門内で"something new"を達成したにすぎない研究者を、専門以外の領域においても、高い見識を備えた人間であるかのように扱うといったこと)によりかかって成立し、それを利用してきたこと、あるいは少なくとも訂正をする手段を講じてこなかったことは明白だと指摘する。
 
 第2章「科学研究の様態の変化」では、科学と言われているものが、誕生からほぼ二世紀の間、どのような歴史的変遷を遂げて今日まであるのかということが、前科学期、プロトタイプ期、ネオタイプ期という概念を用いて、説明される。
 まず科学史の定説では近代科学は17世紀の科学革命、すなわち、コペルニクスケプラーガリレオニュートンに至る約150年の間に誕生したと言われる。しかし、村上は、18世紀までは「前科学期」と呼んで、それを科学に含まない、という立場を取っている。なぜなら、この時期に活躍した彼らは科学者ではなく、科学に従事したとさえ考えられていないからだ。この前科学期の特徴の第一は、神学的な世界観を背景にしているということである。この時期、「真理」とは「神の創造の神秘」と同義語であり、ニュートンであっても、万有引力を神がこの宇宙に語ら期かけていることの、直接的な現れと理解していた。また、この時期、学問は「専門の科」が厳密に決まっていて、固有の対象や方法論、言語体系などが存在するのではなく、あらゆる知識が相互に関連しあい、有機的に結合していた。ニュートンは、数学、錬金術、化学、経済学、考古学、…など、さまざまな研究を行ったが、それはニュートンが「万能の天才」であったからではなく、そもそも学問というものがそういう性格のものだったからである。そして知識の有機的体系化を最終的に可能にしていたのが神学であり、哲学という概念であった。18世紀におこった「聖俗革命」は、このような12世紀以来のヨーロッパの学問の伝統を破壊し、知識はばらばらにした。その後、断片化された知識のなかから、一つ一つの「科」学が生まれ始めたのである。
 このように考えると、19世紀に成立した科学は、キリスト教神学とは縁を切ったこと、また知識が専門化し、disciplineを形成したことにおいて、前科学とは異なる「新しい」特徴を備えている。村上は、これを科学のプロトタイプと呼ぶ。プロトタイプ科学の特徴は、(1)研究者個人の「真理探究心」に動機づけられる、(2)研究の成果は専門家内部の「ピア・レビュー」によって行われる、(3)生産される知識は専門家集団のなかだけで流通する(自己閉鎖性を持つ)というように整理できる。したがって、研究という行為には本来「褒賞」はない。最も、ノーベル賞など、形式的には外部社会において制度化された褒賞もあったが、候補者のノミネーションから受賞者の決定までの経緯で主導権を握っているのは、「専門家仲間」であることに変わりはない。こうした褒賞制度と似た性格を持つ、外部社会からの介入のチャネルが、研究支援制度である。20世紀に入ると、例えばアメリカのロックフェラー財団のように、科学研究に資金援助を提供する団体が現れてくる。しかし、支援の理由付けは「フィランスロピー」というに尽きた。時代が進むと自己閉鎖的なプロトタイプの科学に、多少外部社会との結びつきが見られるようになるが、それもプロトタイプの科学の変質というよりは、それを守り育てるために外部社会が作り出した保護装置、あるいは推進装置であった。
 しかし20世紀半ばに入り、自己完結的でない、外部社会に向かって開かれている科学が誕生した。それがネオタイプの科学である。その最初の劇的な変化がマンハッタン計画であった。このとき、パターンとしては、科学者の専門家グループの外にある社会セクターが、専門家グループの内部に閉鎖的に生産され流通する知識を「活用する」ことにより、自らの目的を達成しようとする状況が、歴史上初めて本格的に出現したと言える。ところで、外部社会と言うとき、最も基本的なエージェントは国家ないし中央政府である。政府は科学者を満足させるために研究機関を立てるのではない。例えばNASAの場合であれば、その目的は、「スプートニクソ連に先を越されたアメリカの国家的威信の回復と示唆」であった。つまり、ここでの研究行為は、研究者個人にとっては好奇心駆動型であり得たとしても、全体の文脈のなかでは、もはや、変質した性格をも持つようになった。そして、プロトタイプ科学のフィランスロピックな枠組みの中での研究支援であれば、たとえ研究の結果が思うようにでなくたとしても、投資した側は、その責任を問うことにはならない。しかし、ネオタイプ科学の場合、最終的な使命の達成に失敗は許されない。そして、こうした研究活動は、ほとんど必然的に大規模「プロジェクト」化する。ネオタイプ科学の典型的なパターンは、使命を発注するエージェントが存在し、それに対し科学者の側から「請け負い」が「入札」の形で行われ、発注主はそのなかから最もコストパフォーマンスが良さそうなものを選ぶという形で進むのである。
 プロトタイプの科学とネオタイプの科学は、独立に出現したり、存在しているわけではない。ネオタイプの科学は、プロトタイプ科学の「変異種」と考えてもよい。しかし、科学者の行動倫理という点に着目すると、やはり両者には大きな違いがある。前者であれば、科学者の行動規範は、科学者の集団の内部規定にとどまっていた。それは一種のギルド的職業倫理であるかもしれないが、それは「自己完結的」であった。しかし、後者の場合、使命達成を請け負った研究者には、それを達成する義務と責任が生じる。と同時に、今日ではさらなる義務と責任が研究者にかかってきたいる。それは「いかなる科学研究も、最も基礎的な研究であってさえ、研究者はその研究の結果が社会に対して与えうると推測されるインパクトを考慮する」というものである。アメリカ科学アカデミー(NAS)が刊行した小冊子『科学者をめざす君たちへー科学者の責任ある行動とは』(池内了訳、科学同人、1996年)には、95年の改訂に際して、この責任が明記されるようになった。
 
 続く第3章では、「新しい科学像の一つの象徴」として、ヴェネバー・ブッシュに焦点が当てられる。第一次世界大戦を契機として、兵器の開発・製造は従来の経験と熟練だけを財産にした職人的な戦勝技術の範疇をはるかに超える要求を満足させなければならないようになった。こうした新しい技術的課題の基礎として、科学の知識が役立つ場合があることが、徐々に明らかになっていった。「応用化学」という概念が、大学とは異なった教育機関として19世紀の欧米で制度化が行われてきた工業専門学校、技術専門学校のなかで明確化され、それが戦争が必要とするさまざまな技術的課題の解決に力をもっていることがはっきりした。MITも1862年のモリル法に基づいて生まれた技術専門学校の一つである。設立当初は建築技術者の養成が主たる目的とされていた。転機は1932年、WWⅡ直後、校長になったコンプトンによって、流学部、工学部、建築学部、さらに人文学部も併設する改革をおこなったときだった。このときV・ブッシュが初代工学部長を担ったのだった。ブッシュはのち、40年に国防研究会議の委員長となり、41年には国防省内部に研究開発局が造られ、その局長に任命された。また、アインシュタインルーズベルト宛の書簡が元になって国防研究会議の委員会として、通称「ブッシュ委員会」と言われる組織が出来、ここで、原子爆弾の可能性を議論した報告書が出されていった。ブッシュは工学技術者と研究者という二つの立場を国家的使命への協力という形で、統一しなければならなかった。マンハッタン計画にめどがつき始めた44年、ブッシュ宛にルーズベルト大統領の親書が届き、それに答える形で45年7月25日に提出された報告書が、有名な『科学ーこの終わりなきフロンティア』であった。ブッシュの考えの本質は、近代国家としての繁栄は、科学の進歩なしでは考えられないということだった。ここでは基礎科学もまた、最終的には、応用されるべき宿命を帯びたのであり、ここでは、平和時にあっても、科学研究の国家による搾取が当然のものとなった。そうした状況を制度的に支えるために設立されたのが、全米科学基金であった。この「科学ー終わりなきフロンティア」という発想は、20世紀の科学の変質を予言し、それを誘導し、今日のような状況を作り出すことの直接の引き金を引いたという意味で、どうしての言及しなければならないことである。と同時に、20世紀末にはその「終わり」が見えてしまい、進歩とうよりは維持、保全を、科学が残した負の遺産の管理、処理へと力点が移っている。ここに新しい科学の姿が見え始めていると述べられ、本書は締めくくられる。
 
 第4章「西欧科学/技術と東洋文化」では、科学/技術が「普遍性」を備えているかどうかについて考察がなされ、そうした科学/技術が21世紀どのように進展すべきなのか、またそこに東洋はどのように絡み得るのかについて論じられる。
 一般に今日の科学は、キリスト教的ヨーロッパという特殊性、特定の文化を超えた、普遍的な知識体系として理解されている。この科学の「普遍性」が制度的ににも保証されたのは19世紀であった。19世紀の科学者たちは、まず自分たちの共同体を形成することに努めた。1831年にはイギリス科学振興協会が、1833年にはフランス科学者会議が、1848年にはアメリカ科学振興協会が創設されている。こうした組織は科学者らが、自分たちの社会的権利を、当時の国家、一般のひとびとにアピールするために作ったものだった。したがって、専門家たちの造る知的共同体である「科学者共同体」という理念からは離れていた。そうした科学者共同体ができるのは19世紀半ば頃からである。今度は「国」や言語に拘泥せず、同じ専門の科学者だけが、集まって作り上げる共同体だった。この時期に漸く学会ができ、ジャーナルが用意された。それぞれの個別科学は、自己完結的で自己閉鎖的な知的活動たらんことを保証されるようになった。ここでの知識は、例えば実験の方法や、装置の仕組みなどに暗黙の前提があり、その了解の中で定形的に行われる知的活動として、獲得された。個別科学は、このような定形性を維持する限り、それを採用しているところでは、そこから得られる知識は「普遍的」なものになる。ここでいう普遍性とは、既存の個別の文化に依存しないということである。別の言い方をすれば、個別領域そのものが、非常に厳密な意味での個別的「文化」を形成しており、それを採用する限り、それ自体独立した知的機能を発揮する。また、言語という側面について考えると、科学における諸概念は、日常的な経験からある程度距離をとることで初めて成立する。(例えば「重力」は当初"attraction"が用いられていたが、やがて日常的に使われることが少ない"gravity"という専門用語が使用されるようになった。)その意味で、ヨーロッパ語圏にとっても、科学の領域は、ひとつの「外来文化」なのである。
 さて、技術の場合どうだろうか。技術はいかなる場合でも、「その生活圏に住むひとびとと生を直接斬り結び、ひとびとの価値観や人間観、あるいは死生観を反映するものとならざるを得ない、という点で、科学とは事情が異なっている」と筆者は述べる。ただし、技術は目的を持つものであるから、それを達成する「効率」によって、限定された意味での「普遍性」を持つ、という点は指摘しなければならないと言う。例えば、アメリカで生まれた「規格の標準化」という発想はやがてヨーロッパにも普及していった。しかし効率という点だけでは、技術が「普遍化」しない例もいくらでもある。例えば臓器移植技術は、ある疾病にとっては効率的な治療法だが、最近まで、日本では定着しなかった。産業技術でさえ、それを支える周辺技術の存在なくしては成り立ち得ない。技術とは、全体的な統合の上に築かれるにであり、日常的な文化のなかに組み込まれたものである、と村上は結論づける。
 それではこうした科学/技術は21世紀、そのように進展すべきなのか、また、そこに東洋はどう絡みうるのか。一つのポイントは、資源、エネルギー、自然の処理能力をを無限に想定していたこれまでの延長にあってはならないという点である。それを実現する際に重要なことは、技術の目標を制度的に変更することであると言う。例えば「現代のわれわれの快適性・利便性」ではなく、「将来の世代の安全性」へと、技術の達成すべき目標を変更するといったことである。そのためには、科学も狭いいみでの自己完結性、自己閉鎖性から抜け出して、そうした領域を横断する総合的な視点で、知見を積み重ねることが求められる。そのような新しい科学/技術に関わって、東洋思想が寄与する可能性はあるだろうか。装用を起源とする発想のなかには、総合的、非分析的な利点を強調するものがあり、それがヒントになる可能性はある、と村上は指摘する。これまでの科学の自己完結性から抜け出して初めて構築されるのであれば、新しい科学(技術)の枠組みが、そうした異質の文化的発想に対しても開かれているという論点は、論理的に導出されるからである。 
 
  第5章「科学/技術と生活空間」では、技術と文明というスケールの大きなテーマについて論じられる。ここでは19世紀以降の技術が科学と融合し始める時期に絞って、内容を簡潔にまとめることにする。19世紀にには、熱力学が成立し、エネルギーの概念も確立し、世紀後半には、マクスウェルの電磁方程式も定式化された。こうした科学上の成果が、エネルギー革命でもある産業革命や、電気・電力による技術的イノベーションを発展したと思われてても不思議ではないが、実際にはここで、科学における原理の発見から、その応用としての進歩へという直線的な図式(「リニア・モデル」)は全く成り立たないのである。その唯一の例外が化学・薬学の分野であった。18世紀になりようやく近代的な物質観が確立し、それに基づいて18世紀末化学理論も発展した。そして19世紀半ばには染料や肥料といった社会の要請に応える応用化学の技術が確立していたのである。しかし19世紀末にヨーロッパでもアメリカでも大学の理学部を終えた人間が、産業のなかに雇用を見いだすのは(化学を除いて)ほとんどなかったという。そうした状況をかえるきっかけとなったのが、第一次世界大戦であり、第二次世界大戦であった。産業界で科学者を雇い入れ、企業内研究所(インハウス・ラボ)に従事させるというパターンが定着し始めたのは、20世紀の戦間期あたりからである。第二次世界大戦では科学動員体制がとられ、兵器開発に国家資金が惜しげもなく投入され、人材と資源と時間とが投入された。連邦政府機関であるアメリカ全米科学基金は、対戦中の研究費の好景気に気をよくした科学者の一部が、戦後も同じように甘い汁が吸えるように企てたことの結果だった。こうした戦争後、技術は科学に接近し、研究が応用に直結するというパターンが大きな比重を占めるようになった。
 
 第6章「科学/技術と教育」は、本書のために書き下ろされた、村上の教育論である。
 高等教育では、物理学でも生物学でも、大学において専門的に学ばれるはずの当該の教科の内容に近づくための準備として学習内容が指定される。例えば現代の力学では微分方程式を操ることが必須の条件であるそうだが、そのためには高校で微分にかんしてそれなりの基礎的な知力を養っておく必要が有る。そして、中学における理系教科の内容もまた、高等学校の内容を咀嚼するに必要な基礎を築くことを主眼として考えられている。そして中学での理科教育をつうじて「理科嫌い」になる生徒がつくり出されたとしたら、現代科学の理解に適性を持つものを選び出し、そうでないものをふるい落とすことになり、その意味で有効に作動していると言う。一方で他の教科では事情がことなる。例えば高校の社会ではケインズ理論を修めるために必須の作業として、経済の基礎の習得を求められるわけではない。
 しかし、ここ50年ほどの間に、科学は社会を動かす不可欠のセクターとなり、科学の成果は社会の成員一人一人の生活に直結し、それを左右するようになった。そうしたなかで一般の人々の日常の必要に由来する科学についての知識への要求が生じてくる。全ての人が否応なく科学と関わりを持つようになった以上、なんらかの形で「科学教育」が必要になった。従って、通常の「適性」試験機構というべき科学教育とは別に、科学研究が社会の成員とどんな関係にあり、自らの生から死までのあらゆる場面を左右しつつあるのか、にかんして鋭敏な洞察力と判断力を養う「科学リテラシー」の教育が必要になると著者はいう。そしてSTS(科学・技術と社会)というプログラムはその試みの一つである。STSに関して筆者は「資格付けられた専門性」とは違う専門性概念があり得ると述べる。いわばSTSは「第二の専門性」の集合体として捉える立場をとる。言い換えれば、STSは「資格付けられた」専門家を拡大生産することは望まないのである。
 
 

文献:村上陽一郎『文化としての科学/技術』(岩波書店、2001年)