池内了『科学のこれまで、科学のこれから』を読みました。

 

  先週の読書会で、16日の池内了トークイベントはこの『科学のこれまで、科学のこれから』の内容に関係するとのことでしたので、拝読しました。

 

 以下に感想・要約・議論を記させていただきます。

 

 【感想】

 前回取り上げた『科学者と戦争』で、果たして軍事的経済的な社会的因子が介入せず、自然の法則の探求といった純粋な知的好奇心から行われる科学研究は現実にあり得るだろうかといった疑問を持ったのだが、それに対する答えが「等身大の科学」をやっていこうよという著者の提言によって与えられていると感じた。「等身大」というからには現在の主流の科学研究が人間に見合ってない、様々な利害意識に汚染されているといった異様さを示唆しているようでもある。誰でも自由にいつでも参加でき、大してお金のかからない「等身大の科学」は、例えば「地球温暖化のフィンガープリント」と呼ばれる活動があり、鳥が抱卵したのはいつか、いつ開花したか、虫がいつ頃から蠢き始めたのかといった記録を何十年にも渡って記録し集積していくのだそうだ。それは「新発見」ではなく無視されがちだが、生態系の変遷追跡する貴重な証拠になるという。

私は科学は人間と自然がどう関わっていくかの知恵でもあると思うのだが、「等身大の科学」を通じてそうしたことも肌で感じられそうだ。

 

 政府や文科省からによるトップダウン式の競争的資金配分ではなく、学術会議などを通じて科学者の自治を重視すべきだという指摘もあり、全体を通じて現実問題に対するアクチュアルな提言がたくさんなされているといった印象も受けた。

 

 

【要約】

 1 科学のこれまで

 第一部「科学のこれまで」では、著者の目から見た現在の科学の「異様さ」を幅広い観点から論じている。

 まず最初に取り上げられるのが「要素還元主義の科学」の限界である。要素還元主義とは、「現象をより根源的な要素(部分)に分けて徹底して調べれば法則や反応性が鮮明に現れ、部分の和は全体になり、原因と結果は一対一で厳密に結びつけられる」といった信念に基づく。実際、現代のテクノロジーの諸成果はこの要素還元主義の成功例と言える。しかし一方で学問の細分化が起こり、科学者はごく狭い範囲の専門家となって、その知識の中に安住し傲慢になる「専門家の野蛮性」を生んだ。また要素還元主義が通用しない「複雑系」においても依然として従来の科学で解明できるとの錯覚が「地震は予知できる」といった態度を生み、3・11の事故を起こしたと分析する。

 二つ目に取り上げられるのが「新発見」に対する過大評価である。特に国家が主導して莫大な資金をかけ、多くの研究者を動員するビッグサイエンスではこの傾向が顕著である。現在の日本でいうとIPS細胞がその代表例になるだろうか。「新発見」の過大評価は博物学の系譜につながる分野を無視することになる。(これには例えば何十年ものデータから地球温暖化の変化を読み取り、生態系の遷移を追跡できる「地球温暖化のフィンガープリント」などがある。)

 また「役に立つ」科学への傾斜も「異様」な科学だという。この背景には科学が資本主義と二人三脚で歩んでいることがある。当面の利益のために奉仕することになり、将来への影響を考えなくなっており、科学が未来にいかなる責任を負っているかを考えなければならないと言う。

 さらに科学の軍事利用に見られる産官学の科学の取り込みといった、国家への従属を挙げている。国立大学も2004年の法人化を契機に自由化されるどころか逆に文科省の意思が貫徹しやすくなったといい、研究者は国策に合わせることが習い性になっている。競争的資金獲得のため、教員の多忙化にもつながっている。とりわけビッグサイエンスはどこかにしわ寄せがいくことは間違いなく、その決定を政府・文科省の上からの差配ではなく科学者内部の話し合いによって決めるべきだと著者は述べる。

 またこうした経済論理や競争原理、倫理教育の欠如などからSTAP細胞事件を始めとする科学の不正・疑惑事件を引き起こしたとも分析している。(実際分子生物学の東大教授による20年にわたるデータ改竄、高血圧薬の臨床実験で得られたデータの製薬会社社員によるデータ改竄、J-ANDIが主導するアルツハイマー病の新薬開発の臨床試験における患者データ改竄の内部告発など、近年多くの不正事件が起きている。)

 最後にジョン・ホーガン『科学の終焉』を取り上げ、彼の20世紀後半の50年は科学が物理的、経済的、認識的限界に達しているとの診断を自身の要素還元主義の限界と、「新発見」の過大評価と結びつけている。

 

2 科学のこれから

 第二部「科学のこれから」では、マートンのCUDOSは科学の理想的な描像であり、科学が「異様」に発展した現代においては 単なるお題目と化していることを認識した上で、「より多くの人間が文化としての科学に親しむこと、科学者の役割はその手伝いをすること」という著者の目標を実現するための具体的な提言がなされる。 

  要素還元主義が通用しない複雑系においては統計的な処理をせざるを得ず、確率でしか結果が言えない。この場合私たちはどう対応すれば良いのか。

 まず第一に現在の学校教育では要素還元主義で解決できた問題しか扱っておらず、複雑系に関わる問題に触れる機会がないことから「等身大の科学」を進める必要がある。これは誰もが自由に参加でき、たいしてお金がかからず、普段の生活の中でできる科学の有り様のことで、例えば生態系の観察・記載・記録を仲間とともに進めるというものだ。

 それから1972年にワインバーグが取り上げたトランスサイエンスにも触れられている。トランスサイエンス問題とは「科学によって問うことはできるが、科学によっては答えることのできない問題群からなる領域」のことである。例えば原発の安全基準をどこに定めるかという問題は科学的判断のみによって判断できることではなく、対策の経費や手間が過大にならないようにといった「技術の妥協」も考慮する必要がある。あるいは「共有地の悲劇」に関する問題は科学だけでなく国際協定などの政治的な手法も不可欠になる。さらに著者は非倫理性を含む科学・技術もトランスサイエンス問題に含めるべきだという。例として原発や原爆が挙がるが、それは社会として採用するかどうかを科学以外の要素で決めなくてはならない。

 トランスサイエンス問題を乗り越えるために著者は三つの提言をしている。一つ目が「通時的思考の回復」である。近代科学は現在生きている人間の尊厳を最大限に重視する「共時的思考」を最高のものにしたものの、長期的に見て膨大な損失や子孫への負の遺産を考える習慣を失ってしまったので、未来への影響を考える癖をつけなければならないと述べる。二つ目が「予防措置原則」であり、危険性が指摘されればそれが拡大しないように直ちに中止する原則が必要だと述べる。そして最後が「功利主義への疑い」で、最大多数の最大幸福を基盤とする民主主義社会はいまや単に多数派を形成することのみが目標になってしまっていると指摘し、これからは少数派の意見を重視し、ユニークな思いつきを議論の俎上に乗せていく必要があると述べる。

 現在の科学者の評価基準はインパクトファクターによる論文の被引用回数といったが外形的指標がほとんどで、競争的資金の獲得のためにも論文を量産することに主眼がおかれ、質の高い論文の割合は減っている。そこで著者は科学者の評価の視点として①さまざまな場で市民に科学を伝える②「等身大の科学」の具体的な試みを市民とともに実践する③市民団体(NPOなど)のシンクタンク的役割を果たし科学的力量の向上に寄与する④市民のための科学研究所を設立して相談に応じることなどに重点を置いたらどうかと提案している。こうした視点から評価される科学者が多く存在するようになり、科学の底辺を支えてくれるようになってほしいと述べる。

 最後に等身大の科学の条件(誰でもいつでも自由に無料で参加できる)を満たすオープンサイエンスの可能性にも言及している。一般市民がデータ解析に参加する仕組みやリナックスのOSの改良に参加することなどはデジタル社会であればこそ可能な知的活動だという。さらに著者は今後科学館博物館をネットワークでつなぎ、子どもたちに自分の希望する活動をおこなっている科学館の活動にインターネットを通じて自由に参加できる仕組みを実現する構想を練っていると言う。

 

【議論】

  • 生態系の観察・記載・記録を仲間とともに進めるといった「等身大の科学」はとても興味深い試みだと感じる一方で、子どもたちはその活動を通じて複雑系に関わる問題に触れ、要素還元主義的な思考から脱却することにつながるということがあまりイメージが湧かない。(これは私自身そういった活動に参加したことがないのでなんとも言えないが。)
  • 国家が主導して莫大な資金をかけ、多くの研究者を動員するビッグサイエンスでは、必然的に他の領域の科学研究にしわ寄せがいくという事実は認めなければならない。しかし一方で例えばIPS細胞の研究に莫大な資金提供をすることは、実際にIPS細胞の治療を待っている人がいることや、人間の福祉に多大な貢献を期待できることを考慮すれば一概に悪いこととは言えないし、仕方がないことだとも言えそうである。

 

 文献:池内了『科学のこれまで、科学のこれから』(岩波ブックレット、2014)

 

科学のこれまで、科学のこれから (岩波ブックレット)

科学のこれまで、科学のこれから (岩波ブックレット)