橋本毅彦『<科学の発想>をたずねて』を読みました。

 科学史の入門書である橋本先生の『<科学の発想>をたずねて』という素敵なタイトルの本を読みましたので、感想・要約・議論に分けてそれぞれ書かせていただきます。

 

【感想】 本書は1999年の放送大学の『物理・化学通史』というテキストを加筆補正し、科学史通史としてまとめ直された本です。科学史の記述の仕方はさまざまあると思いますが、この本は科学の直線的な素朴な発展史を避けるように書かれています。キリスト教の教義との対立や統合、魔術的あるいは機械論的自然観の盛衰と興隆、さらには技術や産業との交流といった、形成過程に影響を与えた科学の外にある面に着目しているというのは一つの特徴といって良いのではないでしょうか。

 また科学史の入門書として本書はおそらく「バランス感覚が良い」本と言えるのではないかとも思います。それは例えば物理学史だけでなく、化学史にも多く触れていること、中国科学、原爆開発、さらには現在の巨大加速器の建設過程に一章を費やしていることなどからも分かります。しかし広範囲を扱っているからといって浅い説明に終わっているわけでなく、少ない紙面の中に多くの情報が含まれています。

 正直にいうと11章の実験物理学の誕生、13 章の量子力学の誕生などの物理学史を扱った内容はほとんど分かりませんでした。僕は高校のとき理系にクラスに所属していましたが途中で「文転」したので、物理は実質力学までしかやっておらず、電磁気に関する部分などは理解に苦しみました。ただ客観的に見てもこれは予備知識なしの文系の読者にとって読みづらいところはあるように感じます。(以下の要約でも物理学史の部分と他一部を省略しました。) 

 一方今まで分からなかったことが腑に落ちたという箇所もあります。たとえば、プトレマイオス天文学の説明です。周転円や離心円、エカントといった技巧的概念を導入して惑星や太陽の運動を正確に説明するこの理論は天動説とはいえ決して非科学的なものではなく、十分科学的といえる精緻な理論だったといった説明はよく目にしますが、結局どんな理論なのか、その内実はブラックボックスのままでした。本書ではプトレマイオスが水星の運動を説明するために用いた図が示されており、幾何学的なパズルをやっている感じといった大体の雰囲気を掴めます。またなぜ仮想的な点を中心にして運動を想定するのかについて彼は何も語らないのであって、彼にとって天文学は予測の道具にすぎなかったという説明はなるほどと思いました。

 

【要約】 文明開化を図る明治政府が招聘した外国人教師の中の一人ベルツは、在職25年を表彰する会で日本人に対し科学の成果だけでなく科学研究の精神を学んで欲しいと述べた。ベルリンに留学した北里柴三郎はコッホのもとで科学的発見の技法や推論の根源にある自然観といった、日本人的な私情を超える実証精神を学んだのであった。しかしそうした科学を育てた大気はなぜ西洋だけに生まれ東洋には生まれなかったのか。アインシュタインは中国やインドで科学が生まれなかったのは驚くに値しない、問題はなぜヨーロッパがそれを生んだのかということであり、ギリシャ哲学が論理体系を作ったこと、ルネサンス期に因果関係を見つける可能性を発見したことに起源があると述べた。

 ミレトス派の自然哲学者といえばタレス、アナクシナネスやヘラクレイトスといった人物が思い浮かぶ。彼らは物質の根源はそれぞれ水、空気、火であると考えた。現在の私たちからみれば単純素朴にみえるこうした発想は、それまでの神話的説明に変わって自然現象の原因を超自然的な原因に帰することなくあくまで論理的な考察によって自然界の中に原因を求めるようになったという点で「科学的」探求の起源といえるのである。ギリシアに自然学が誕生したといわれる所以だ。その後自然界に数学的関係を見出そうとするピタゴラスや原子論を唱えたデモクリトスなど現代の科学に通じる発想も生まれてくる。そしてこれらを体系的にまとめたのがアリストテレスである。

 古代ギリシャではエジプトのアレクサンドリアにおいて更なる発展を遂げるがローマ帝国が地中海を支配すると自然科学の研究は低迷し、代わりにアラビアにおいて発展する。9世紀からシリア・ギリシア文献の翻訳プロジェクトが始まるのである。ここではアリストテレスユークリッドプトレマイオスらの学問成果を継承しつつ部分的に批判修正された。

 そうしてアラビアで発展させされたギリシアの学問は12世紀に西ヨーロッパへ輸入される。暗黒時代ともいわれる中世だが、都市が発展し大学が誕生した時代でもある。大学での研究の基礎を提供したのがジェラルドらを中心にトレドでアラビア語からラテン語に訳された文献であり、これらが教科書として使われた。 

 大学でアリストテレスの読解が進むにつれアリストテレス哲学とキリスト教教義との齟齬が認識されるようになる。1277年パリ司祭のタンピエは219もの命題を「誤った」命題として推定する(=タンピエの譴責)。そうした中、アリストテレスの議論を精緻化しつつもタンピエの譴責に規定された神学の枠組みからはみ出すことなく議論を組み立てていったジャン・ビュリタンが出てくる。興味深いのは投射体の運動に対するアリストテレスの説明を批判修正した理論(インペトゥスが駆動力になって運動するという説明)が近代科学の「慣性」概念に近い発想を提示しているという点だ。

 

 さて話は西洋のコペルニクス革命に移る。コペルニクスは「ウプサラ・ノート」を記していた学生時代に地球の周りを太陽が回り、そのまわりを惑星がまわるというモデルに到達しており、そこから太陽が静止しており地球がそのまわりをまわっていると考えるようになる。そうして地動説を擁護した『天球回転論』のアンドレアス・オシアンダーの序文が興味深い。ここで彼は地動説という仮説を単に観測に一致する計算上の道具として提示しているに過ぎないといわば現象主義的に再構成したのである。その結果大学の天文学者コペルニクス理論を計算の道具として受け入れる傾向になった。一方天体の構造の研究に関わろうとしたのは大学ではなく宮廷付き天文学者らであった。ティコ・ブラーエはデンマーク王の行為によりウラにボルクに天文台を建設し精緻な観測を開始する。1597年には神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の招きに応じプラハに向かい、天文表作成の助手にケプラーが雇われた。彼は後に火星の楕円軌道を導く。

 ところでティコは錬金術のことを地上の星学(terrestrial astronomy)と呼んでいたように天文学錬金術は密接に結びついていた。どういうことだろうか。

 古代ギリシア以来の医学理論は、人間の体内の四種類の体液のバランスによって健康が保たれるというものだったが、パラケルススはなんらかの種子が体内に入ることが病気の原因だと考えた。種子は体内の局所的な器官で成長し、その不純物を排泄することで回復する。そして同じプロセスが地面の中や錬金術実験室でもおこっていると考えられた。つまり天界からの種子が地面の中で成長し金属の鉱石になり、不純物を除去して純粋な金属を抽出する錬金術を人体に適応したのが医化学と呼ばれる分野であった。

 自然界に遠隔的に作用する共感/反感関係をうまく操作することで人の役にたつことを引き出そうとしたのが魔術である。しかし中世キリスト教世界では人間が神の命令なしに魔術を行使することは禁じられていた。しかし15世紀の人間中心主義の中から魔術への肯定的な評価が生まれる。ミランドラは『人間の尊厳について』の中で人間の能動的行為として魔術があると述べた。そして自然界の事象を記録しその知識を利用して有用な事物を生み出していく魔術を実験研究のプログラムとして残したのがフランシス・ベーコンである。

 その後登場した自然観は機械論的自然観である。ガリレオにとって魔術的自然観にような考えは問題外だった。物体に固有の形・大きさなどの性質を第一性質といい、知覚などの人間側に属する性質(第二性質)と区別し、前者こそが数学を用いた自然現象の説明対象であると考えた。またデカルトも精神と物質を厳格に分離し、ガリレオのいう第一性質こそが物質固有の性質だとし、粒子の接触、衝突、運動のみによって自然の全現象が説明されると考えた。また技術史の専門でもある著者は、この機械論哲学の背後には精密機械の普及があると指摘している。つまり滑車や梃子、歯車等の組み合わせでどんな動きでも作り出せるという確信から自然や宇宙も一つの機械であるという考えが生まれたのである。

 さて科学革命を締めくくるのは万有引力の法則でお馴染みのニュートンである。しかしニュートン万有引力にたどり着く過程は必ずしも「科学的」ではない。ニュートンには錬金術研究にも没頭しており、ニュートンの手記を購入した経済学者ケインズは「最後の錬金術師」と表現している。発酵などの化学現象の説明に持ち出される共感・親和性といった概念が機械論的自然観における粒子間にも働いているとしたことが、万有引力という概念に到達していく契機であったというわけである。

 

 ここからは化学史をざっと概観していきたい。

 物が燃えるとはどういうことだろうか。18世紀において支配的だった理論はフロギストン説である。これは土の元素は油性の土と石性の土とに分かれ、燃焼において消散するのは前者であり、ゲオルク・シュタールがフロギストンと名付けたことから始まる。その後スティーブン・ヘールズは空気の成分の中で鉱物、植物、動物に多く取り込まれる空気があることを指摘しそれを「固定空気」と呼んだ。またジョセフ・ブラックは石灰石などから特有の期待が生じることを発見しこれを固定空気と呼んだ。これは今でいうCO2のことである。しかし当時空気は一つの元素でCやOといった元素の概念はなく、この固定空気の発見は空気という元素の概念に改訂を促すものであった。 

 フロギストン理論の最大の欠点は金属が燃焼したときに質量が増加することを説明できないことだった。フランスの科学アカデミーの会員でもあったラボワジェは1772年から燃焼の問題を研究し、硫黄やリンも燃焼すると質量が増加することを発見し、周りの空気が燃焼物質に取り込まれることで増加すると考えた。その後74年にプリーストリーと出会い水銀灰の実験を行い大気から吸収されるのは彼の言う「脱フロギストン」であることに気づく。後にそれが酸に含まれていることがわかると酸素と名付けた。ここに近代的な燃焼理論が生まれた。しかしこれはすぐに科学者らに受容されなかった。化学はドルトンの原子論に基づいてラボワジェの理論をさらに発展していく。

 19世紀に入ると膨大な種類を持つ有機物の組成決定が課題になった。21歳でギーセン大学の教授に就いたリービッヒは実験を主体にした専門教育を企て試料に含まれる水素と炭素の量を決定する装置を発明する。コールタールの分析をしていた弟子の一人のホフマンは1845年にロンドンの王立化学学校に呼ばれ、19年後ホフマンのもとで研究していたウィリアム・パーキンは兄リンからキニーネを合成する過程で黒い沈殿を発見する。これは染料として有効であるとわかると王立学校を中退し染料製造の企業化をした。一方フランスでは1859年にルナール兄弟によって新合成染料が「アニリンレッド」とよばれ販売されていた。これは競合企業と特許係争になった。重要なのはフランスの裁決が、特許の対象は製品であって製造工程に対してではなかった故、(同じ製品の)新しい製造工程を開発しても特許侵害になると判決していた点だ。よってフランスでは工程の開発が阻害されたと言う。

 また19世紀のドイツで染料合成の化学研究をリードしたのはアドルフ・バイヤーである。助手のカール・グレーベとカール・リーベルマンは1868年に茜の成分であるアリザリンの分子構造を決定し翌年合成に成功する。そしてほぼ同時期にパーキンもアリザリンの合成法の開発に成功しており、BASF社とパーキンは特許係争に巻き込まれ、69年にパーキン社が勝訴する。フランスの場合と異なりドイツの帝国特許法は製法の新規生も特許として認められるというものであったことが背景にある。

 また合成染料の開発は1870年代80年代にタール成分からサリチル酸アセトアニリドが合成されるなど、医療品への応用も見つかった。こうして第一次世界大戦までにドイツの有機化学香魚は染料と医薬品の合成で優位に立つことになった。

  

 最後に原爆開発に触れておきたい。

 量子力学の発展は1930年までにひと段落を迎え、その後は中間子などの新しい素粒子が次々と発見され、さらにミクロの世界への探求が始まる。1932年の中性子の発見によって原子核を調べる強力な道具が提供されるようになった。

 エンリコ・フェルミのチームは原子番号の小さい原子から順に中性子をその原子核に打ち込み変化を調べる研究を始め、1934年にウラン中性子を放射し、新たな原子が生まれるのを観測したと報告する。ベルリンのオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーの研究チームが追試実験するが、ナチス政権下でマイトナーはスウェーデンへ渡った。マイトナーが去ったのち、ハーンは中性子を照射したウランの試料からバリウムを検出した。亡命中のマイトナーに説明を求めたところ不安定になったウラン原子核が分裂して、その半分ほどのバリウム原子になったと推論し、この仮説は各地に科学者によって実験的に立証された。分裂後のバリウム原子や中性子の質量を足し合わせると分裂前のウランの質量よりもわずかに少ない。この欠損した質量が相対性理論の公式に従って全てエネルギーに変換されたというわけである。

 ウラン核分裂の発見をいち早く知ったボーアは米国物理学会に出席し報告した。そのころにはユダヤ人の妻をもつフェルミも米国に亡命しており、発見を聞き連鎖反応の可能性を示唆する。またハンガリーからの亡命科学者レオ・シラード、エドワード・テラー、ユージン・ウィグナーの三人は原爆の可能性を知り、ナチスに使用されることを恐れ、先手を打つよう政府に働きかけた。ウラン鉱山がベルギー領コンゴにあることからベルギー女王と親交のあるアインシュタインに書簡を書いてもらうことにする。ただしベルギー女王に直接書簡を送ることには気が進まずルーズベルト大統領宛に送った。書簡は側近により検討され、ウラン諮問委員会が結成。しかし亡命科学者に多額の研究予算を組むことがためらわれ、諮問委員会は一旦解散し国防研究委員会に吸収される。翌年科学研究開発局(OSRD)へ再編され、この下部組織で原爆の可能性が検討された。

 1941年核分裂に関する二つのニュースがあった。(1)カリフォルニア大学バークレー校の放射線研究所でウランよりも原子番号が二つ大きいプルトニウムという元素が人工的に生成されたことと(2)ドイツ出身のイギリスの物理学者ルドルフ・パイエルスの計算によるとウラン235だけを濃縮すると臨界量はそれまでの予想より小さく、数キログラム程度になるとイギリス政府が報告したことである。これを聞き、米国政府は原爆開発を本格的に開始する。開発はOSRDから陸軍管轄下に移管し「マンハッタン・プロジェクト」というコードネームで呼ばれるようになる。 

 ウラン234の濃縮とプルトニウムの抽出が要になる。後者はシカゴ大学の「治金研究所」というコードネームをもつ研究所で数十名の研究者がこの課題に取り組んだ。実験から工場生産への移行は化学企業デュポン社に委託された。また濃縮ウランプルトニウムニューメキシコ州のロスアラモス研究所に運び込まれ、そこで原爆の製造がロバート・オッペンハイマーの指揮のもとで行われた。1945年初頭にはウラン型、プルトニウム型もほぼ完成され、7月16日にアラモゴルド砂漠で実験が行われた。 

 開発が最終段階に入った1945年春に治金研究所の研究者らは会合で原爆投下と戦後の原子力利用に関して議論をしていた。日本への原爆投下に先立って無人島などで国連加盟国の代表者の前で示威実験を行いその上で日本に警告を発し投下に踏み切るべきだと提言した。6月には将来の原子力利用に関して、研究計画・社会的政治的意義・教育・生産・管理・組織という6つのテーマを巡って委員会が設けられ、調査報告が提出された(=フランク報告)。政府高官に提出されたが示威実験の提案は却下され、8月6日に広島にウラン型、9日には長崎にプルトニウム型原爆が投下された。原爆開発に携わったおおくの科学者は衝撃と憤りを感じたという。

 科学者らは米国の原子力委員会の設立にあたり、委員会のメンバーに軍の代表を入れない法案を運動により後押させる。また原子科学連盟を結成し、機関紙『原子科学会報』を発刊した。一方国際管理に関してはフランクの予見通りになり、冷戦体制のもとで軍拡競争がエスカレートしていく。

 

 【議論】

・19世紀の有機化学の発展の背景には企業間の熾烈な競争、企業内の研究所の設立、企業と大学とのあいだの密接な協力関係といった研究体制の誕生と整備があったと述べられている。1911年にはカイザー・ヴィルヘルム協会のもとに化学研究所が設立され大学・企業・国家が三者一体となって研究が進められていく。特に企業間の競争が有機化学の発展を後押ししたという事実をどう捉えたらよいだろうか。例えば現在の日本でも問題になっている競争的資金制度は別の研究にしわ寄せがいく資金格差を生み出すことにもなっているが、競争という仕組みを頭ごなしに批判することは早急すぎるとはいえないか。もちろん現在の経済の仕組みと当時のドイツの仕組みは異なる点があるはずだから単純な比較はできない。また分野によっても事情は変わってくるはずだ。

・本書ではドイツの化学研究は第一次世界大戦まえの産学連携の体制までしか扱われていないが、この後軍との関わりは始まっていくのだろうか。その辺りのことを調べてみたいと思う。

 

文献:橋本毅彦『<科学の発想>をたずねてー自然哲学から現代科学まで』(左右社、2010年)

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)