yokoken001’s diary

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Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-2

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 後半(pp.124-178)

 

  ようやく第四章を読み終えました。正直、かなり苦戦しています。特に電子工学に関わる内容はほとんど理解できていません。史料として多数の回路図に依拠しているので、理解するためには通信工学の知識がどうしても必要になってきます。(誘導結合とか高周波トランスってなんだろう?)

 技術的な細部についてはまだまだ理解の途上にありますが、ロッジについての伝記的内容はある程度理解できました。ロッジはやはり科学者であって、特許を申請することや企業の経営には乗る気でなかった姿など、マルコーニとは対照的です。ロッジ-ミュアヘッド社の経営がうまくいかなかった理由は、ロッジの同調回路という利点が十分に生かせる英国市場で展開できなかったことが大きいです。

  20世紀にもなれば、GEやデュポン社など企業内に研究所を持ち、科学・技術の成果を、すぐさま製品に反映させる体制が整備されることは珍しくないですが、19世紀末では、まだまだロッジのような純粋な科学者のメンタリティと、企業家のそれとの差異が際立っていたということがよくわかります。そうすると、やはり無線通信という実験室内での成果を、無線電信システムという形で世界的な事業化に成功したマルコーニという人物に関心が向きます。これは次の第五章の内容で、きっと面白いに違いないでしょう。

 

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 1890年までに、彼の科学的な関心は、既に無線電信を直接改良する方から離れていた。マイケルソン・モーリーの実験(1887年)のロッジにとって「変則的な」実験結果を受けて、物質が移動したときその周りにあるエーテルがそれにともなって動くかどうかを確かめる実験装置の考案に時間をさくようになった。ロッジにとって1894年の実験は緊急を要するものではなかった。彼のコヒーラの特許を申請することさえも不快なことだった。1896年にマルコーニがイギリスに来るまでの間に、ロッジは新しい友人を得た。彼の名はAlexander Muirheadといった。彼は王立協会のフェローの一人で、1894年6月に催されたロッジの講演の聴衆の一人だった。また彼の兄弟は有線電信機器のメーカーを営んでおり、そのパートナーでもあった。Muirheadはロッジのシステムに内在する商業的な見込みを直ちに理解した。オックスフォードでの実験の際に用いられたミラーガルバノメーターなどの器具は彼に負うところが大きい。二人の出会いは、科学的才能と起業家との出会いというだけではなく、有線の成熟した技術(※ミラーガルバノメーターは有線電信の微弱な信号を検知する装置だった。)と無線という新しい技術との出会いでもあった。

 1901年に二人は”syndicate”の創作でより強固な関係を結ぶことになった。これは1894年時点では必要性を感じていなかったものであり、ミュアヘッドMuirheadがロッジに説得していなかったら特許の取得は実現していなかっただろう。ロッジの最初の特許の出願は1897年だが、これはマルコーニの英国到着(1896年)によって促進されたということは、ほとんど疑いのないことだ。(もちろん、マルコーニを強調しすぎることは誤解を生じさせる。1894年のロッジのオックスフォードでの実験で見せた送信機と受信機を用いた似たような装置を用いて無線電信の実験を行なった人物は他にもいるからだ。だが、マルコーニが他の人々と異なっていたのは、彼が長距離通信を実現した点が大きい。) 今日的な観点からすると、これらの装置の著しく欠けていたものは、チューニング(ロッジの言葉で言うとsyntony)と、波が減衰してしまうことであった。ロッジが直面していたトレードオフは、効果的な伝播を求めると鋭い同調を損なうという関係であった。これを避ける方法は、(1)火花式をやめ他の発振方法を考案すること、(2)新しい回路構成を模索するという二つがあった。そして、ロッジが採用したのは、後者の選択肢だった。

 

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ロッジは、1897年に四つの特許を取得している。そのうち2つ(16,405と18,644)はコヒーラに関するものなので、ここでは触れない。その他の二つは「同調電信の改良」に関するものであり、法的にも技術的にも、長い視点に立ったとき非常に重要な特許である。もちろんアイデアそのものは特許の対象とはならないが、ここでロッジが描いているシステムの本質はやはり「同調」というアイデアである。1896年にマルコーニもヘルツ波を用いた伝送技術で特許を取得しているが、両者はコミュニケーション技術に含まれるべきアイデアについて、対象的な考えを抱いていた。

1897年のロッジの送受信装置を見ると、アンテナは大地にアースされていない。これは波の大地の伝わり方と空間の伝わり方とが理論的に異なると考えられていたからであり、何もない空間をエネルギーが伝播するということを信じることが困難な時代にあって当然のことだったとも言える。その意味で、ロッジがヘルツの実験結果を確かめるとき、有線を用いた姿と同じである。いまひとつの理由は、アースアンテナを用いることで同調しづらくなるという事情があった。アース設置型のアンテナは長距離通信には向いているが、同調特性はすぐれていなかった。ロッジの技術の主要な革新点は、(1)インダクタンス=同調コイルを挿入することでアンテナをチューニングできるようにしたこと、(2)複数(3つ)の異なったインダクタンスをスイッチすることで、チューニングを変えることができるようにした点、(3)高周波変成器(トランス)を用いた点だった。

 

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 1897年のロッジの特許は、その後10年間にわたって、ロッジ自身によってもミュアヘッドによっても、他社(例えばマルコーニ社)による権利の侵害を防ぐ手続きが取られなかった。なぜロッジは自身の特許権を守ろうとしなかったのかを説明することは簡単ではないが、科学者として情報を開示しようとする役割と、特許権を代表しての独占的・排他的な役割との間でいくらか葛藤を抱えていたということは想像できる。が、これだけでは十分な説明とは言えない。

また、ロッジでないにせよ、ミュアヘッドが1897年時点で特許を申請することができたはずだ。しかし、実際には1901年になってようやく有限責任会社が創立し、産業界に姿を現した。だがこの時点で、マルコーニ社を味目として、ドイツのテレフンケン社、アメリカのユナイテッド・ワイアレス社(ドフォレストの特許に基づく製品を扱っていた)なども出現しており、ロッジ-ミュアヘッド社は未熟な会社で、唯一の特許といえば、ロッジの同調回路のみであった。

 ロッジミュアヘッド社は、機器の製造と販売を行う会社で、特に特定の需要者にオーダーメイドで製品を作る点が特徴的だった。需要者は、オペレーターに頼ることなく、自分自身でその特注(custom-built)の機器を操作する。それに対して、マルコーニ社はマルコーニ社に雇われた通信士によって操作されたという点に違いがあった。

 写真資料は、あまりinformativeではない。むしろ回路図が残っていればそちらのほうが便利である。1903年に開発された送信機の回路からは、1897年の特許に比べると二点が改善されていることがわかる。一つ目が高周波トランスを用いている点で、二つ目がアンテナにコイルが挿入され、接地される設計になっている点である。受信機の方を見ると、検波回路が挿入されていることがわかる。さらに特筆すべきことは、コヒーラが改良され、「車輪型コヒーラーwheel cohere」が採用されている点である。車輪型は従来のコヒーラーに比べて機械的に安定しており、タップして元に戻す必要もなく、また一定のインピーダンスを備えている点で優れていた。

 1909年に描かれた図からは、まずアンテナが大きく変化していることがわかる。二枚の水平面の中に4つの四角形ができるような形をしており、それが垂直にたてられた4本の柱に結び付けられている。これらは非接地アンテナだった。1897年のアンテナとの連続性はあきらかで、前者では2つの「コーン」であったところが、8つの「コーン」になっていると見做すことができる。また、キャパシティ・エリアを設けている点も同じである。受信機では、一点大きな変更点があり、それは多様な選択性が施されている点にある。受信機は、アンテナに対して変成(トランス)結合transformer coupled?している。受信機のコヒーラー回路も調整された周波数に同調することが可能だった。送信機のほうに際立った改良点がみられるかどうかはそれほど自明なことではない。送信の方は周波数を操作できるものではなく、この回路の共振周波数である50.60Hzを放射するものであった。ロッジは同調にこだわり、マルコーニは長距離通信にこだわった。ただし、マルコーニにせよロッジにせよ、火花式から純粋なサイン波を得ようという不可能な試みをしていた点では同じだった。

 

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  1911年にロッジとミュアヘッド(Muirhead)の企業が倒産するまで、同社の製品は植民地政府を中心に、アフリカ、カリブ海シンガポール、香港方面へ浸透していた。しかし、同社は商業的には失敗したことは否定できない。失敗の理由は、(1)製品それ自体の問題、(2)市場の問題、(3)経営の問題の3つが指摘できる。第一の点についていえば、同社の製品が高品質であったということは疑いない。だが、製品の特徴は比較的小規模の操作を想定しており、受信周波数の選択ができるということがポイントだった。(一方、マルコーニ社は長距離通信を重要視していた。) つまり、混信を防げるといった点が肝であったが、ロッジ-ミュアヘッド社が展開した市場は、必ずしもその技術に適合していたわけでなかった。混信を防ぐことが最も重要だったのは、船や局で多数の通信が飛び交うイギリスを中心とした市場であったが、そこはマルコーニ社に支配下にあった。さらに皮肉なことに、ロッジ-ミュアヘッド会社は英国郵政省からのライセンス発行を申請したとき、既存のマルコーニ社の通信を干渉させるとの理由で断られた。要するに、もっとも技術的に適した英国市場で足場を築くことができず、植民政府においてかろうじて足がかりを得ていたというのが、二つ目の市場に関わる理由であった。第三の点については、無線通信の初期の段階では、技術そのものというよりは、その装置が使われる通信のネットワークシステムを構築することが必要になってくる。しかしこれに成功したのは、ロッジ-ミュアヘッド社ではなくマルコーニ社だった。加えて、ロッジのミュアヘッドにとっての会社経営はいわば副業だったと言う点も指摘できる。ロッジにとって会社経営とは講演や大学の仕事から気をそらすものであった。経営陣の会社への深い忠誠心の欠如というのも、マルコーニ社のそれと異なっていた点である。

 

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 1901年にロッジ-ミュアヘッド社が設立されたとき、唯一保持していた特許はロッジの同調式の無線電信だった。10年後には新たな改良を求める者も少なかった。だが、マルコーニ社がロッジの特許権を侵害していることを否定したのみならず、英国陸軍省がロッジミュアヘッド社の製品を、マルコーニ社の同調技術の特許(1900年)を侵害しているといった理由で購入しなかった。ロッジは、この袋小路を、特許権を7年間延長する申し立てをすることで突破しようとした。(元来は1911年に失効することになっていた。) マルコーニ社はこれに応訴した。当時、英国においてマルコーニ社の地位は安定していたが、ドイツとアメリカではマルコーニ社の特許権の地位は揺さぶられ始めていた。ドイツでは、テレフンケン社がマルコーニ社ではなくロッジの特許を侵害しているとの見解を持っていたし、アメリカではマルコーニの同調技術への特許申請は、John Stone Stoneによって先を越されていたとの見地から拒否されていたからである。マルコーニ社のアイザックス(Godfrey Isaacs)は、財政や法律に詳しかったため、マルコーニ社の特許権の擁護の任務につかされた。アイザックスとロッジの調停は難しく、ウィリアム・プリースの仲介によって実現することになった。皮肉なことに、もともとプリースはロッジと対立する立場にあったが、のちに彼はマルコーニ社の経営を批判するようになっていた。調停は、ロッジの特許権をマルコーニ社が購入する代わりに、ロッジーミュアヘッド社は解散されるという形で成立した。こうして、1897年に生み出された同調回路の基礎は、1911年になってようやくマルコーニ社側にそれがロッジに帰属するものであることが理解され、米国の最高裁がロッジの特許を認めマルコーニ社の特許が失効したのは1943年のことだった。ロッジは、自然科学の真実はシンプルで調和的なのに、経営の人間はその発見の成果を引き出すのは誰かを巡って約半世紀もの時間を要した事実を不思議に思っていたかもしれない。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 前半(pp.80-124)

 

 前章のヘルツに続いて、第四章ではオリバー・ロッジの業績を中心に論じられます。全体が約80頁もあるので、備忘録も兼ねて、まず前半までの内容をまとめておきます。(3節で Altenative path 実験とrecoil kick実験が登場しますが、あまりよく理解できませんでした。)

 

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 ロッジ(1857-1894)にとって、1888年のヘルツの実験の成功は、彼に個人的な無念さを引き起こしたことは想像に難くない。彼にとってヘルツは年下のライバル科学者であり、特に特別な設備を持っていたわけではなかったので、ヘルツによりマックスウェルの電磁波の生成と検知というロッジの最終目標に先手を打たれたのだった。1888年の秋、ロッジも似たような実験を行っていてその理論的含意は同じだったものの、彼の場合、実験器具はヘルツのそれより簡易的で、波を誘導する装置としては長いワイヤーを使っていた。

 しかし彼はヘルツに先を越されたことに立腹するどころか、イギリスにおける彼の業績の紹介に尽力した。具体的には、彼はヘルツの仕事の出版を支え、論文を翻訳し、彼の業績に敬意を払った。

 ヘルツは1894年に36歳の若さで亡くなっているのに対し、ロッジは1940年89歳まで生きている。その頃には既に長老の科学者として、若手の後援者と見なされていた。また、実証主義の時代にあって、彼の超能力への関心やエーテルの実在を信じる態度は、時代遅れとして嘲笑に付されることもあった。しかし、1888年時点では、彼はイギリスの若手科学者として将来を最も嘱望された人物の一人だった。ロッジは、ファラデー・マックスウェルの伝統において才能のある想像力豊かな実験家であった。

 1881年、ロッジはリバプール大学に新設された実験物理学の席に招かれたが、そこには以前精神異常者の保護施設(insane asylum)であった空き部屋を除いて、実験施設と呼べるものはなかった。当時の英国にはウィリアム・トムソンのグラスゴー大学の実験室以外にモデルになりうる実験室はなかった。彼は大陸に出発することにし、大学を回覧し、器具を購入することに決めた。その見学はとても有益だった。ロッジにとっての実験器具は、彫刻家にとってののみやかんなと同じく、アイデアを実在へと翻訳する手段であり、決して取るに足りない事項ではなかった。彼はケムニッツ(Chemnitz)で「売るためにではなく使うために」つくられた一級のライデン瓶を購入し、リバプールに持ち帰った。また、ベルリンでヘルムホルツの代わりに主人役を務めたヘルツともそこで出会っている。ケムニッツの人々とはその後もなんどもやり取りをすることになるが、ヘルツとは一回きりの出会いだったという。というのも、そのヘルツの業績が出版されるまでの間、2人の間での書簡のやり取りやアイデアを交換した形跡が残っていないからである。

 

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   ロッジはその後、電力貯蔵会社のアドバイザーとしてエンジニアらと親しくなり、彼の研究も実用的な側面が強くなる。特に、当時、避雷針の普及が急速に進んでおり、確実に機能するものが求められていた。当時、1752年のフランクリンの実験も経ており、雷がライデン瓶の中の電気と同じものであるということは知られていた。つまり、雷とは放電現象であるということは知られていた。ロッジは、さらにそれが交流である(oscillatory)であることも知っており、雲の間で素早く電位が変化していると考えていた。しかし、なぜ、いつ、雷のような強力な放電が起き、そしてそれはなぜ最も抵抗値の低い通路を流れていかなないのかということを理解することが課題だった。そして、その答えは誘導性リアクアンス(コイルのインダクタンスによる交流の抵抗)という概念にあった。1853年にトムソンによって「エレクトロ-ダイナミック-キャパシティー」という言葉で唱えられてはいたが、科学者のあいだでもまだ広く理解されてはいなかった。従来の避雷針は、数多の雲の中にある量の電気が蓄えられており、雲から大地へと容易に電気が流れるように低い抵抗値のワイヤーと導線、そして「排水管」をあてがうような設計だった。ここでの問題は雷の電流が直流として理解されていたことである。しかし、実際に起きていることは「パルス」と呼ばれる突然の電流の加速(acceleration)であった。その場合にはオームの法則は単純には成り立たず、低い抵抗値ではなく、低いリアクタンスが求められるはずだった。加速電流(?)(accelerating currents)は一定の速度で斉一に振る舞う電流の流れとは異なった振る舞いを見せる。そして、回路において適切なリアクタンスを配置することで特定の周波数の振動を生み出すということが、「同調」という概念全体にとって重要になった。

 

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 Altenative path 実験と、recoil kick実験

 

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 1878年にロッジは英国学術協会の会合でダブリンを訪問し、そこでフィッツジェラルドと出会っている。彼はマックスウェルのモデルによると、電磁波の放射は不可能である(?)との見解を持っていた。彼はヘルムホルツと同様に名声のある科学者であったため、彼の放射が不可能だとする見解は、ロッジにも影響を与えたと考えられる。だが、その後Rayleighによって単一な周期の電流(a simply periodic current)は、光のように波の振動(wave disturbance)を生成するという議論を提示した。フィッツジェラルドの誤った解釈のせいで、ロッジはヘルツに遅れをとったと言えるかもしれない。だが、フィッツジェラルドが1882年に過去の議論を修正したとき、リバプールに新しい実験室ができて二年しか立っておらず、大掛かりな実験に取り組むことができたかどうかは疑わしい。その後は、いかにしてライデン瓶とワイヤーから生じる周波数の交流を生じさせるかが実験の課題になっていく。

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  1887年に避雷針の実験に取り組んだ時、ロッジの頭の中には、実用的な関心と学術的な関心の両方が存在していた。避雷針の実験と、電磁波の検知という課題は、ここにきて初めて統一された。だが、ヘルツとロッジの実験は、第一にヘルツは伝播速度に関心があったのに対して、ロッジはマックスウェルのパラダイムを受け入れており、伝播速度は光の速度と同じであるという事実を前提としていたという違いがある。別の見方をすると、ヘルツにとって、ライデン瓶をダイポールアンテナにしたり、空中放射を試みたりすること自体に関心があったわけではなかった。そして、ヘルツにとって、商業的な利用は不快で気をそらすものだった。ロッジの場合に関しては、ヘルツの場合と違って、そこで純粋科学から技術や商業が生まれたという点が重要である。しかし、ロッジの二つの実験(Altenative path 実験と、recoil kick実験)が行われた1887-1888年は、通信に関して言えば有線の時代だった。そのため、彼の頭の中に電磁波を導線なしで伝達させるというアイデアは全くなかった。それゆえ、ヘルツの実験の衝撃は大きかった。

 

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主要な困難は、効果的な受信装置を作ることにあった。ヘルツの実験に関してロッジが強調したことは、ダイポールアンテナではなく、ループ状の受信装置の方だった。しかし、ロッジは既にのちに商業的に利用される「コヒーラ」の原理をすでにこの時点で発見していたということは皮肉である。彼は、わずかな火花が通過したときはいつでもa couple of little knobsが凝集し(cohered)、連結する現象を確認していた。1889年の時点でロッジはまだこれを受信機に応用する考えはなかった。だが、類似した現象は様々な形で観察されていた。最もよく知られていたのは、筒の中にやすりくずや粉を詰めたものに小さい電圧をかけると高い抵抗値を示し絶縁性を帯びるが、大きな電圧をかけると抵抗値が下がり伝導体の性質を持つようになるというものだった。そしてそれに物理的な刺激を与えると、再びもとの絶縁体に戻る。科学界がこの奇妙な現象にもっと受容的であったならば、ロッジは実験開始当初からこの検知器を利用なものにしていたかもしれない。というのも、1878年にDaivid Hughesが同じ現象を確認して、これを電磁波の検知に利用しようとしていたが、彼は科学界が注目しないことに落胆し、私的に研究を続けただけで論文を出さなかった。ロッジが彼の研究を知るのは、それから20年度のことである。フランスでは1890年にBranlyがコヒーラの実験を行い論文を出していた。彼は今日よく知られている形(tube型)を考案した人物である。が、彼の論文からはコヒーラの振る舞いの原理については曖昧にしか書かれていたことが読み取れる。高い電圧がかかったときにやすりくずの間に電流が流れることは容易に想像できる。だが、なぜ電圧が下がった後も抵抗値が低くなり続ける=伝導性を維持するのかという理由は説明できなかった。彼は、もしかすると電流が流れることで絶縁中間体が変容し、振動を与えるとか温度が上がるといった何らかの動作によってこの新たな絶縁体の状態が変わったのだと示唆するに止まった。伝導性が変容するのは、火花のせいなのか、ヘルツの波=電磁波のせいなのか?コヒーラは、物理的な振動を与えて元に戻さなくてはならないこと、伝導し始める電圧が具体的にわからないこと、コヒーラの静電容量が不明であるといった点で問題があった。そして、on/offのモールス信号ならいざ知らず、音声信号を復調することは無論できなかった。1889年3月に始まった王立協会での「ライデン瓶の同調」実験では、最初の実験には用いられなかったがのちの洗練された実験ではコヒーラが用いられた。この実験では、共振という直流の思考の枠組みでは理解できない現象を示していた。ロッジは回路の設計においてジレンマに直面した。それは、よく電波を放射する回路はよく減衰し、正確にチューニングできないということだった。逆に選択度の高い同調回路は、効率的に電波を放射できなかった。これをいかに両立させるかが、ロッジにとっての難題だった。そしてのちには実用的な面からもこの問題が解決される必要性が生じた。だが、1892年、利用可能な無線通信システムの実現という問題を解く個々の要素は出揃っていた。すなわち、ヘルツの発振機、ダイポールアンテナ、コヒーラ、そして同調回路である。ここに欠けていたのはビジョンだった。

 

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 そのビジョンを持っていたのは、William Crookesだった。彼は真空度の高い陰極線を発明した人物として知られる。(南アフリカを訪問していた最中、レントゲンによってX線が発見され、先を越されてしまった。)だが、彼には先見の明があり、無線通信を実現する構想を記事に書いていた。長い距離の通信を目指して火花放電とコヒーラを改良し、新たなシステムを構想していた人物は、イギリスのジャクソン、ロシアのポポフ、イタリアの若きマルコーニなど他にもいたが、Cookesの記事はタイムリーで触媒のようなものだった。その意味で、1892年は分水嶺となった年だった。以降、マクスウェル理論は、信号システムの装置、その発明と特許、商業的な技術の発展の案件となった。とはいえ、市場はどこにあるのか?これはCookesが答えることを要求されていなかった問いだった。彼が示さなければならなかったのは科学の不思議さであって、新技術の商業的な見込みではなかったからだ。

 

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 ではなぜ1892年を境に直ちに無線通信が事業化しなかったのだろうか。ロッジは、その理由として、第一に無線電信の商業的な搾取は少なくとの英国の科学者にとって適切な仕事ではなかったということ、第二に商業的な見込みに盲目で、大電力で長距離の通信を試みようとしなかった愚かさがあったと書いている。無線電信の商業的な見込みは、マルコーニにとって自明なことであっても、その他の人にとっては自明のことではなかった。ロッジは産業に疎かったわけではなく、実用的な側面に関わり商業的な利用を導いた事業にも携わっていた。が、彼は実用的な無線電信を構築するために必要な情報はすでに雑誌などで公表されているものだと思っていた。ロッジは彼の同調回路で特許を取得することも可能だったかもしれない。しかし彼は支配的な地位を獲得することはなかった。

 1894年6月に王立科学研究所(royal institution)で行われた「ヘルツの仕事」と題された講義が、翌月ではロンドンで「女性の座談会」が行われ、小さな受信機が披露された。ロンドンの講演では、ヘッドフォンに代わって「ミラーガルバノメーター」が利用された。同じような装置は、1894年8月の英国協会(royal society)の会合でも利用された。これは送信機を実験室内において、裏庭を挟んで180フィート離れたオックスフォード博物館で受信するという実験だった。電信システムの要素であるエキサイター(励振機)、モールスキー、受信機がそこには含まれていた。それゆえ、ロッジは実用的な無線電信機をデモンストレーションした最初の人物であると言えるかもしれない。それが本当かどうかは、実際に信号の伝送が行われたかどうかに関わってくる。ジョン・フレミングは1894年のオックスフォードの実験では伝送が行われなかったと、間違いなく記している。王立協会の6月の実験では電信の実験は行われなかったという点では、フレミングの書いていることは正しい。しかし、王立協会での発表は初めての公での無線電信のデモンストレーションだった。もしこれが本当であれば、(それを成し遂げたのはマルコーニであるという)定説は覆される。1894年の実験はモールス信号の伝送のために装置が用いられ、ヘルツの波を電信に応用したものであり、ロッジは無線電信の発明者と見なされうる。しかし、彼は、実験室を超えた場所で商業的にそれが利用されうるということに気がつかなかった。ロッジ、ヘルツ、マックスウェルは科学的発見を成し遂げた。そして、ロッジは科学的な発見を利用可能な技術へと翻訳することも成し遂げた。しかし、利用可能な技術と、商業的に利用可能な発展との間には隔たりがある。1894年の実験からは、それを橋渡しする志向は見て取れない。ここで欠けていた要素は、ニーズの知覚と抽象的な可能性を具体的な現実へと変換する駆動力だった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

平野啓一郎『かたちだけの愛』を読みました。

 これまで、『ある男』、『マチネの終わりに』、『空白を満たしなさい』と著者の長編小説を時代を遡っていくように読んできた。そして、今回読んだ『かたちだけの愛』という小説は、僕にとって、4作品中一番読み応えがあり、もっとも好きな作品になった。

多少恋愛沙汰がごちゃごちゃしている感はあるものの、人を愛すること、プロダクトデザイナーが取り組む「義足」とそれに関わるある種の<身体論>、片足を失った女優と彼女の「分人」(この言葉は、小説内で登場するわけではない)などといったテーマ自体が興味深かったということもある。が、なんといってもストーリーがドラマティックで、まるで映画を見ているような映像的な描写も合わさって、圧倒的な読後感に思わずため息が漏れてしまった。

鷲田清一氏による解説も、この小説の一つのキーワードである「幻痛」のもつ意味の広がりに気づかせてくれ、この作品にますます魅了された。また、この作品を読解するときの一つの鍵となる概念は、(谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の引用が何度か登場することからもわかるように、)おそらく「陰翳」だろう。まあ、だがそれについては、鷲田氏の秀逸な解説で十分であり、僕が気づいた関連箇所をいくつか引用することもできるが、ここで改めて書く必要はないと思うので、個人的な感想を少しだけ記しておきたい。

 

やはり、一番考えさせられたのは、恋と愛の違いだった。

恋というのは、一瞬のうちに燃え上がる花火のようなもの。

それに対して愛は、それよりもずっと長く、場合によっては死ぬまで継続するもの。

愛というのは恋よりもずっと成熟していて、それゆえ、恋とは全く別の作用をもった営みだ。

 人に優しくするということは、愛の一つの表現かもしれない。しかし、「優しさ」とは?

 

 本書で考えさせられたのは、「相手が夢中で自分自身に没頭できるように寄り添うこと」、これが一つの成熟した優しさのかたちであるということだった。別の言い方をすれば、「自分といるときの相手が、相手自身を好きになれるように寄り添うこと」、ということになるだろうか。

 翻って自分の立場になって考えると、好きな人といるときに、夢中になって自分の願望や欲求を追求できるだろうか。これは一見すると、自分勝手な振る舞いのように思えるが、持続的な愛にとっては、このことは重要なことだと思う。

 自分が翳になって相手に光を与える(あるいは相手が光るが故に、自分が翳になる)とき。そして逆に、相手が翳になって自分に光を当ててくれる(あるいは自分が光るが故に、相手が翳になる)とき。

こうした複雑な陰翳の交代こそが愛なのであって、そこには本質的な”かたち”などないのではないか。その意味では、このタイトルは一つの逆説を表しているようにも思える。

 

 

 

かたちだけの愛 (中公文庫)

かたちだけの愛 (中公文庫)

 

 

 

平野啓一郎『空白を満たしなさい』を読みました。

 

 一度死んだはずの人間が生き返ってくる。

 この非現実的な設定を通じて、あるいは一つの思考実験を通じて、人間が生きるということまた死ぬということは何なのか、そして人はなぜ自殺をするのかという問題を考えた長編小説である。

 主人公の徹生は、ビールの缶を開発に携わる36歳のサラリーマン。彼は、あるときふと会議室で意識を取り戻すのだが、実は自分自身は三年前に死んでおり、「全国各地で起きている死者が生き返ってくる」という出来事の当事者の一人であることを知る。だが、彼が死んでしまっことで空いた穴は、すでに多くの人によって埋め合わされつつあった。彼の周囲にいる人々は、突如彼が生き返ってきたことに喜びつつも、同時にある種の戸惑いも見せる。そして、彼の妻の千佳は、喜びと戸惑いの板挟みの中で煩悶しつつも、最後にはある一つの事実を彼に言い渡す。それは、徹生は実は三年前に自殺をしたということだった。

 だが、彼自身は、どう考えても自殺をした記憶はなく、自分を自殺をする人間だともついぞ考えたことはなかった。そして、実は自分は自殺したのではなく、他殺されたのではないかという考えに至る。そして、彼の会社の警備をしていた佐伯という人物に付きまとわれており、些細な出来事をきっかけに、面倒な関係になっていたことも思いだす。そして、おそらく自分は佐伯によって殺されたのではないかとの推測を元に、犯人探しを始めるというところからこの物語は始まる。徹の死の30分前の、記憶の「空白を満たす」ために、彼は動き出す。

 人間社会は、もちろん人間の生は一度しかないことを前提にして成り立ってる。もしも仮に死んだ人間が生き返ってきたとしたら、様々な問題が生じる。生命保険は全額返金すべきなのか?労災保険は? またキリスト教国では「最後の審判」のときが近づいているなどの騒動が起きつつあった。様々な混乱が生じる中、復生者らの権利を保護しようとする運動が起こり、そのメンバーとの交流を通じて、新たな事実が一つ一つ浮かび上がってくる。

 

 この小説のキーワードの一つは「分人dividual」という概念だ。これは著者が以前から提唱してきた考え方である。それは、「個人individual」と対になる概念で、人間をそれ以上分けることのできない存在として捉えるのではなく、複数の分割可能な人格の総体として捉えようとする概念である。家族といるときの自分、学校で友達とともにいるときの自分、先生と話しているときの自分、恋人といるときの自分、家で一人で読書をしているときの自分、職場にいる自分、、、これら全ては異なる「自分」である。そして、どれが本物の自分なのかと発想することをやめ、全部が分割可能な自分=分人なんだということを認め、その分人の比率がそのときどきで違っているのだと考えようと思考の転換をすることが、この概念が導入された意図である。従来、よく「キャラを変える」とか「仮面を付け替える」といったイメージで捉えられてきたこの複数の人格性を、積極的に「本物の」キャラや仮面を認め、選択することで、「偽物を」空虚にしてしまうのではなく、むしろ対人関係の中で自然と受動的にある分人の比率になってしまうものであると見なし、それゆえ、全部が自分なのであり、好きな比率の分人を基盤にして生きていこうというのが、この著者の主張であると理解している。

 この概念を手立てとして、本書では、自殺の問題が考えられる。単刀直入に言えば、自殺とは、本当は、ある特定の相手といるときの分人が嫌いなだけなのに、他の分人たちが、あたかもその分人が個人全体であるかのように錯覚して、その存在を消そうとしてしまい自分を殺してしまうことなのだという。そして、もう一つ重要なのは、自殺者は本当は死にたかったのではなく、存在を消したかった分人をなくすことで、まともに生きようとしたかったのでないかと考える点だ。

 

 残念ではあるが、僕はこの分人という概念にも、またこの概念に依拠した上記のような自殺の説明も、腑に落ちなかったということを告白しなければならない。

 本書の下巻にも登場する比喩なのだが、分人というのは、丸いケーキをある比率に切っていくようなイメージで考えられる。あるときは、家族といるときの分人Aが1/3、友達といるときの分人が1/3、家で一人でいるときの分人が1/3といった具合で、別のときには、その比率が異なるといった具合である。そして、分母の数はいくつでも構わない。

 だが、僕は、分人という概念を認めたとしても、それはケーキのようではなく、ベン図のように重なり合っているものだと思う。そしてその重なりかたは、対人関係の中で変化する。(分母の数がいくつでも構わないのと同じく、集合の数もいくつでも構わない。) そして、おそらく平野氏によれば、このベン図の輪郭全体がその人全体なのだというだろうが、僕はむしろこの重なっている部分に注目したいのだ。そして、やはり人格が様々にかわりつつも、その中でも不変の部分というのを、本当の自分という風に見なしたい。好き嫌いの問題かもしれないが、僕はやはり個人的な何かを認めたいと思う。

 

 そして、自殺について思うのは、本来、自殺者はなぜ自殺するのかを明確に述べることはできない状態に置かれていることが多いと想像する。それは芥川龍之介が言った「ただぼんやりとした不安」のようなものであると思う。ただ、疲れたというそれ以上のことを考えることはできないのだと思う。分人という考え方を採用すれば自殺者がなくなるとは、正直あまり思えない。

 (ちなみに、僕自身は、自分のことを後回しにして、一旦、自分が脇役になることに努めることが、自殺を防ぐ一つの方法としてあると思う。)

 

 僕は、おそらく小学生(もしかしたら幼稚園のころだったかもしれないが)のとき、父親に「自殺しちゃだめなの?」と聞いたことがある。そのとき、水の中でずっと息を止めていると死ぬということを知っていたので、同じように自分で息を止めれば死ぬことができるのだと考えていた。父親は、「周りの人が悲しむからだめ」なのだと教えてくれた。

 その答えをついこの前まで、つまらない答えだと思っていた。もし自分が父親だったら、自殺してもいいと思う場面と、自殺してはいけない場面とに場合分けをしていって、答えを導くように促すだろうと考えたりもした。でも、あのときの父親の答えは、それで十分すぎる解答だったということを、僕は本書を読みながらつくづく感じた。

 その悲しみかたというのは、様々なものがある。だが、自殺をすることは、必ず周りの人を傷つけるということは忘れてはいけないだろうと思った。

 

 長編小説の完成度としては、時期的に当然かもしれないが、『マチネの終わりに』や『ある男』の方が高いと感じたことも、最後に記しておきたい。

 

 

空白を満たしなさい(上) (講談社文庫)

空白を満たしなさい(上) (講談社文庫)

 

 

 

空白を満たしなさい(下) (講談社文庫)

空白を満たしなさい(下) (講談社文庫)

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (3)

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014) , chapter 3 .

 

 

 第三章は、ハインリッヒ・ヘルツの業績を中心に論じた章である。彼は、マックスウェルの理論を実験的に証明したと言われる。この実験においてしばしば、光の速度と電磁波の速度が同じであることを証明したという事実に焦点が当たるが、彼自身はそれを意図して実験を行ったわけではなかった。また、ヘルツの実験において発生していた電波は超短波であったなどと言われるが、1888年の時点では、長波/短波といった概念は存在しなかった。科学・技術史において特に避けるべきことは、現代的な観念を過去に当てはめるアナクロニズムである。本章において著者は、可能な限りヘルツ=歴史主体の視点に立って、当時の歴史的文脈の中で実際に彼が何をしようとしていたのかを読み解こうとしている。(なお、この章ではある程度の物理学の知識がないと、内容を完全に把握することはできない。現時点では物理学に関する議論はかなりいい加減に書いているので、高校レベルの物理を復習し終わり次第、書き換えたいと思う。)

 

 第三章  Hertz

 

 ヘルツが亡くなった1894年、オリバー・ロッジは、王立協会の演説で、ヘルツが成し遂げたことを”The actuality of experimental verification”という言葉で表現した。彼が実際に検証したことは、以下の三つの仮説に関係していた。(1)電流を加速させることで電磁場が形成されること、(2)この場は空間中を伝播すること、(3)そしてその速さは高速と同じであることである。これらの問題は、遠隔作用や光の粒子説(/波動説)といった古くからある問いにも関わっており、マックスウェルの理論を受け入れる者は、それらの波は、負荷秤量エーテルの中に位置すると考えた。ヘルツはエーテル概念に懐疑的であったが、問題の本質に影響することではなかった。というのも、ヘルツにとっての重要な問題は、電磁波の伝播は有限なのかどうかということだった。その実験には、既知の周波数の電気振動を生み出す送信機と、それらを放射するアンテナと、検知する受信機、そして送信機から伝播した電波をあたかも「固まった」ように可視化する実験セットが必要とされた。特に、ヘルツは一連の定常波をつくることで、「固まった」波を作ろうとしたが、これは彼の実験技術の中で最もオリジナルな貢献である。

 意図的に電気を放電する技術は既に存在しており、ライデン瓶とインダクションコイルの利用が彼の実験において重要だった。前者は、電荷を貯める装置であり、現在のコンデンサーの先祖である。ヘルツの目的にとって本質的だったのは、これを単に使うことではなく、ライデン瓶に溜まった電気が瞬時に放たれることで何が起きるのかという知識だった。

彼はライデン瓶の放電は、交流であることを知っていた。つまり、彼は電気的な振動を作り出す方法を手にしていた。彼は漸進的に送信機を改良していき、最終的にはダイポールアンテナを考案する。ここでは、ライデン瓶の二枚の箔は、アンテナの二本の腕となった。このアンテナはインダクタンスとキャパシタンスを持っており、共振回路を構成していた。そして十分な量の火花がギャップに生じると、振動電流が発生した。電荷を貯める手段としてのライデン瓶は、電磁波を空間に放射する手段=送信機になった。

 ヘルツは、当時リュームコルフコイルと呼ばれており、のちにヘンリーが自己インダクタンスの理論を発見したことで完成された「インダクションコイル」も取り入れた。これは一次コイルと二次コイルの間の巻き数の違いから高電圧を発生させる装置である。これらの器具で実験を行うことで、彼はそれまで物理学者が自由に利用できる周波数よりもより高い安定した振動をつくりだしていた。受信機の方は、円型のループで、火花の強度を測定するため、micrometer screwを設置した。そして彼は送受信の「共鳴(resonance)」の重要性を知ることになっていった。このようにして、インダクションコイルによって拡大された火花ギャップを持つ送信機、ダイポールアンテナ、受信エネルギーを示すループ型の受信機ができた。彼はこの装置により、15m×14m×6mの部屋で、(さらに鉄柱が何本か立っている部屋)で実験を行った。長波を用いた実験がことごとく失敗したのは、この実験室の空間的条件であったと考えられる。だが、彼の実験のゴールは、伝播速度を計算することではなく、またそれが高速と同じであることを示すことでもなく、それが有限であることを示すことにあり、彼にとって周波数の測定と波長の測定は独立した問題であるはずだった。実験により、9.6cmの波長(35.7MHz)で、3.42×18の8条という速度の結果が得られ、高速の桁数と同じであることがわかった。ここでの目的は速度の測定ではなかったので、小数点以下は誤差として簡単に説明されてしまったのである。

 だが、本書の目的は科学者として彼の業績を捉えるのではなく、無線通信技術の歴史、とくに「同調」の歴史において、ヘルツの業績を捉えることである。彼の実験は、無線でのコミュニケーション技術の出現が直面した問題を我々に提起した。第一の問題は、送信機が伝播した電波の周波数の測定に関わる。インダクタンスとキャパシタンスから求める彼の計算は、のちにポアンカレが指摘するように、間違っていた箇所があり、「誤差」が生じることは必然的であった。(電磁波の伝搬速度が有限であることを示すという点では、このことは問題なかった。)だが、この問題は科学的なブレイクスルー、つまり公式の誤りも問題ではなく、実際的な問題、すなわち信号の周波数を測定し、維持することを狩野にする技術の発展が求められるはずだった。第二の問題は、実験室という環境に関わるものである。先述したように、ヘルツは実験室の性質が彼の測定にどれほど影響を与えるのかを理解していなかった。電波の反射や吸収といった現象は、決して自明のことではなかったのである。これは無線通信史の中で大きな教訓となった。資源としての電波の能力は、使用者がどこにいるのかという場所に依存する。「外側へと向かうフロンティア(第二章)」の前進は、各々の新しいスペクトラムの領域が通信に適しているかという知識を獲得する試行錯誤の試みだった。ヘルツが使用した領域は商業的な開拓者(マルコーニ)によってその見込みが理解されず棄却され、長波へとそのフロンティアが拡大していったことは皮肉である。

 第三は、単一の周波数に火花放電を同調させることに関わる。火花放電による電磁波は、一瞬の波であり、対数的に減衰(振幅が減少していく)していく波だった。また、周波数も単一ではなく、のちの言葉で言う「多共振」の波だった。火花放電は、本質的に単一の周波数を送信することができなかった。もちろん、中間回路を加えることで減衰の程度を抑えることができるが、単一の周波数のみを持続的に出すことはできなかった。本物の連続波の送信機は、スペクトラム上に、一つの「場所」だけを持つ。こうした連続波の生成の可能は、アーク放電高周波発電、三極真空管といった技術の出現を待たなければならなかった。それにより、必要なときに通信を中断したり、音声信号を変調させることもできるようになった。

 このようにヘルツの実験器具はマックスウェルの電磁理論を証明することを目的としたものであり、コミュニケーションの技術としては深刻な限界点が内在していた。不完全ではあるが商業的な展開を許すのに十分な解決策は、「同調」というアイデアであり、「同調回路」の採用であった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

平野啓一郎『ある男』を読みました。

 

 

 とてもいい物語だった。この小説を読んでいたここ一週間、本を開いている間は、この物語世界にどっぷりと浸ることができた。

 本書では、臓器移植、在日朝鮮人へのヘイトスピーチ、デモへ参加することの是非、死刑の是非、死刑囚の子どもなど、数多くの社会的な問題が織り込まれている。各々の問題にぶつかるごとに、ページをめくる手を止めなければならなかった。

 特に、主人公の城戸とその妻香織との対立は、根深いと感じた。3.11後、何より自分たちの家庭の維持を最優先しようという香織は、自分の家庭さえままならない状況の中ボランティアや寄付に尽力する城戸を「偽善者」として批判する。恣意的に物事を一般化することは避けなければならないが、母親というのは、概して、その母性ゆえなのか、家庭(あるいは子ども)を「守る」ということに最大の重きをおくのかもしれない。そのためには、場合によっては、社会の他の家庭と「戦う」ことも辞さないのかもしれない。対して、男である父親は、家庭を超えた社会全体にとっての幸福を望もうとする傾向があるような気がする。その意味で、父親は母親からはある種の理想主義者・夢想家とみなされ、子育て対して「無責任」な態度だと罵られることもあるのかもしれない。 

 在日へのヘイトをめぐるやりとりでもそうだ。香織は、城戸という在日三世の弁護士を夫に持つにも関わらず、ヘイトに対するカウンターデモに参加することを良しとせず、むしろ逆に彼らから子どもを「守らなければならない」と発想する。彼らを「敵」とみなす態度も、城戸と態度と微妙にすれ違っているような気がした。

 

 だが、やはり何よりも最大のテーマは、「愛にとって過去とは何か」という問いだと思う。

愛する人の過去は、その愛にどのように関わるだろうか。卒業アルバムに写る優しい顔。その人が部活で優勝したときにもらったトロフィー。昔の成績。よく聴いた音楽。家族との思い出。昔の恋愛話。そうしたものから窺い知れるその人の過去は、仮にそれが客観的には「良い」ことでなくたとしても、現在のその人への愛をいっそう強めるのではないだろうか。

 だが、もしも決定的な過ちを犯していたり、修復不可能な深い傷を負っていたらどうだろうか。あるいはそのことをずっと隠していたとしてそれを今知ってしまったら、、、–––そして究極的には、愛する人が実は全く違う過去を持つ別人であることがわかったとしたら。

 僕は、城戸も著者も、それでも愛は成立することを肯定しようとしているのだと思う。物語の最後で、城戸は、修復不可能な過去を背負って、別人として人生を歩み始めた”X”=「ある男」は、事故で亡くなるまでの約3年半は、確かに里枝と幸福に過ごしていたということを、彼女に伝えようとした。城戸の「ある男」へのいわく言いがたい興味や共感は、彼の別人として歩み直した生を肯定しようとする思いに由来しているのではないだろうか。

 

 ゆっくりと静謐な時間を過ごしたいという読者に、特におすすめの一冊。

 

 

ある男

ある男

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (2)

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014)

 

 “syntony”(同調)という言葉は、現在ではほとんど用いられない言葉であるが、元々は無線通信の用語としてOliver Lodgeによって導入された語である。これは”turning”と似て非なる言葉である。この言葉が導入された「形而上学的」(あるいは概念的)背景とは何だったのか。そして、筆者の歴史記述においてこの語が持つ重要性とは何なのか? 第二章では、この言葉をめぐる興味深い考察が展開される。大雑把にではあるが、以下に理解した範囲で内容をまとめておく。

 

第二章 syntony

 

 1888年、ヘルツによるマックスウェル理論の実験的証明の成功は、電磁波の無線周波数のスペクトラムの発見でもあった。筆者は、この発見を新大陸の発見になぞらえる。もちろん、電磁波スペクトラムの発見は、地理的な意味での領域の発見ではないし、植民や農業、炭坑などの人間の活動を可能にする資源の発見でもない。それは、コミュニケーション手段に資する資源の発見であったからだ。しかし、この「目に見えない資源」は、従来人類がその使い方もその価値も知らなかったものである。したがって、一度経済的・軍事的有用性が理解されると、ちょうど植民地をめぐる帝国の動きと同じように、排他的な所有をめぐる競争の対象となる。そして、その所有や権利、管理などに関する問いが新たに生じるのである。

 しかし、新大陸の発見とは異なる点がある。大陸の場合、一度所有権が確立すると、測量士による印や測量の単位を知らしめるためのなんらかの参照事項が作られ、それが領域についての権利を決定的で明確なものにする。そしてそれは、土地を測量する技術の長い伝統があってこそ可能にだった。つまり、地理学や法律が利用可能な土地の所有権を制度的に保障してきたのだった。しかし、電磁波の場合、最初はその境界を認識することができなかった。その境界は、当初、科学に習熟した知性がかろうじて把握できるものであった。つまり、法律や政府の規制の前に、技術的な前進が求められたのである。科学は電磁波という資源の発見をした。しかし、技術がそれを法律家や官僚、ビジネスマンが理解可能な用語に翻訳する必要があった。そしてその技術的な前進にとって核となったのが、「同調」という概念だった。

 同調というのは、無線の送信機と受信機に特定の周波数や波長を割り当てることを可能にする。我々はFWラジオにある540-1600kHzのある数字ダイアルにチューニングする(tune in )ことで、特定の放送局を選ぶ。kHzが正確に何を意味しているのか、あるいはダイアルの背後の構造について知らなくても、そのダイアルごとに局が位置しているとみなし、それを簡単に選択することができる。ラジオ局側は連邦政府によってある特定の期間、その周波数によって放送を許可されている。こうした領域の割り当ては、送信機・受信機において正確な同調を行うことができる回路や構成要素が生まれることによって初めて可能になった。

 電磁波という「大陸」が占領されて、人間が利用できるようになる速度は、二つの最前線での動きの速さに依存していた。それは、外側へと向かうフロンティア(an extensive frontier)と、内側へと向かうフロンティア(an intensive frontier)である。前者は、利用できる周波数を広げる運動である。奇妙なことに、ヘルツの実験では非常に高い周波数の電磁波が生じていたが、(マルコーニによる)商業的な成功例では、低い周波数(長波)が用いられた。これは、新大陸が発見されある緯度に目印が建てられたが、入植者はそれとは異なる場所から移住を始めていったようなものである。この前者の運動は、徐々に高い周波数の利用を可能にする方向へと推進されていった。一方後者の運動は、その周波数の所有の精度(密度)をあげるという運動である。ここでは、ある周波数の電磁波を浪費する技術は棄却され、それを保存する技術が生まれていく。それは、「少ないスペースに住む」技術であり、これにより確固たる所有権が確立される。”an extensive frontier”は所有できる新しいスペクトラムを拡張し、”an intensive frontier”は、そのより広がった人口にとっての場所を作る運動である。そしてこの技術的な展開は、ジグザグに進む。しかし、これは均一的な運動ではない。電磁波スペクトラムの配置の技術的な進展および新制度の発展は、intensiveな領域でより容易に進展する場合もあれば、extensiveな領域で容易に進展する場合もある。

  Syntonyという言葉は、オリバー・ロッジによって導入された。彼は晩年神秘思想に共感していたことは知られているが、それを支持する証拠は乏しく、またなんらかの関係があったとしても、熟考に値しないものだろう。この言葉にロッジがこめたものは、音響との類比である。当時、電磁波はエーテルという媒質を振動して伝わるものだとされた。音も、空気という媒質を振動して伝わる。(もちろん、音は進行方向に対して縦の振動であるのに対し、電磁波は横の振動である点で異なるが。) 受信と送信とがうまく調整されていると、その間でのエネルギーのやりとりが最大になる。例えば、二本のピアノ線が同じ長さで同じ張力であれば、両者の間で反響が見られる。Syntonyという言葉の語源は、音楽的な語法にある。

 だが、この言葉には、もう一つの使用法がある。その説明には、西欧史を詳細に紐解く必要はない。その説明は、ただ、規則正しい再起現象や予測は全ての人間の最も基礎的・根元的な経験であったという事実の中にある。生命が宿るところには、必ず何かしらの周期性がある。(ex: 胎児は母親のお腹の中で規則的な鼓動をきく。) これを知覚することから、規則的な変化やリズム、ハーモニー、共鳴などのアイデアが発展してきた。数学と音楽の間には”harmony”という共通点がある。(ex: 純粋な音楽的トーンは、数学的には、完全なサインカーヴを描く。) 調和、共鳴、同調。これらの言葉は、(1)互いに周期的に異なっており、(2)触れていなくても一方が他方に影響を及ぼし、(3)共通の行動モードを共有している間は各々の固有性を維持しているというシステム間の関係を表すために用いられる。さらに、この言葉は、人間と神、人間と自然、男性と女性、人間と機械の間に鋭い境界線を設ける西欧思想において、これらの断絶を橋渡しする概念でもあった。そして、それは本物のエネルギーのやりとりであり、応答の強化が行われていることを示している。ロッジの中にある科学者的側面は、本当にこれが妥当なのかどうか反応したかもしれない。だが、彼は夢想家でもあり、この言葉から連想されるオーラが彼の想像力を駆り立てたに違いない。技術的なアイデアは、文化的な歴史から隔絶され、それ自体の言葉の中で生まれ生き続けるということはない。技術というのは、人間の想像的な精神の表現というべきである。そして、アイデアは創造性の運び手であり、新しい組み合わせの可能性を組織する装置でもある。その意味で、技術史は思想史の一部である。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)