「異端的な」科学者たちの思想:吉岡斉『科学者は変わるか−科学と社会の思想史』

 

 14日(日)に著者の吉岡斉さんの訃報のニュースを見て驚愕しました。本書を読んでいる最中だったからです。また去年の7月にSTS科学技術社会論)の研究会でデュアルユース問題を議論するということで国士舘大学へ行き、吉岡さんのプレゼンを聞く機会がありました。そのときに全く病気の兆候はなくお元気そうに見えたので尚更このニュースには驚きました。本当に残念です。
 原発がこの状況では吉岡さんこそさぞ残念なことだったでしょうとゼミの先生はおっしゃいましたが、本当にそうだと思います。
 吉岡さんは福島の原発事故後に政府事故調の委員を務め、また「原子力市民委員会」の座長として脱原発運動を牽引されてこられました。不朽の書物である『原子力の社会史』を始めとする多くの遺された本から学んで、原発問題等について次は私たちが考えていかなければならないと思います。

 吉岡さんのご冥福をお祈りいたします。


 さて『科学者は変わるか』1984年に書かれた吉岡さんの二冊目の本です。読むことになったきっかけは戦争と科学者の問題を考えるのに際してゼミの先生から勧められたことです。
 本書の狙いは現代科学の根本的欠陥などについて悩んだりしない「平均的な」科学者ではなく、そこから脱却しようとした「異端的な」人々の思想的模索を試み、これからの科学と社会との好ましいあり方を考える手立てとすることだと冒頭に書かれています。具体的にはバナール、坂田昌一武谷三男湯川秀樹朝永振一郎、広重徹、梅林宏道、柴谷篤弘高木仁三郎らの思想が取り上げられ、それらを批判的に検討します。「批判する」ということの重要な任務は限界を示すということです。彼らは確かに科学が孕む根本的な矛盾を認識した「異端的」科学者であったわけですが、しかしそれでも彼らの議論には限界があり、その点著者が鋭い指摘を加えます。また副題に「科学と社会の思想史」とあるように単にそれらの科学者を個別に論じていく本ではありません。歴史的な事実を振り返りながら現代科学全体について包括的に論じた書物です。

 本書全体を取り上げることは無理なので、第1章の科学者の社会的責任と第4章の日本の原爆開発について取り上げ、少し考えて見たいと思います。

 

 

 科学者の社会的責任といった言葉を聞くと、「科学の成果の社会的利用に際して乱用や悪用が起きないように適切な助言や勧告を提供する」といった内実が思い浮かぶと思います。この考えのルーツは原爆投下にあると考えられますが、実は科学者の社会的責任という言葉は歴史的に見ると必ずしもそう意味ではありませんでした。つまりこうした考えはあくまで「現代的な観念」です。
 社会的責任という観念を生み出す源泉となるのは、社会において科学が極めて重要な役割を生み出す状況が作られ、またそうなるべきだという意識が科学者の間に広がる時期であるはずです。それは19世紀後半からで、その頃から1950年代まではいわゆる「体制化」の過渡期でした。そしてそれは科学者の地位向上運動の全盛期でもありました。科学は独立した営利事業とはなりにくく、市場原理によってたちまち淘汰されてしまうため、国家が人為的に普段に市場を創出する必要があります。そのため職業としての科学は国家に全面的に依存する社会制度になります。科学者は自らの社会への貢献を訴え、国家を交渉相手に地位向上運動を行う必要がありそれを通じて援護の増大を正当化することが「科学者の社会的責任」の源流でした。

 今でも例えば研究の中心である国立大における科学研究は主に国家からの資金つまり国民の税金で行われているに違いありません。そのことは科学者は念頭にあると思います。従って国家の方針に合わせて研究を行うというのは科学者の基本姿勢になるのだと思います。そのことが大学の軍事研究の問題を考える上での前提になると思います。

 科学の「国家への貢献」とペアになって強調されてきたことがあります。それは「人類への貢献」です。両者はいささかも矛盾しないものとして扱われてきました。しかし科学と国家の間には直接的な繋がりがありますが、科学と人類を結ぶ絆はないに等しいです。つまり実質的には前者のみを強調し、人類への貢献はレトリックにすぎなかったと著者は指摘します。
 とはいえ科学を社会に対して正当化するナショナリズムというイデオロギーを乗り越えようとする契機もたしかにあったと言います。
 それは1918年に結成した全英科学労働者組合(NUSW)が1927年に出した綱領「科学労働者協会」です。その中に悪用反対の論旨が一行だけあるといいます。ここで軍事的貢献をみづから規制する姿勢を示したことは、人類への貢献という目標を国家への貢献とは独立のものとして考え始めた、素朴なナショナリズムからの脱却を見て取れます。
  NUSWは1930年代には反ファシズム運動の中心的組織となり、「科学者憲章」の草稿をかいたバナールが中心的役割を果たしました。しかし科学者憲章のなかでは科学者の地位向上が強調されており、科学者の罪の意識はほとんど含まれていませんでした。


 さて次に日本における原爆研究の事例について簡単にまとめます。あまり知られていませんが、日本では理化学研究所の「二号研究」と京大の「F研究」というコードネームを持つ二つの原爆研究が存在しました。「二号研究」の方は45年4月の空襲でウラン分離筒が破壊され中止になり、「F研究」は湯川秀樹も関わっていましたが、理論計算とディスカッションに終止しました。マンハッタン計画が正式なプロジェクトとなるのは43年の秋で「二号研究」より半年あまり早かっただけです。にもかかわらず日本の原爆計画はほとんど進展しませんでした。理由としては

  • ウランを始めとする資源調達が困難だったこと
  • 大規模な計画を支える工業生産力がなかったこと
  • それにおいうちをかけるように空襲が開始されたこと

に加えてさらに決定的だったのは、軍部と科学者が一体となった強力な開発体制が組まれなかったことが挙げられます。科学者らがこのプロジェクトに意欲的でなかったのは原爆開発が不可能に近いことを知っていたからです。ならばなぜ科学者は原爆開発に従事したのか?
 ここが非常に興味深い点で、実は若い研究者を戦場へと送り出さないための口実として、軍部を騙してきたという理由からということが一つ言えます。数少ない原爆関連の本として『昭和史の天皇 第14巻ー広島からの第一報』(読売新聞社、1990年)がありますが、その中にそうした科学者らの証言があります。日本の科学者が原爆研究に取り組んだのはこのような政治的打算に基づいてのことでした。彼らにとって動員プロジェクトに参加するか否かの判断基準は、それが彼らの利益に合致するかどうかだけで、倫理的基準から拒否した例はないと著者は指摘します。
 このあたりをどう考えたらいいのでしょうか?原爆製造は当分無理だろうから、研究に関わっても罪の意識を持たずに済んだし、他人から咎められる筋合いもないという弁明も一理あるように思えます。しかし著者はそれはその場しのぎの理屈であって、政治的打算という行動用しいからすれば開発が十分可能なケースでも協力しただろうと鋭く批判します。

 

 僕は特に湯川秀樹が日本での原爆研究に加担していたにもかかわらず、科学者京都会議でみずからの功罪を不問に付したのは何故かという疑問を感じました。原爆製造は技術的に困難だったとわかっていたから罪の意識がなかったのでしょうか。
 

 実は去年の12月21日に京大は原爆研究について記した終戦前後の日記を公開しました。それらは全て京大湯川記念館史料室のホームページhttps://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yhal.oj/diary.htmlで読むことができますが、膨大な量なので、読むのに時間がかかりそうです。

 

 思考はまだまだ続きそうです。

 


文献:吉岡斉『科学者は変わるか−科学と社会の思想史』(社会思想社1984年)

 

 

※現在残念ながら重版未定状態ですが、大学の所沢図書館で借りることができます。(昨日返却しました。)復刊されることを願っております。