進化論の展開:佐倉統『進化論の挑戦』

 

 今度ダーウィンの『種の起源』を読むのでその予習として読んでみた。

 

  最初、進化論のその後の学説史的な内容を期待していた。確かにそう読むことも不可能ではないが、扱う範囲が広すぎて系統的な学術書というより雑多な読み物だったというのが読後の正直な感想だ。

 論の進め方に慎重さが欠けているといった印象も受けた。例えば生物の大きさの幅を論じるに際してイヌとヒトの違いはウイルスとクジラの差(ソフトボールの球と太陽の違いに相当)に比べたらわずかなものだという箇所がある。ただ実際、ウイルスを生物だと言い切ってしまうことは若干問題で、少なくとも何の断りもなく書かれていることに読んでいて違和感をもった。他にも、進化論を認めようとしない人びとの論理や言い分に触れることなく、「もしあなたがそういう類の人たちであったならば、ただちにこの本を読むのをやめていただきたい」という記述も見られるが、これも少し性急だという気がした。進化論を認めない人たち、たとえばクリエイティブ・サイエンティストらの主張(レトリック)は実際慎重に吟味するに値するほどよくできている。(ただ文庫本のあとがきで5年後に読み返して未熟で思慮が足りなかったと省みているので安心したが。)

                                

  とはいえ、この「雑多さ」はもちろん進化論のすそ野の広さ、その後の様々な分野へのインパクトの大きさを表しているとも言える。

 

 進化論の原点になった書物であるダーウィン種の起源』(1857)。彼はこの本の出版には慎重だったらしく、人間は対象のその外に置きこの中では人間以外の生物の自然選択理論を唱えた。その後メンデルが突然変異を重視する遺伝学を唱え、1940年代初頭に両者の理論が統合され「ネオ・ダーウィニズム」といわれる理論が誕生する。

 進化論は社会的な影響も大きかった。進化論が生まれた19世紀イギリスは優生学のメッカでもあった。同時期に活躍したハーバード・スペンサーは社会も一つの有機体であり、生物同様に自然選択で進化するという社会進化論を唱えた。社会も適応し、進化しなければならないとしそのためには社会的に不適応な人間は淘汰されるとされた。

 優生思想は何もイギリスの専売特許だったわけではない。19世紀後半から20世紀初頭にかけて優生学の嵐が吹き荒れていた。それは当時の科学は万能だという科学主義の時代精神が支えていた。アメリカでもスペンサーの社会進化論を取り入れ、早々と優勢断種のための法律を整備した。同じ頃ドイツでは1895年にアルフレート・プレーツが『民族衛生学の基本方針』という本を出して、以後優生学はドイツの生物学の底流になり、最終的にはヒトラーの人種隔離政策に至る。

 戦争も終わった、『種の起源』の出版から100年後の1958年、ダーウィンが残した未解決問題、つまり生物にはなぜ利他行動が存在するのかの理由に迫る理論をロンドン大学ホールデンが発見し、のち64年にウィリアム・ハミルトンが定式化に成功する。これが「包括適応度」という概念で、これはある個体の適応度を考えるときは自分が助けた個体の適応度も考慮に入れなければならないという考えだった。さらに生態学エドワード・ウィルソンはこの理論を人間まで統合した「社会生物学」というディシプリンの誕生に寄与した。さらにこの延長にリチャード・ドーキンスが位置し、彼は『利己的な遺伝子』で、包括適応度を遺伝子の観点から捉え返し、個体の利他行動は遺伝子の立場から見ると利己的であると主張した。

 さらに1984年のエドワード・ウィルソンによる「自然を愛する心性は人間に遺伝的に組み込まれたものだ」というバイオフィリア仮説といった理論まで生まれる。

 

「人間行動学」という講義でもハミルトンの法則などを教わった記憶があるが、その内容は社会生物学とさほど変わらないのかもしれない。

 

 ここで人間の形質や行動を進化論的観点から捉えるこうした社会生物学はかつての優生学や社会ダーウィニズムと何が異なるのかという疑問が生じる。社会生物学はそれらの再来なのだろうか。これはなかなか難しい問題だし、興味深い。

 

 現代の社会生物学では二つの条件が満たされていることが求められる。一つ目は「である」ということと「べき」ということ、つまり事実命題と価値命題とを区別するという条件である。仮に男性がレイプとか不倫を起こす傾向が遺伝子的に認められるとしても、それはそうしてもよいということは意味しない。二つ目は進化と進歩の区別だ。ある個体が適応するということはたまたまある環境で多くの子孫を残せただけのことであって、それはその種が優れていることを意味しない。

 確かに以上の条件は納得できるものだが、これらが満たされていれば優生思想とは結びつかないと保障できるだろうか。それとも一皮むけば優生学になりかねないのか。

 

 僕はひとまず優生学と区別できると思う。ただし条件そのものが有効なのではなく、教育の段階では「これで優生学と区別できるか」といった問いが生まれることが有効だと思う。自分で問いを立てて考えることが一番重要なんじゃないか。

 

 ただしもちろん科学的知識は教育活動を通じる以外のルートでも流通する。                                  

 筆者は仮に人種差別や性差別を支持するような証拠が出たとき、「科学的な成果」を一般に普及させてもいいのだろうか、と問題提起している。科学知識が社会の中でどのように流布していくかという知識の流通経路の在り方が問題であり、科学者には知識の「製造物責任」が問われるべきであるという。確かに社会の中には特定の政治団体や雑誌など自らの主張(イデオロギー)に都合のいい科学的知見に渇望している人がたくさんいる。そういった状況の中で知識を生産するということは科学者の好むとこのまざるとに関わらず自動的に権威をまとい、それ相当の責任が生じるのだという。

 

 社会生物学のような研究者であればとりわけこうした問題にシビアであるのかもしれないが、これはその他の領域についても言えることだと思う。いやむしろ他の領域の方が間接的である分、知識の流通過程により敏感にならなければならない。

 しかし「製造物責任」があるとはいえ、具体的にどうやって責任を取ると良いのだろうか。

 そのあたりのことを考えるにはたぶん自分自身にまだ十分な素地が身についていないと感じる。

 

 次は『種の起源』を読みます。

 

文献:佐倉統『進化論の挑戦』(角川ソフィア文庫、2003年)