yokoken001’s diary

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Chapter 2(Jan Golinski) "Thamas Kuhn and Interdisciplinary Conversation : Why Historians and Philosophers of Science Stopped Talking to One Another”

 Jan Golinski "Thamas Kuhn and Interdisciplinary Conversation : Why Historians and Philosophers of Science Stopper Talking to One Another”(2013), Integrating History and Philosophy of Science, pp.13-28.

 

私の乏しい英語力で読解した限り、 以下のことが議論されていたと思われます。

 

・本稿ではクーンのパラダイム論が、その後の数十年にわたって、科学史と科学哲学が分裂していった過程にどう影響したのかを考察される。

→『科学革命の構造』(以下『構造』と表記)は、学際的な著作であり、歴史・哲学を始め、他の人文学や科学の諸領域に共通の参照点を提供した。

⇄その一方で、学者たちは、それぞれ異なった方向へその含意を求め、その結果、歴史家と哲学者は互いに対話することを止めるに至った。

∵クーンの著作が、2つの研究者共同体に極めて異なった解釈を与えたから。

            

・本稿では、パラダイム論それ自体を、HPS(科学史・科学哲学)における受容という分客で「反射的に」用いてみる。=SSKの枠組みを採用する。

→『構造』が一つの専門領域で権威を持たなかった理由が理解できる。

:哲学→「共役不可能性」から導かれる「相対主義」の議論に着目。

歴史→歴史的な因果性を、インターナルかエクスターナルかのどちらに求めるかの議論に着目。

→しかし、「知識の政治学」という共通項もある。(この著作は、冷戦期に出現している。)

ニュートンの『一般的注解』(=「私は仮設を立てない」のやつ)にしろ、『種の起源』にしろ、『特殊相対論』にしろ、テクストの曖昧さは、自身の目的に一致するように解釈される傾向にあるということを、これらの歴史的事例は示している。

→クーンの『構造』についても同じことが言える。

パラダイム間の通訳不可能性→1930年代から相対主義から連想されてきた全体主義」の亡霊を想起させるといった文脈で理解された。

→クーンは、科学が政治的次元や、非合理な科学者の群集心理学に従属する脅威を復活させたということで非難された。

⇄反マルクス主義のK・ポパーは、科学の自由な探求に対する全体主義の脅威を批判していた。→彼は、クーンが相対論に媚びた態度を好ましく思わなかった。というのも、相対論は、全体主義のツールとみなされていたからである。彼に言わせれば、通役不可能性は「フレームワークの神話」であった。

→科学理論を一つの文化的枠組みへと還元するのは、社会学や心理学であり、客観的な科学の理性という自由に屈服する。

→クーンの「パラダイム交代」という歴史観は、不吉なマルクスのドクトリン(科学の信念は、社会/経済的な利益の産物である)をほのめかしていた。

・1965年のロンドンの会合では、ポパーのクーン批判がさらに展開され、議論された。

ヘーゲルの哲学に疑念を抱いていたラカトシュは、ポパーよりかは科学史の哲学的含意を描くことに寛容だった。

→「リサーチ・プログラム」の中に、クーンの仕事を統合した。

⇄一方で、ラカトシュは、科学理論を群集心理学に還元するといった相対論には批判的だった。:彼は、「パラダイムは独立した見地から比較することはできない」というクーンの主張を非合理というラベルを貼って非難した。

・1969年のイリノイでの会議

→科学の言語の「意味論」についての議論が展開

←ある集団で用いられている科学の用語が別の集団の用語に完全に翻訳することができないうクーンのテーゼに焦点が当てられた。

 

・相対論への危機感は、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていた。それは、20世紀の歴史や人類学の議論、さらには科学の議論に関して生じてきた。

:1930sから、相対論と全体主義のつながりを批判する動きはあった。(過激主義体制=自らのイデオロギーをほのめかすために、「科学の自立性」を過小評価するのだという見方。)

ex 1938年に、ロバート・マートンは、マンハイム知識社会学全体主義の充当にふさわしいものだとみなした。

→戦後、冷戦期に入っても、ポパーの『開かれた社会とその敵』といった著作にあるように、倫理の基準は歴史の状況に依存するといった認識論的相対主義への批判は継続した。

Cf オーエルの『1984年』でも、権威主義体制と倫理の発展、認識論的相対論の結びつきが描かれた。

→相対論は、全体主義にとって便利なツールだった。

∵個々の科学者を特定の社会や政治に服従させることができたから。

・こうした議論が、ポパーらのクーン批判を鋭くした。科学の社会的側面についての議論は、哲学的にも政治的にも連続していたのである。

・また科学を「集団の生産物」であるとする考えは、1930-50sのアメリカにおいても抵抗をうけた。∵東側の統制的な科学研究を連想させたから。

⇄民間の投資=個人に最大の自由を与えるという思想。

→WW2後も、反マルクス主義を背景として、科学の自由が支持され続けた。

・1953年のハンブルクで行われた会議では、マイケル・ポライニー(彼は反マルクス主義で、科学の自立性を擁護する立場にあった)が暗黙知に関する講演を行なった。

暗黙知:為政者は科学をマネジメントするほど十分にはそれを理解することはできない領域が存在する。

→クーンも暗黙知のアイデアを一部取り入れている。

:異なったパラダイム間でも科学者は互いに科学のことを理解することはできない

→この主張は哲学者の批判を浴び、彼はのちに「通約不可能性」の議論を洗練させることになった。しかし、結果として彼はポストモダニムズの先駆者と見なされるようになる。

 

(ここまでが哲学)

 

・歴史家にとっての関心は、external(科学史の駆動要素として、社会の力があるとする立場)/internal(科学史の動きは、純粋に科学の知的領域の問題であるとする立場)論争

:政治的な含意もある=マルクス主義との関わり

∵上部構造(internalな領域)は、経済活動という下部構造(externalな領域)によって決定されるという思想が含まれるから。→1930-60sまで

ex Hassen “ Social and Economic Roots of Newton’s Principia”(1931)=代表的な研究

→クーンは、こうした議論の系譜に位置付けられることを巧みに回避していた。(外的要因は『構造』では扱わないことを明記)

・Shapinの研究によると、このクーンが念頭においたinternal/externalといった要因は、科学史科学社会学の長い伝統に依存しているという。

マートンが最初に導入→マルクス主義と区別するため

∵externalつまり、社会的な因子を認めるが、それは科学の進化の度合いに影響を及ぼすだけであり、科学の内容には影響しないとした。

→1942年のCUDOSというエートスにも、communismという要素があるが、これも反

ファシストの含意があり、科学のアイデアは社会的経済的条件によって決定されるということを強調するものであったが、あくまで倫理的宗教的な価値観に関してだけであり、科学理論の中身には影響しないと考えた。

マートンの科学者共同体像は、クーンにも引き継がれた。1969年の遺稿の中で、彼はパラダイムという言葉を、模範的な業績といった哲学的な用語と、共同体といった社会学的用語とに分類した、

・しかし、クーンにとってはマートンの議論は、科学者共同体が実際に知識生産する側面を見落としており、その意味で、internalな歴史であるべきだとかんがえていた。またそうしたinternalな歴史観は、彼の先生であるバナールやコイレらによるところもあった。

・同時に彼は、広く、かつ自由な読書から、一連の世界観の援助のもとで展開される科学のモデルを引き出してもいた。

クーンは、マートンの社会的な次元に関するモデルと、科学者が実際にこうした世界観に基づく知識を生産するというモデル、つまり、内的なモデルとを接木した。

 

・とはいえ、当時のアメリカでの科学史では、科学者個人に焦点を当てたinternalな歴史が多かった。(ニーダム批判をしたGillispieなど。) またコナントも個人としての科学者を賞賛し、ドイツではAnne Mayerが、イギリスではバターフィールドの一派が、歴史から社会的な視角を締め出すアプローチをとっていた。

→こうした流れの中で、哲学者ほど強烈な批判を浴びたというわけではなかったが、クーンの『構造』におけるinternalとexternalの統合という試みは、革新的というよりかは、理解不能な混合体を提供したにとどまった。

→さらに彼の時代区分(periodization)は、あまりにも広すぎて、のちに弟子をほとんど産まなかった。

=彼自身の分析概念を用いれば、彼の大きなタイムスパンに歴史の語りは、その後の歴史研究の「パラダイム」を形成しなかった。

さらに、彼の科学革命は、16-17世紀の「科学革命」には馴染まないようにも思われた。

⇄とはいえ、『構造』は、「伝統的な権威の体系」つまり、権力の操作への熟考という道を開き、のちのエディンバラ学派へ連なる潜在能力を有していた。

=ブルアやバーンズらがクーンの仕事の基づき新しい科学社会学の方法を生み出し、それが歴史家にも大きな影響を与えたのである。

→彼らは特にパラダイムの説明におけるヴィトゲンシュタイン的な要素を抽出した。

パラダイム←(1)模範的な問題の解答、(2)どのように適応するかといった特定の指示を含まない世界の見方のモデル

ウィトゲンシュタインの言語の理解

=言葉はそれ自体固有の意味を持たない

パラダイムは、ある通常科学の過程の中でのみ機能する。

エヂンバラ学派にとって革新的だったのは、「科学革命」よりむしろ「通常科学」の議論の方だった。

→科学の実践のモデルは、論理的な演繹ではなく、ある局所的な状況における判断(force of life)

→一種の文化(subculture)

・この意味で、パラダイム言語ゲームと似ている

:科学の重要な社会的単位は、ある小さい集団内で共有された、特定の実践の形態である。

←externalなアプローチを採用することなく、社会的次元について分析することが可能

∵科学を実践する方法についての用語である、

実験器具などを中心に形成された科学者集団<専門分野

マートンの科学者集団

・SSKはクーンの議論を、ヴィトゲンシュタインへの注意に基づき参照した。

社会学といった社会科学の一部門も、科学を対象にできるようになった。

Ex Harry Collins, Steven Shapin, Simon Senaffer, Mertin Rudwickなど

→これらの研究は、クーンのウィトゲンシュタインの洞察(=異なるパラダイム間の論争においては、集団生活の相容れないモードが危機にひんしている)を悪用した。

通約不可能性に対する歴史学者社会学者らの応答は、それらを避けるのではなく、科学の社会的次元をあらわにすることができる道具として抱き込んだのであった。

・そのために、科学的論争の分析は、厳格な中立性を維持しなければならなかった。

:SSKのストロング・プログラムでは、相対主義というのは、公理であった。

相対主義はSSKにとっては実践的な必要性があった。

∵知識に関する全ての主張は、同じ社会学の用語と本質的には同じ説明をモン族させるとうに扱われなければならず、それゆえ、科学的信念といえども、他の信念と同じ説明様式によって説明されなければならなかったからである。=SSKは、相対主義を公理としていた。

→ここにきて、哲学とは対話をすることをやめた。

∵哲学=評価の問題をそれほど簡単に脇に置くことができないから。

・クーンのパラダイム論→SSKは、相対論を実践的な原理とした。

→哲学との分裂

→多くの歴史家は、クーンの意義を、哲学的な考察なしで受け入れた。

:科学的な実践についての包括的な歴史を、それまで研究対象にはなってこなかった集団のメカニズムと制度のメカニズム、テクストの修辞法といったトピックの精査の元に持ってきたという意義。←根本には実用主義相対主義がある。

・一方哲学者らもクーンの業績を、多くの問題を解決しないまま残してしまった。

→クーンを別用に解釈し直して、科学史と科学哲学とを統合することはできるだろうか。

クーンの受容の歴史は、誤読の歴史であった。

=『構造』はパラダイムを形成しなかった。

ラカトシュがそうしたように、自分たちが想定していた科学の理性的なモデルに対して、クーンの歴史像が暗示していることに直面せざるをえず、危機感を想起した哲学者もいたし、クーンには一切目を向けない哲学者らもいた。

・歴史家にとっての模範を形成することもなかった。

歴史家は、教育目的で使用されてきたパノラマ的な歴史観を避け、細かい個別研究をする傾向にあった。

→この方向へ移動することで、歴史家はエディンバラ学派のクーンの読解より重要な教訓を得た。

→テクストは、自ら権威を与えるのではなく、共同体の利益にかなうように読まれることで、権威が与えられる。=外的な要因がテクストの解釈にも影響を及ぼす。

・クーンは死ぬまで自らの主張を正しく理解してもらうことにこだわった。

 

コメント

・SSKの枠組みでアプローチするというのは、若干ミスリーディングなのでは。SSKは相対主義を実践的な原理として採用しているため、そこから哲学的に有意義な結論が出てこないのだとしたら、そうしたSSK的な分析から帰結される本章の主張も、やはりまた相対主義的なものになるといったことにはならないだろうか。むしろここでは、パラダイム論という説明様式を反射的に、つまり、科学史・科学哲学・科学社会学者自身にも当てはめるという意味だと思うので、意味を限定すればよいのではと思う。

 ・サイエンス・ウォーズに言及がないのはなぜだろう。

Integrating History and Philosophy of Science: Problems and Prospects (Boston Studies in the Philosophy and History of Science)

Integrating History and Philosophy of Science: Problems and Prospects (Boston Studies in the Philosophy and History of Science)

 

 

クーンのアテネでの録音(1995年)

www.youtube.com

 

 

ダーウィンルーム 読書会を終えて

 

 昨日(9月4日)に開いた読書会には、様々な方面でご活躍をされている11人の方に参加していただき、活発で刺激的な議論をすることができました。

 

 参加者の方々にはもちろん、宣伝等に協力していただき、慣れないキュレーターをサポートしてくださった方々に感謝するのみです。本当にありがとうございました。

 

 読書会を通じて、僕自身、様々な気づきや発見がありました。

 

 議論全体を通じて出てきた問題の一つは、やはり、「科学の資本主義化」と、その弊害ということだったように思います。そのことは、特にエンジニアとして仕事をしていらっしゃる方からも、直接の実感として発言がありました。

 そして、科学それ自体はさることながら、研究システムも含めて、これまでの冷戦型科学技術(国威発揚につながる原子力や宇宙開発、そしてコンピューター(※1))に象徴されるような中央集権型から、自律分散型へとそのあり方が変わっているという認識のもと、従来のように国家(政府)が科学技術を統制することは厳しくなってきているという著者の主張も、おおよそ会場でコンセンサスが得られたように思いました。(そのことは科学の不確実性が増しているという診断ともシンクロしています。)

  

 ところで、僕は、こうした歴史像に賛同しつつも、やはり依然として、政府の科学技術に対する役割は、当面はなくなることはないだろうと思います。しかし、それは今のままでは良いということではなくて、著者が結論部で書いているように、その際新たな体制の変化が求められると思います。

 

 そもそも、「科学の資本主義化」という現象は、20世紀の初頭のアメリカなどでもすでに見られていたものだと考えます。GEやデュポン社といった電気・化学工業系の企業は自社の研究所をつくり、その中で研究に従事する科学者のメンタリティーも、単に好奇心に基づく真理探究型から、企業の儲けにどれだけつながるかというミッション達成型のものへと変化しつつあったということが言われたりするからです。このときすでに、企業というセクターにおいては、もともと「科学の資本主義化」という現象は起きていたはずです。 

 それに対して、今日問題になるのは、政府や学セクターまでのは、資本の論理で研究への投資や、研究テーマの選択、研究成果のアウトプットをするようになっているという事態だと思います。

 

 資本の論理に支配された科学技術の研究開発は、必ずしも社会全体の利益ばかりを生むとは限らない。市場にとってよいものであることは、市民にとってよいものであることとは別のことだからです。また、そこには大きな情報の非対称性が存在します。ある科学技術に関して万が一事故が起きた場合でも、一般市民にはその中身がわからないことが多いのです。さらには、倫理の問題もあります。特に生命科学の領域では、遺伝子組み換えやゲノム編集など、技術的に可能なことがますます増えていきますが、生命倫理の問題を置き去りにしてはいけません。(軍事の領域においても、同じく倫理的な問いは重要になると思います。)

 

 だとしたら、政府の科学技術政策は、資本主義の論理とは別の基準でなされる必要があります。しかし、問題は、今の所、どうしても成果の見込みがない研究に対して政府が資金を出すというインセンティブが見えづらいという点です。

 「体制の変革」というのは、この辺りに関わるものだと思いました。

 「科学技術」という言葉は、あまり知られていませんが、戦時中に生まれた言葉です。初めて公の場で用いられたのは、1940年の全日本科学技術連合会及び、第二次近衛内閣のもとで閣議決定された科学技術新体制確立要綱というものでした。この背景には、技術官僚(自然科学の専門的な知識を有しながら、国の政策立案に参画する官僚)らの地位向上運動があったと言われています。彼らは、ポスト御雇外国人教師のポジションとして、つまり、法科系の官僚に準じる、あくまでも二次的な(縁の下の力持ち的な)地位にとどまっていた状態から、科学が重要になった20世紀の戦争を通じて、自らの行政領域を文部省らの科学や基礎科学という概念から差別化し可視化すべく「科学技術」という政策的な概念を切り取ったのです。そうした意味では、科学技術という語は、当初から政策と結びついていた伝統的な言葉とも言えると思います。

 今後も、科学技術政策の重要性は依然として残ると思いますが、そのあり方には、変革が求められると考えます。

 

 一方で、興味深いこととして、最近では、企業内の研究で失敗した(つまり儲けにつながらなかった)研究成果をオープンにして、他の企業と共有するよいう動きが出始めているということがありました。それは、将来的には、巡り巡って企業の利益につながるだろうという判断があることは事実だと思いますが、自立分散型社会を予感させるような、新しい発想だと感じました。

 

 最後になりますが、個人的にこの本が出て一番嬉しかったのは、これだけのスケールの大きさを持った議論が出てきたということでした。現代史全体を俯瞰する歴史像を提出してくださったというところにあったのです。しかし、「人類史全体」を思考の単位にしていらしゃる所長にとってはむしろ、この80年は逆に「短く」感じられるという話を伺い、とてもおもしろかったです。

 

※1 コンピュータが冷戦型科学技術に含まれるかどうかは議論の余地があるという意見もあった。