文字の表面を追っていくだけで十分:最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 初めて読み終えた詩集。

 最果タヒは1986年生まれの詩人、小説家。2006年に現代詩手帖賞を受賞し、2007年詩集『グッドモーニング』を上梓。翌年京都大学在学中、同作で当時女性最年少の21歳で中原中也賞を受賞した。2014年詩集『死んでしまう系のぼくらに』で現代詩花椿賞受賞。本書『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は2016年の詩集だ。(2017年に映画化もされている。) 現代最も注目されている詩人の一人と言って問題なさそうだ。

 

 青色とオレンジ色の水玉模様が目立つポップな美しい装画。厚手のページをめくると縦書きの詩もあれば横書きの詩もあり、片方のページが真っ白だったり、これが詩集なのかと読み始めるのがワクワクする。

 

 僕は普段詩集なんてほとんど読まない。これはたまたま父からもらった本だ。しかし、ここにはネットや文芸誌、新聞に掲載された43本の詩が収録されているが、それらを読み進めていくうちに、僕は本当は詩が好きだ、いや正確に言うと最果タヒの詩が好きだということを自覚していった。

 あとがきにこう書かれている。

 

「レンズのような詩が書きたい。その人自身の中にある感情や、物語を少しだけ違う色に、見せるような、そういうものが書きたい。(中略) 私の詩を少しでも好きだと思ってもらえたなら、それは決して私の言葉の力ではなくて、最初からあなたの中にあった何かの力。」

 

 詩人は始めから何か「意味」を伝えようとしているのではなくて、読者との共同作業で新しい景色をつくることを目指しているようだ。

 読んでいくうちに、詩の「意味」を読むことはしばしば無意味だと思うようになった。詩は縦書きだったり、横書きだったり、句点があったりなかったり、助詞がなかったり、「である調」がいきなり「ですます調」に変わったり、本来漢字であるべき字が平仮名になっていたりと、そういった工夫はあんまり「意味」を伝える点では有効ではない。僕らはただ文の表面を追っていくだけで十分で、テクストに何が起こっているかを静かに眺めればよいのだと思う。そうすれば自然に新しい風景やメロディーが浮かび上がってくる。

 

 例えば『彫刻刀の詩』の次の一節

「水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。」

たぶん初めて見るこんな文では、「水」と「春」が何か自然に清冽な透き通ったような瞳の景色を導いてくれる。

 

 あるいは『栞の詩』の一節

「さよならがきれいに言えないから、きみは子供だ。/いつまでも、死がこわくない」

「さよならをきれいに言う」という言い方はあるようでなかった。なんかドキッとさせられる言葉ではないだろうか。さよならってなかなかきれいに言えない言葉の一つだ。

 

 メロディーが確かに聞こえてくるのは『新宿東口』の一節で、

「生きる意味がない。なんて嘘で、暇が一番、素材の味。命の、素材の味がする。」

これはほとんど音楽といってもいいと思う。

 

「そこにいるだけでいいって、愛しているって、/コピーペーストみたいなことばで心臓守っている」

という『渋谷の詩』の一節からも、遠くからメロディーが聴こえてきそうだ。

 

 普段は学術的な本を中心に読んでいるが、やっぱり心のどこかで乾かないように詩とか文学を欲しているし、身も蓋もない言い方をすれば、人であるということは、詩的であるということなのではないか。

 

 最後に、本書に収録されている詩の一貫したテーマは「愛」だと思う。いろんな愛の経験があればそれだけ心に響く詩集だと思う。僕もいつか再び読んだらまた違った景色が見えるかもしれない。不断に変化し続ける自分につられて、この詩の味もまた変わっていくだろうか。

 

 

 文献:最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア、2016年)

 

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ