現代の「科学者の社会的責任」論:藤垣裕子『専門知と公共性』


【感想】

 まず本書のあとがきの一節を紹介することから始めたい。
 著者が学生時代水俣、福岡スモンの会、北海道スモンの会などの現地訪問や関連書籍に接するなかで一番心に刺さったのは「学者は私たちの声をあまり聞いてくれない。学問は人のためになることをするのではないか」という問いかけであったという。もし学問をきわめること(つまり過度に専門化すること)で現場にこのような声が届かなくなったのだとすると、一体学問をやるとはどういうことだろう、という疑問が本書の出発点だったそうだ。この文は個人的に心に響いた。文学者の唐木順三のは、かつての科学者への研究の没頭と倫理観の欠如を糾弾する「科学者の社会的責任」論を書いた。しかしそれはなぜそういう状況が作られるのか、その状況を改善するにはどうすれば良いのかに展望を与える記述を含まなかった。そしてその責任を果たす「回路」も作られてこなかった。そこで筆者が20年の歳月をかけて70年代以降の理論蓄積を元にその回路を提出する試みが本書である。つまり唐木順三に続く現代版の科学者の社会的責任の議論のベースを作ったのであり、その意義は大きいと思う。
 しかし、同時に確認しなければならないことは、この本が出版されたのは2003年だということだ。東日本大震災による東電の原発事故の前のことである。一読した限りで、本書で原発について取り上げられているのは、高木仁三郎の反原発運動に関連する箇所と、従来の啓蒙型のPAモデルの例、それから事故責任をババ抜き的発想で処理してしまうことの危険性を述べた例としてJCOの事故を取り上げているに過ぎず、主要な問題として取り上げられてはいない。少なくとも科学技術社会論はあの原発事故を防ぐことはできなかったという点は噛みしめなければならないと思う。その意味で本書で展開される多様な利害関係者が公共空間において社会的合理性を形成し、政策決定に生かすという発想はあくまで理想的な「絵に描いた餅」だという感は拭えないし、本書の議論は事故後さらにアップデートされなければならないと思う。そしてそれは実際にされていると思うので、それらも追いかける必要があると感じた。
 本書は学術書としては読みやすいものだと思う。難しい問題を筆者はときにチャートを用いながら丁寧に整理してくれるので、途中で混乱することが少なかった。またSTS(科学技術社会論)の教科書の役割も担っているので、状況依存性や変数結節論などのキーワードを正確に学ぶことができる。

 

【要約】
 第一部:専門主義の源泉(第1-3章)では科学者の専門維持機構とそれによって生み出される知識の特徴を描く。
 科学的知識の生産単位としてマートンは科学者共同体を用いたし、ラトゥールらは実験室を単位にしていたが、筆者は専門誌の編集・投稿・査読活動を行うコミュニティーである「ジャーナル共同体」という単位を提唱する。それは(1)業績はpublishされることで初めて評価されること(2)信頼ある専門誌にacceptされることでその正しさが保証されること(3)その種の専門誌に掲載許諾される論文を作成する教育をすることから科学者の育成が始まること(4)科学者の予算獲得と地位獲得にはこうした論文の業績リストを元に行われる、といった科学者の研究の判定、蓄積、後進育成、社会資本の基盤にとって重要な役割を果たしているので、それらの振る舞いを記述する上で有効だからである。
 ジャーナル共同体で知識の審判の役割をする査読システムにおいては、その分野の常識にあった書き方がなされていなければ論文はrejectされてしまう。専門家内での問題意識は「洗練」され、その洗練にあっていないものは弾かれるようになってしまう。したがってタコツボ化が進行する。言い換えれば、この査読システムは専門分化に正のフィードバックがかかっている。
 また科学者の責任感はジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされているので「実験データが足りない」「調査に時間がかかる」と判断することがある。しかし市民は「データを隠しているのでは」という反応をすることがしばしばある。つまり市民や公共にとって「不信」と見えたものが実はジャーナル共同体に対する「忠誠」であることがある。
 また研究者は業績に妥当性境界をレフェリーシステムとの相互作用で半自覚的に身につけることでそれ以外の領域における妥当性境界を評価できなくなる。これが学問の異分野摩擦の原因にある。またこの妥当性境界は分野の責任境界でもある。
 ここで重要なことは専門誌における審判の境界=妥当性境界(validation-boundary)は、確固たるものが最初からあるのではなく今、まさに作られつつあるという点である。だから当然明文化されてもいない。引用という行為の前後で知識内容は異なってくるという意味で科学の知識は常に書き換えの途中なのである。したがって事後の知識=すでに構造を形成しつつある知識と作動中の知識とを区別する必要が有る。にもかかわらず現実に流通しているイメージは事後の知識=常に客観性をもった「硬い」科学観を前提にしており、それゆえ公共の意思決定において科学が裁判官の役割を果たすと期待してしまう。そのことを市民・行政・科学者も理解してたら科学と社会とのコミュニケーションギャップも少なくなるのではと述べる。
 第二部:専門主義と公共性(第4-10章)では公共性について考え、公共のための科学とは何かということを考える。
 科学技術を社会の中に埋め込んでいく交渉の場を公共空間と呼ぶことにする。原語はハーバーマスによってだされた私的・政治的・経済的領域から独立した自立した領域としての「公共圏」であり、エドワーズはこれを科学の意思決定の行われる場に応用した。
 政治哲学の公共性をめぐる議論と、STSにおける公共性の議論の違いは、一言で言えば政治哲学では硬い科学観を基礎としているということである。
 公共性ということはジャーナル共同体の仕組みと正反対の性格を持つ。なぜなら前者は(1)誰もがアクセスでき(2)同一性を持たない=差異を前提とした言説空間である(3)排他的帰属を求めないが、後者は(1)科学者の中に閉じて(2)妥当性境界を維持するという価値の共有がなされ(3)同一性が支配しているからである。こうした矛盾が問題視されるようになってきたのは、1980年代の酸性雨チェルノブイリの事故、90年代の地球温暖化や遺伝子組換え技術の発展により、科学に説明責任を求める社会に可能性を求めるようになってきたからである。
 興味深いのは科学者の妥当性境界と公共の妥当性境界が反転することがあるという点だ。例えばO157のような社会的問題の特定の場合、科学者共同体がより厳しい根拠を求めても「予防的観点」からより緩い基準で行政判断すべきであった。一方薬害エイズのような問題の場合、科学者共同体が判断根拠を求めて試行錯誤しているときは、「予防的観点」からより厳しい基準で安全性が確保されなければいけない。このように不確実性の扱い方によって責任境界の引き方が異なる場合が有る。
 なぜ科学者集団と公共性の妥当性基準は異なるのか。それは「状況依存性」と「変数結節論」という概念で説明される。
 通常科学的事実は科学者内部の方法論に則った、理想的条件(理想系)のもとで成立するが、社会的場面(現実系)に応用する場合にはその知識は妥当するとは限らず、その現場条件に状況依存してしまう。つまり科学データはその取得された条件に「状況依存して」成立する(Scientific ideas are contingent with conditions)のであるが、その仮定が忘れられてしまい、そのような条件でも成立するかのように考えられているからこそ、矛盾が生じるのである。現場では現地で経験してきた実感との整合性を持って主張される現場の勘=ローカルノレッジの方が「裏をかく」ということは往々にしてありうる。STSはそういった現場のローカルノレッジを意思決定の仮定に取り込む仕事を担わなければならない。
 また理想系と現実系では変数選択のあり方=近似のしかたが異なることがある。近代科学の理論構築は実験室のような理想系を基礎としてなされている。いかにして現実世界を本質的なものと無視できるものに分け、後者の項を捨て、本質的なものを近似の式で解いていくかが問われる。物理でも摩擦や空気抵抗を無視することで美しい運動方程式が導かれ、方程式が解けるようになることを経験したことがあるだろう。しかし実験室科学と現場科学では注目すべき対象とノイズの比=SN比が異なることがある。つまりある理想系においては無視できる摩擦などが、現実系では本質の側に回ることがある。また次のように言い換えることもできる。科学は連続する出来事のなかからどのような測定項目を取り出し、どのように測定するかを決めることで、誰がやっても再現できるように手続きを明確化する可操作化というプロセスが入る。しかし項目の採用、測定、近似といった「変数結節」のプロセスは何を大事なものとし、何を無視するかというSN比の問題が入る。あるいは心理学の用語を用いて、何を「図」として何を「地」とするのかと言ってもよい。そしてその変数結節は文化や専門分野によって異なってくる。むしろジャーナル共同体の内部ではその変数結節が固定化されている。専門家はその専門の語彙ネットワークの中で固定された変数結節があるからこそ、その知見を蓄積することができるのである。問題は標準化し操作的概念となったものが一人歩きし始めることである。それは手続き的には妥当だが、正しいという保証はない。つまりこうした過度の一般化(over-generalization)はいわばある理想系の変数結節を現場に押し付けることであり、問題である。どの変数結節が評価され、どれが批判されるべきかということが、社会的合理性が担保された意思決定プロセスの中で決められなければならない。
 さて日本では従来利害関係の調整の場は行政であり、統治者ー被統治者の対抗的関係に依拠したパターなりスティックな枠組みで解こうとする傾向が強かった。それは60年代70年だいの科学批判の範型となっていた体制/反体制図式と言い換えてもいい。つまりそれは行政当局や大企業は悪、一般市民は被害者という図式で、科学はそこに判定を下す立場にあった。しかし現在科学と社会との間で起きている問題は科学者にも答えられない問題だが、今現在社会的合意が必要という問題である。さらに利害関係者(stakeholders)も多様で、市民も賛成ー反対に分かれ、一国の支配ー被支配の関係に収まらず、他国との外交も関係してくる。したがって科学者も含めた利害関係者が集まり専門家、市民、行政、企業が各セクターの枠を超えて利害調整する必要が出てきているのであり、双方的PUSモデルが必要になってくるのである。
 そこでの責任追及は二度と同じことが起きないようにシステムの再設計のためになされるべきであって、特定の個人を責めても意味がない。むしろシステム全体における意思決定の意向、情報の流れ、責任境界の設計のほうを検討し改変していくべきである。公共空間において利害関係者(stakeholders)が責任を取るシステムを構築しなければならないのである。

 

【議論】
・科学的合理性だけでは判断できない様々な問題に対して、公共空間に多数の利害関係者が集まって社会的合理性を定め、意思決定していくという方法は現実的に不可能ではないか。それぞれのstakeholdersが公平であることはありえないし、その中にも権力関係は存在するはずだと思う。
・60年代から70年代に支配的だった体制的科学批判では、科学が判定を下す立場にあったというが、その論理的なつながりが不明。科学がジャッジする立場にあったことと、体制的科学批判の図式はどう関係しているのか。
・現在では利害関係者が多様化し、市民も賛成派と反対派にわかれ、単純な企業、政府=加害者/市民=被害者の図式は成り立たなくなっているとのことだが、なぜそうした変化が起きたのだろうか。これは科学論の範疇を超えるかもしれないが非常に疑問。
・市民、行政、科学者らが硬い科学観=一枚岩的な科学観を刷新させることが科学コミュニケーション上重要だとのことだが、本書で別の観点から見ると科学の一枚岩を前提にしている点があるように思える。というのは状況依存性や変数結節点といった議論や、ジャーナル共同体における妥当性境界の変化を論じるときに、やはり科学を一枚岩的に想定していると思われる。例えば妥当性境界の変遷では臨床心理学の事例があげられているが、その例だけで科学全般に論を敷衍するのは少し疑問が残る。(そもそも臨床心理学を物理学と並列にして科学と扱って良いのか。)状況依存性や変数結節点についても同様で諸領域をひとまとめに論じることは本当にできるのだろうか。
上記の疑問に関連して、本書では「科学そのものの変容」について科学の内側からの視点があまりないように思われる。そもそも科学的合理性が担保できなくなっているのは特にどのような領域においてなのかといったことは議論することができると思う。(例えば人間という複雑系を対象にした心理学や疫学といった人間科学、あるいは対象を直接観察できない地震学といった領域ではその他の自然科学に比べて不確実性が入り込む余地が高いなど。)
・科学者の妥当性境界の維持という活動はクーンの「ノーマルサイエンス」と関わる部分がある気がした。

 
 

文献:藤垣裕子『専門知と公共性−科学技術社会論の構築へ向けて』(東京大学出版会、2003年)

 

専門知と公共性―科学技術社会論の構築へ向けて

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