池内了『科学者と戦争』を読みました。

 はじめまして。

 今日から読んだ本の書評を中心に考えたことを記していきたいと思います。

 

 12/9(土)に下北沢のダーウィンルームで行われた読書会で、池内了『科学者と戦争』を読みましたので、その感想・議論を記します。

 

【感想】「科学者」という人種の特性について、内側からの分析が含まれている点が興味深かった。著者は宇宙物理学を研究されていたことから、「科学者」の感じ方を熟知しておられるのだろう。例えば科学者は自然の謎を解明することに無上の喜びを感じるとか、最も研究の自由を感じるのは研究資金が潤沢にあった時期(太平洋戦争中)だったとか、中身より形式を重んじ、ナチス時代のマックス・プランクのように「悪法であっても法」だといった態度をとりやすいといった点は著者ならではの分析で面白かった。常に防衛省のことを気につつ、いつ非公開になるか分からないような状況では科学者も人間性を失っていくし、そもそもそんな研究は楽しくないという指摘は本質をついている気がした。

 私は大学で科学史・科学論を学んでいるが、専門的に自然科学を専攻しているわけではないので、「科学者」の正体に関心があるがなかなか分からない。彼らは実験室の中で何をどのような心理でやっているのか。自然科学の研究は自然の真理を解明している感覚なのか、それとも出てきたデータをまさに「パズル解き」のようにひたすら分析する作業に近いのかといったことに興味がある。

 とはいえ科学者も一枚岩でなく、さまざまな態度の人がいることは間違いない。それに読書会でも少し議論になったが、科学者も自分の専門外のことになると素人にすぎないし、原発事故やSTAP細胞事件で科学者の信頼が揺らぐ中、果たして科学者と非科学者の境界はどこにあるのかという疑問もそれなりに重要なのではないかと思った。

 

【議論】

  • 本書を通じて著者は、マートンが列挙したCUDOsで表されるような民主主義社会を基盤とした科学者の理想的な古典的規範への回帰を求めていると読むこともできる。しかし現在果たして経済や軍事といったあらゆる社会的因子から独立した科学研究は成立しうるだろうか。自然の真理への純粋な興味関心に基づく研究に出す資金はどれほどあるだろうか。そういった理想的な科学はやはり非現実的なのではないか。(この問題は次に読もうとしている『科学のこれまで、科学のこれから』においておそらく論じられるはずなので楽しみだ。)
  • 20世紀末あたりから拡充されたいわゆる競争的資金制度は全面的に悪であり、廃止すべきなのだろうか。それを考えるのに際して「競争」の内実について深く考える必要がある。競争というとはじめから競争のフィールドがあって、そこへ一斉に参加するというイメージがあるが、実際には競争を始めた人間が存在して、競争を始めた人間が競争に勝つようになっているということがある。重要なのは研究者同士の団結によって自治権を高めることにあるのではないか。競争の中では研究者共同体が分断されお互いに敵対関係になってしまうところに大きな問題がある。
  • 科学者への信頼が揺らぐ中、科学者/非科学者の境界線はどこにあるのか。科学は専門家であろうがなかろうがまるで関係なく、人間全員に関わる文化であって、そういった境界自体が無意味なのではという疑問も重要ではある。とはいえ、科学が生み出した問題はある程度まで科学の方法で解決できるというのも事実である。
  • デュアルユース(科学技術の軍事/民生の両義性)の問題は根深いと思うと同時に、それは当たり前のことで今更とやかく騒いでも仕方がないという気もする。読書会でも議論があったが、軍事用だろうが民生用だろうが関係なく一旦自由に科学者に研究させて、出てきたものをチェックする仕組みを設けるという方法もありうるのではないか。
  • 著者はこの本の中で科学者が軍事研究に従事しないようにするために研究資金の出処に注目する方法を提案している。真っ当なファウンディングソースからの資金であれば堂々と自由に研究を行えばよく、軍関連からの資金はきっぱりと断るという方法だ。しかしこの本でも例が挙げられているが、「AOARD」のような民間団体が募集や選考を行い、見せかけは軍の紐付きの援助ではないといったタイプのやり方が新しく出てきたときに当事者以外の人間に判断できるだろうか。その辺りは疑問である。

 

 文献:池内了『科学者と戦争』(岩波新書、2016)