今週に読んだ雑誌論文や論考へのコメントなど

(1)藤垣裕子「科学者の社会的責任 第3回」『科学』3月号 88(3)(2018年)、229-233頁

 

 第3回目では、主に日本の科学者の社会的責任論にフォーカスされる。まず冒頭で、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が、1976年6月28日共立出版創立五十周年記念講演「物質科学にひそむ原罪」に触れられる。その中で、朝永は、オッペンハイマー原子爆弾の実験が成功したときに「物理理学者たちは罪を知ってしまった。そして、それは、もはやなくすことができない知識である」と述べたことを引用し、朝永は「科学のなかにある罰せられる要素を論じ、それを原罪概念と結びつけて論じ」たと筆者は述べる。朝永が引用した部分の原語は" the physicists have known sin; and this is a knowledge which they cannot lose."である。原罪とは英語で original sin であり、オッペンハイマー自身はsinという言葉を用いていることから、罪という言葉を原罪思想と結びつけて考えたのは朝永のほうであると指摘しているのである。この「科学の原罪論」の基づく責任論は、文学者の唐木順三から高く評価された。筆者はこの責任論をさらに深く考察するため、ハンス・レンクが、科学・技術・倫理百科事典のなかで分類した、行為責任/役割責任/一般道徳責任の3つのタイプを分析ツールとして用いる。行為責任とは「自身の行為の結果や気血に対して責任をもつこと」を指し、役割責任は「役割を受けたり、任務をまっとうしたりする際、役割を負った人間は、役割を許容範囲内のかたちで、あるいは最良のかたちでまっとうするある種の責任を負う」と説明される。それにたいし一般道徳責任とは環境や人間を破壊する技術の使用に関連して、社会に生きるひとすべてに一般的にある責任を指す。役割責任は、プロとしての責務(A1)、一般道徳責任は一人の人間としての良心(A2)と言い換えることもできる。朝永の原罪論は、主語はあくまで「人類」であるので、一般道徳責任だと考えられる。それにたいしオッペンハイマーの言葉の主語はあくまで物理学者であるから、役割責任である。科学者の社会的責任とはプロとしての責務(A1)なのか、一人の人間としての良心なのか(A2)を巡って、さらに考察が進められる。2015年に長崎でパグウォッシュ会議が開始された際、その反省会とした行われたパグウォッシュ会議運営諮問委員会では、物理学、工学を専門とする人たちはA1の責任を主張し、国際関係論を専門とする人たちからはA2の責任論を展開したという。また、パグウォッシュ会議の第3委員会の文書における" the paramount responsibikity of scientists outside their professional work"という言葉に、著者は注目している。もし、科学者という主語を強調するのであればA1となり、専門外という点を強調するならばA2になり、どちらに相当するかの判断は難しいと述べる。次に筆者は、別の角度からこの言葉を解釈する。この言葉は第2回で論じられた、「社会的リテラシー(自らの研究が社会にどのように埋め込まれて展開するかを想像できる能力)」と関係していると述べる。実際に物理学者たちは、その埋め込まれ方が原爆投下というかたちで現前化してしまったことにたいして、平和運動を展開した。それと同時に、outsideではなく、insideに向かう責任を考える者たちも70年代前後に登場したという。それは(1)クーンのパラダイム論の流れを汲む、科学の客観性のあり方を相対化するもの、(2)「科学の体制化論」であったと指摘する。最後にこれらを時系列上で再考しつつ、整理する。まず、45年から59年の「戦後の混乱から科学技術振興制作体制の整備」の時期である。これは仁科、武谷、湯川らによる反戦平和運動に象徴される責任論の時期である。続く60年から70年の「技術格差の解消と自主技術の開発」の時期であり、責任論では67年の日本物理学会の「決議3」、60年、70年の安保闘争、69年の学園紛争の時代である。ここでは「行動する」の軸が顕著である。それに対し70年から79年の「公害対策と調和の科学技術」制作の時期に、責任論は科学のinsideへ向かう「自省」の時期を迎えたと述べる。ここに広重の体制化論も、朝永の原罪論も出てくる。そのため、80年代初頭の科学者の社会的責任論は(1)核兵器反対の平和活動およびベトナム戦争に端を発する反戦運動と、(2)公害・環境問題に端を発する科学の内部への批判と、(3)パラダイム論にみられるような認識論のレベルの相対化の議論と、(4)全共闘の思想の直後にあらわれた科学の体制化論と、(5)朝永による原罪論とが渾然一体となって共存していたと主張する。その後、科学技術政策は80年-94年の「新たな価値の想像および協力と競争」、95年以降の「科学技術基本法以後」という時期を迎える。責任論でもクローン羊ドリーの誕生、東海村原子力施設事故、狂牛病の発生など、科学と社会の新たな関係が問われる時代に入っていく。ここではシステムの問題を個人の行き方で引き受けようとする責任論だけでは解決できない課題が噴出すると述べる。さらに"Questions which can be asked to science, but not be answered by science"を扱い、専門家が助言することが困難を伴うようになってくる。

 

 

(2) 山本千尋「櫻井錠二と日本近代における学術振興の展開」『科学史研究』第51巻(2012年)、138-147頁。

 

 日本学術振興会の設立に関与した櫻井錠二の生涯に通底する学術振興に関する活動に焦点を当て、そこにある櫻井の考え方を検討した論文である。史料としては、『思出の数々 男爵櫻井錠二遺稿』の他、『東洋学芸雑誌』、『東京化学会誌』や『東京学士会院雑誌』に櫻井が書いている文章を用いている。論文の前半では櫻井が受けた英才教育が述べられる。1858年に金沢馬場一番町に生まれた櫻井は、加賀藩・前田家の士族の家柄だった。66年から69年までは私塾で習字、国語・漢学、県道を学んだ。のち70年3月には藩立英学所「到遠館」で英語を学び、優等生だったことから翌月からは「七尾語学所」でPercival Osbornから通訳なしで英語を学んだ。71年からは外国人教師から英語で学ぶ「大学南校」に合格し、73年には「開成学校」の化学専攻に進学し、アトキンソンの元で学んだ。76年には化学分野で管費留学生に選ばれ、ロンドン大学でウィリアムソンの指導を受けた。尚、ロン大学はオックスブリッジに比べ、理学重視の校風であったという。81年に帰国すると、東大理学部講師、翌年には教授に任命され、83年から85年まで東京化学会の会長を務めた。88年には日本初の理学博士号を授与された。98年には東京学士院会員に推挙された。同年には「国家と理学」において、学術研究や支援体制において、英国よりドイツが純正理学を重んじているため工業が優れ国力があること、日本もそれにならうべきことを信条としていたと述べられる。1900年には高松豊吉と共著で『化学語彙』を発行する。このように留学後20年間は銃声理学に価値を置き、国家隆盛の志向を持ち、国内の学術研究及び教育の基盤の整備にあたっていたと、著者は指摘する。また国際的な学術交流も盛んに行なっており、日本が世界の学術の一員であろうとしたことが伺えると同時に、海外の先進的な学術動向を目の当たりにする機会があったことも指摘している。
 1913年米国から帰国した高峰譲吉が国民化学研究所を設立する必要が有ることを主張したことを端緒に、櫻井がその事業計画を務め、1916年の理化学研究所の設立の一役を担った。また1914年には第一次世界大戦が勃発し化学製品の輸入が途絶えたことの対策案を講じるため、農商務省の化学工業調査委員会の委員として、「染料医薬品製造推奨法案」の立案に関わった。1916年の講演では、有利な戦争と経済復興の根本的な解決策は理化学研究を行う研究者養成が第一要件であると主張した。また同じ演説から、櫻井にとって理研のモデルの一つはカイザー・ヴィルヘルム研究所であったと考えらえると論じられる。また1919年の東大退官数年前後の時期に『思出の数々 男爵櫻井錠二遺稿』において、研究費の不足に根源的な問題意識を感じていたこと、その手立てとして、学術の振興に邁進しようとしたことが見て取れることが指摘される。また、1918年に国際学術研究会議の設立が検討され、櫻井はこれに参加し、国内にも学術研究会議を設置することを提案し、1920年に設置された。1926年には第三回汎太平洋学術会議を東京で主催し、議長を務めた。このように、櫻井が学術の国際化に積極的に取り組んだことで、日本人研究者を世界に知らしめることができたという。
 このころ櫻井は研究者養成が学術振興の根本的対策となることを主張し始め、1931年に大規模な学術支援機関の設立運動を開始する。同年3月に学術研究振興に関する建議案が、帝国議会の満場一致で可決された。そして翌年1932年に日本学術振興会の設立に至った。財政法人とした理由について、櫻井は、所属を問わず研究業績のすぐれた支弁ができること、人物本位でッジ夕に能力を発揮できること、を掲げている。1938年、国家総動員法が施行され、科学動員が本格化する。こうした状況で、櫻井は帝国学士会28回授賞式で、戦局下においても研究者は研究によって国家に貢献することが可能であること、それが現在、将来の日本に貢献することを主張し、学術振興の方針を貫いていたことが読み取れる、と指摘される。

 

 

(3) 河村豊 島田実験所という研究プロジェクト−戦時科学動員は何をもたらしたのか」『日本物理学会誌』 71(10) (2016年)、706-710頁

 

 アジア・太平洋戦争の約15年間、多くの研究者が戦時研究や軍事研究に関与していたことが知られている。静岡県の島田実験所の場合も科学者動員の典型例の一つと言える。しかし、軍部が中心となって新兵器開発のために物理学者らを本格的に動員するのは、1943年春以降と比較的遅く、その期間も2年間と短い。島田実験所における新兵器開発はこの最後に現れた出来事だった。
 学術振興が標榜されていた1937年までは、数学者の藤沢利喜太郎や化学者の桜井錠二らは学術研究振興の予算を政府に強く要求してきたが、それは満州事変後、1932年に日本学術振興会の設立という形で、漸く動き出した。
 次の変化は学者が用いてきた「学術」に代わって「科学」という用語が導入されたことだと筆者はいう。その流れは二つあった。一つ目は1934年に満州国に設置した「大陸科学院」である。理化学研究所の所長の大河内正敏は桜井錠二を通じて、満州国務院総務庁長の星野直樹に紹介され、その創設に関わった。もう一つの流れは日本の論壇で「科学」をめぐる活発な動きがあったことである。
 最初に「科学」を用いた政府期間は、企画院科学班である。企画院は日中戦争の勃発後に設置された戦争遂行のための政府組織である。つまり国策としての科学政策は戦争を契機にスタートした。ただしその政策は、商工省を中心とした「総動員試験研究令」、企画院を中心とした「科学審議会」、文部省が設置した「科学振興調査会」といったように、各政府期間の取り合いになった。特に、企画院と文部省による「科学」を対象にした「縄張り争い」が、戦時下で、科学者を巻きこみつつ繰り広げられたという。研究費に注目すると、日本学術振興会の「研究費」と、学術研究会議の「科学研究費」が大きかった。しかし、科学振興がそのような形で戦争に貢献するかは不鮮明だった。
 戦況が悪化する1943年以降の新しい科学動員の取り組みを時代順にまとめると以下のようになる。まず、日本学術振興会では、1943年の研究費を33年の5倍とし、複数の研究者による「総合研究」を本格化させた。一方、日本科学技術団体連合会は、43年1月に「研究隣組運営委員会」を組織し、大学の工学部の研究者を袖珍に3082人による共同研究を行った。また文部省では、学術研究会議員を200人から400人へと倍増させ、同年12月には「研究班」を組織し、44年度まで193班、1927人、総額1174万3300円の「共同研究」を行った。さらに技術院では「臨時戦時研究員設置制」のもと、「戦時研究員」が選出され、44年度には183課題、1122人の共同研究が実施された。このような「科学戦」に時代になっても、政府の科学政策の中心は応用的な課題を取り上げてはいるものの、基礎的な研究を振興する家以降が強かったことが一つの特徴である。それに対して陸海軍が行った科学動員は、基礎研究振興の枠を超え、英気開発に直接関わる研究を科学者に実施させた。 
 41-45年までの「研究費」の中で軍部による使用の割合は7割りを超える規模であった。その中で物理学者が「研究開発」に関わった事例の一つが、島田実験所で海軍が実施した「Z装置開発」というプロジェクトであった。1942年ごろから、物理学者は「物理懇談会」という会合に参加することでこの計画に関わるようになった。海軍では、大出力マグネトロンを利用した兵器を「Z装置」、その開発をA研究と呼ばれていた。この施設の研究が始まった43年ころ、マグネトロンの発振理論の研究には仁科芳雄、宮島龍興、朝永振一郎が協力した。しかし、軍の側には大学の研究者を協力させる仕組みがなかった。外部研究者に対しては「嘱託」、あるいは技師に採用する制度を利用していたため、彼らの多くが脇役とみなされ、計画の全体像を知ることなく、開発方針を軍関係者と議論する機会もなかったという。一方で、短期間に研究者から成果を得るため、名士宅を宿泊施設としたり、移動の自由を与える、遠方から物理学者を招いた研究会の開催に便宜を図るなどの待遇もあった。物理学者側から見ると、軍から提出される課題には興味を持てるテーマもあったといい、いくつかの課題は順調に解決できた。『島田技報』(全13号)に成果が発表され、それらの論文はマル秘扱いであったが、戦後多くは「基礎研究」であるとみなされ、物理学会誌などに再録された。
 日本学術振興会や学術研究会議などが実施した戦時科学政策は、軍の兵器開発とは直接結びつかず、共同研究を取り入れた基礎研究振興が実現した。それゆえ、敗戦後は、それは平時の科学政策へと継承できた。一方で軍の科学動員による研究成果は、多くが焼却された。しかし、軍に動員された物理学者が厳しい糾弾を受けることはなかったという。このことは、物理学者の側から見れば、戦時中に何を行ったかを振り返る機会が与えられなかったこということになる。仁科芳雄らが兵器開発を振り返った記録はほとんど知られていない。その他の物理学者も兵器開発の中で重要な地位を与えられず、機密事項の多くにも触れることがなかった。軍による資料破棄もあり、戦時中に行った研究がどのように兵器開発につながったのか、どのように戦争に協力したのかは、占領期においても振り返ることはなく、その後も詳しい回顧録が公表されることがなかった。

 戦時科学動員の全体像を把握する、比較的読みやすい論考だったと思う。

 

 

科学 2018年 03 月号 [雑誌]

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