生物学の最前線の議論をわかりやすく紹介してくれる本:池田清彦『進化論の最前線』

 

 進化論の現代的な議論と、IPS細胞や最近話題になっているゲノム編集などについて関心がありました。パラパラとページをめくってみて、それらを両方とも解説している一石二鳥の本だと思い手に取りました。

 筆者はテレビでもおなじみの池田清彦氏です。(国際教養学部で教えていることは知りませんでした。) 一読して非常に面白く、用語を定義しながら論を進めていて、分かりやすくてなかなかいい本だと思いました。さすがにゲノム編集の遺伝子改変技術である「CRISPR/Cas9」の細かい仕組みなどについては分かりませんでしたが、大まかには理解できたと思っています。

 評者の関心を中心的に述べている1-4章をとりあげて、理解できた範囲で簡単に内容を紹介します。

 

 第1章から、早速ネオダーウィニズムの限界点が示され、第2章では進化論の歴史が述べられいます。ネオダーウィニズムとは何か説明する前にまず言葉の整理をしておきます。

 生物がもつ形や性質のことを「形質」といいます。遺伝とはこの形質が世代を超えて受け継がれていく現象です。遺伝子とは「遺伝形質を規定する因子」のことで、具体的にはたんぱく質の作り方の情報を持っているDNAの特定領域を指します。 

 さて、原初の単純な形態から複雑な形に変化したメカニズムを説明する「進化論」はダーウィンが1859年に示した『種の起源』に始まりますが、現在主流になっている進化論はこれとは少し異なっています。『種の起源』では自然選択によって生物が徐々に変化していくということが書かれていますが、遺伝学についてははっきりと分からないと断言していました。遺伝の法則が発表されたのはその6年後、メンデルによってなされました。当時、メンデルの遺伝学では「変異は遺伝子によって起こるので、生物の形は突然変化する」と説明されるので、変異は連続的だとするダーウィンの説とは矛盾し、両者は別の仮説だと考えられていました。しかし1930-40年代に、メンデルのいうように確かに遺伝子は不連続に変化しますが、それによって引き起こされる形質変化は微細なものだということがわかり、ダーウィン自然選択説とメンデル遺伝学が融合してネオダーウィニズムが登場しました。従ってネオダーウィニズムでは「偶然起こる遺伝子の突然変異が、自然選択によって集団の中に浸透していくことで、生物は進化していく」と考えます。

 さらに1968年集団遺伝学者の木村資生が「分子進化の中立説」というものを唱えネオダーウィニズムに一石を投じました。それによるとほとんどのDNAの変異は適応的でも非適応的でもなく、個体群中に拡散するのは偶然だと考えます。これによりネオダーウィニズムは修正され、現在では突然変異、自然選択に加え、DNAの変異が定着するのは自然選択というより偶然によるという「遺伝的不動」(他に「獲得形質の遺伝の否定」)を中心的な主張としています。

 ネオダーウィニズムは遺伝子と形質が一対一対応していることを前提としています。しかし実際にはそうはなっていないそうです。多細胞生物の小さな進化と、細菌の進化を説明することには成功していると言いますが、種を超える大進化や本能行動、擬態などネオダーウィニズムでは説明できない現象も多くあります。進化のメカニズムを理解するには個々の遺伝子ではなく、複数の遺伝子の調整ネットワークや環境を調べることが重要になってきます。

 

 そこで第3章では、発生(=多細胞生物が受精卵から完成した個体になるまでの過程)において作用する遺伝子群の発現パターンの変化から進化を解明しようとする「進化発生生物学(Evolutionary developmental biology:通称エボデボ)」について説明されます。

 発生とは別の言い方をすると「細胞に特別な役割をプログラムしていくプロセス」です。ヒトの場合、「内部細胞」(受精卵が分裂した初期胚の一部)→「体性幹細胞」(限定された種類の細胞にしか分化しない)→「体細胞」(皮膚、筋肉など様々な機能をもつ)へと分化していきます。幹細胞は分裂して同じ幹細胞、または分化した体細胞を作ることができる細胞です。

 ヒトの場合一度分化した体細胞が幹細胞に戻ったり他の体細胞に変わることはありませんが、体細胞を人工的に幹細胞へと戻し、人体のどの部分の組織にもなれる能力を持たせる細胞がIPS細胞(人工多能性幹細胞)です。

 例えば皮膚の細胞として機能するようプログラムされた体細胞をもとの分化する前の細胞に戻すことはできませんが、特定の遺伝子を人工的に導入することで体細胞を初期状態に戻し(リプログラミング)、そこから様々な分化した細胞を作ることが可能になったそうです。いわば「細胞の時計の針を逆回しして、もとの細胞に戻す」技術です

 IPS細胞が開発される以前に再生医療で注目されていたのはES細胞(胚性幹細胞)でした。胚とは多細胞生物の初期の個体発生段階を指し、その内部から内部細胞塊を取り出し培養したものがES細胞です。ES細胞のすぐれた点は、分裂しても別の細胞に変わっていかず、もとのES細胞のままでいられる点です。だからうまく刺激を与えれば皮膚・骨・筋肉といった体細胞へと分化させていけるのです。しかしヒトの胚をもとにしているので体細胞に分化していく能力を持っているのは当然で、「細胞の分化をストップする方法を発見した」にすぎず、また受精卵を殺すことから倫理的な問題もありました。

 目的の細胞で発現している遺伝子を導入することなく、遺伝子の発現パターンを変える手段として注目されたのがSTAP細胞( 刺激惹起性多能性獲得細胞)でした。これはのちに捏造だったことがわかりましたが、理論的には全く荒唐無稽な話ではなかったそうです。

 STAP細胞論文の要点は「マウスの免疫細胞(T細胞)を酸に晒すなどしてストレスを与えるだけで、細胞がリプログラミングされる」ということです。要するに環境の変化によって遺伝子の発現パターンが変わるということの「発見」でしたが、既に発生学には環境変動による形質の変異が世代を経て遺伝的に固定化するという「遺伝的同化」という現象が発見されていました。従って生物学的にはまったくありえない話ではなかったといいます。しかしその後の調査により、STAP細胞は既存の多能性細胞であるES細胞からつくられたものとされ、論文の結論は否定されました。

 

 第四章では遺伝情報を自在に書き換えることができる「ゲノム編集」について解説されます。従来の遺伝子操作の一般的な方法は、置き換えたい遺伝子を組み込んだウイルスを送り込み、目的の細胞に感染させることでゲノムに新しい遺伝子を挿入するというものでした。(ここではウイルスが他の細胞の中でしか生きられないことを逆手にとり、ウイルスを運び屋=ベクターとして利用しています。)しかしこれでは遺伝子を置き換える場所までは指定できず、挿入する遺伝子がどこに組み込まれるかは運次第だったそうです。それに対しゲノム編集では遺伝子の書き換えや破壊をより確実に実行できます。2013年に実用化された「CRISPR/Cas9」という画期的なシステムによってそれが簡単にできるようになりました。この仕組みについてはいまいちわからなかったのですが、もともと真正細菌古細菌がもっていた免疫システムだった「CRISPR/Cas」をゲノム編集のツールとして応用したものだと理解しました。

 2015年には中国の研究チームが世界で初めてヒト受精卵に適応したと発表し、日本でも政府の生命倫理専門調査会は「基礎研究に限って認める」との見解を示しました。しかしゲノム編集のヒトへの応用は親や親権者が望むデザイナーベイビーを生む出す可能性もあり、倫理的な問題が生じます。新技術のそうしたリスクや管理方法などの情報を社会の人たちと共有し、社会全体の合意形成を図りながら研究を進めていく姿勢が重要だと言います。

 

  IPS細胞の問題点や、とくにゲノム編集の技術によるデザイナーベイビーの誕生といった倫理的な問題に関心を持ちました。そうした方向で時間のある限りまた別の文献にあたっていきたいです。

 

文献:池田清彦『進化論の最前線』(インターナショナル新書、2017年)