[Review]森脇江介「戦時期日本の科学振興政策-科学研究費交付金の創設と運用」

 

 ご本人から頂いた修士論文を拝読致しましたので、以下に概要をまとめさせていただきます。科学振興調査会と帝国議会の議事録をもとに科研費創設の過程と運用を分析した、戦時科学史研究にとっては重要な論文だと思います。なお本論文は、駒場キャンパス16号館2階の自然科学図書館でも閲覧できるとのことです。

 

 【概要】

 本論文で戦前・戦中期における文部省を中心とした科学振興政策を、科学振興調査会と帝国議会を主たる対象として分析し、当時科学が「なぜ」「どのように」「何を目指して」振興されんとしていたかを詳らかにすることで、戦時期における科学と国家の関係という問題枠組みに関して一定の示唆をもたらすことを目的としている。一次史料としては主に科学振興調査会と帝国議会の議事録が使われている。両者を使用することで、科学者や文部省と、それ以外の省庁や政治家といった両方のアクターによる議論に基づき、両者が共鳴しつつ科学振興政策を実現していったプロセスを描こうとしている。

 論点は、(1)資金配分のあり方、(2)基礎研究の振興とその目的、(3)研究の連絡・統制」、(4)日本の科学、東亜の科学という4つが設定されている。

 

 第1章 戦前・戦中期の科学振興政策概観では、主に先行研究が整理され、そこから本論文の視角の新規性が明確にされる。科学研究費交付金の創設に関しては科学史の分野では広重徹、河村豊、水沢光、政治史では畑野勇、産業史では沢井実や青木洋、行政史では大淀昇一らの先行研究があるが、一連の研究に欠落しているのは、文部省の科学振興政策についての帝国議会を対象にした分析であると述べられる。政策としての科研の創設と運用を見るとき、帝国議会というアクターの科学観の諸相に対する検討を欠いていることは問題をはらんでいるとした上で、「政策実現といった視点で見た場合の科学振興調査会と帝国議会との関係を分析する」といった本稿の目的が改めて明示される。

 

 第2章 科学研究費交付金の創設では荒木貞夫が文部大臣の在任中であった第一回から第三回までの科学振興調査会及び帝国議会貴族院衆議院の議事録を対象に、答弁の一つ一つを詳細に追いながら、科研費の創設過程が分析される。科学振興調査会は昭和13年に設立された文部大臣の諮問機関であるが、調査会の構成で重要なのは様々なバックグラウウンドを持つ人々から成っていたということである。例えば第一回開催時の所属委員43名の内訳は学界関係者18人、官立研究所関係者6人、政界関係者3人、軍関係者8人、官僚6人、その他2人であり、こうした比率は第三回までほとんど変化しなかった。

 第3回までの科学振興調査会と帝国議会の議論から4つの論点についての分析をまとめると、以下のようになる。「資金の配分方法」という視点に関しては、科学者側からの継続的な金銭的資金の拡充の要求があったが、資金配分までの具体的な方法までは指摘することがなかった。「基礎研究振興とその目的」については、科学振興調査会では「応用研究を目的としない純粋研究としての基礎研究」、「応用につながる基礎研究」、「基礎研究と銘打った応用研究」といった概念が入り乱れており、どういう基礎研究を振興するかという点に関して統一的見解はなかった。むしろ基礎研究という言葉の持つ曖昧さは、「文部省が所轄しているのが基礎研究」というロジックを議会に提示し、文部省に有利に機能した。また「東亜の科学・日本の科学」という点については、帝国議会において各議員や荒木が基礎研究振興の果たすべき目的として東亜に威容を示す日本の科学の樹立を宣言した。そこには対西洋の国威発揚の手段としての科学振興=上向きのナショナリズムと、東亜新秩序建設のための東亜を指導し威容するための科学振興=下向きのナショナリズムの二つが含まれていた。最後に「研究の連絡・統制」については、帝国議会では議員や大蔵省から強固な統制を望む声があったが、科学振興調査会の内部においては緩やかな統制を志向していたというのが大筋だった。すなわち、科学動員を行うにあたって研究現場にまで介入して指導するという過度に統制的な見方はとっていなかった。またこれら4つの論点に加え、荒木貞夫が文相として「科学振興とそれを担う研究機関としての大学の守護者」であるという意外な像が浮かび上がってきたという点が付与される。

 

 第3章 科学研究費交付金の運用では、科研が創設された後に開催された科学振興調査会における議論及び帝国議会の議論、そして「文部省科学研究費ニヨル報告」を対象に、同制度の運用という諸相が明らかにされる。

 まず第4回科学振興調査会の冒頭で調査会幹事の関口が政策の総括を行うが、そこから科研費の運用段階における3つの問題、すなわち(1)資金の配分方法について、(2)科学振興に資する連絡・統制機関の設置、(3)研究資材の不足が提起されるそして第四回では資金の配分が問題になったこの点については、波多野貞夫、佐野利器長岡半太郎が批判的に検討している。研究肌の軍人であった波多野は大学に対する恒久的な研究費用の充実を主張した。佐野も大学に対して直接的に予算を増やせないのかと問いただす。長岡は研究費が支給されたとしても、効果的に使えなければ意味がないと主張した。それに対し、関口と松浦の応答からは、単に基礎研究を標榜しても、それを行う大学になんの審査もなくお金をばらまくのでは大蔵省が納得しないという思考が読み取れるという。科学者側は必ずしも新たな資金制度を求めていたわけではなく、研究費を増額せよという要求にとどまっていた。一方文部省はその要求を受け入れつつ議会や大蔵省が納得する形での予算獲得を目指し、外向けに「目的をもった新しい制度をつくる」という論理を提示した。それゆえ、科学研究費交付金は科学者の要求と政治的な現実との妥協の産物であったとも見ることができると指摘される。第6回は人材育成が主たる議論であったため割愛される。第5回と7回では再び科学とは何かという議論に立ち戻った。そして第7回になってそもそも基礎研究、応用研究、実用研究という区別にいみがないのではないかという問題提起がなされることになる。7回ではもうひとつ、研究の総合・連絡・統制に関する議論があった。しかし方向性はまとまることはなかった。科学課、科学局が設置されたものの、文部省は企画院に対抗する範囲において自らの所掌の下にある科学者を緩やかに統制する組織を作ろうとしたに過ぎず、その方向へのモチベーションは低かったのではないかと分析される。

 一方、第76回、79回、82回帝国議会における特徴は、第一に科学振興の目的として「高度国防国家」の確立が掲げられるようになったことである。第二にそれまで科学振興政策に関する議論がほとんど行われていなかった衆議院において、応用研究を充実されるべきだとの議論が出現していることが挙げられると述べられる。

 第2節 科学研究費の運用では、青木洋の先行研究を参考に、いよいよ金額ベースの配分状況や審査過程が分析される。まず審査については学術研究会議が担うことになっていたが、実際には昭和16年度の配分から審査を担うことになったため、当初2年間では基礎研究を振興するという最低限の指針以外に明確な方向性がなかった。そのため、学術研究会議内部から「総花的である」との批判を受けた。金額ベースの配分は昭和14年から17年まで分野別(=理学・工学・医学・農学)配分額の推移、分野別件数の推移、分野別件あたりの金額の推移がまとめられている。学術研究会議との関係で重要なのは昭和15年から16年にかけての変化であるが、まず科研費の予算が300万円から500万円に増加している。また分野別の増加率では理学を除いた分野で約160-180%の増加傾向にあり、比較的応用的な分野により多くの資金が配分されたと述べられる。しかしこの「応用シフト」以外にとくに目立った特徴はない。

 第3節では「文部省科學研究費ニヨル研究報告」という科学課によって作成された資料をもとに、具体的な研究状況がどのようなものであったかを概観する。なお同報告書は機密扱いだった。まず昭和16,17年における分野別細目という資料から、工学・農学については「応用」という言葉を含む分野が多く見られることが特徴である。一方理学は純粋科学、基礎研究に分類されるものだった。続いて配分対象機関別の傾向からは、昭和14年から17年にかけて、帝国大学に対する配分題目数は増加の一途を辿っているものの、全体に占める件数の割合は、むしろ私立大学、官立大学(主に医科大)、旧制専門学校の方が多いことがわかる。昭和16年度以降の応用シフトの中にあっても、学術研究会議は既存の理学研究、とくに帝国大学理学部以外に対する支援を削除してでも応用研究を行うことに消極的であったと考えられる。科研費を利用した研究では「特徴がないことが特徴」であったと言わざるを得ない中、昭和17年から南方研究に関して重点的に新しい項目が採択されるようになったことは大きな変化であった。

 

 終章では、以上の議論を踏まえた上で、設定した4つの論点についてまとめられる。まず「資金配分のあり方」については、科研費創設前の科学振興調査会では科学者らが一貫して経費の増額を求めたが、資金配分の詳細な議論には至らなかった。4回以降題目にかかわらず自動的に配分される資金を求めたが、それに対し文部省は大蔵省その他を説得必要があり、既存の予算の増額という形では賛意を得難いという反応を示した。「基礎研究の振興とその目的」については、科学振興調査会では「応用につながることを意図しない純粋科学」、「応用につながる基礎研究」、「基礎とはいいながらも実際には応用研究」といった様々な概念が入り混じっていたが、そのことは文部省における科学振興政策立案において重要な問題ではなかった。むしろ「文部省が管轄しているものが基礎研究である」というのが共有された定義だった。「研究の連絡と統制」に関しては、科学振興調調査会内部では、科学行政機関の新設を謳いつつも、一貫して緩やかな統制を志向していた。最後に「東亜の科学・日本の科学」については、文部省の基礎研究の振興は実質的な国力の増進だけを目的としておらず、「二つのナショナリズム」を含んでいた。すなわち、科学という普遍的な土俵において世界的な業績をあげること、和洋折衷型の「日本の科学」を打ち立てるという「上むきのナショナリズム」と、東亜を植民地支配していく中、科学のレベルの高さを示す意味における「下向きのナショナリズム」だった。また本論文では、こうした目的に対して、実際に研究成果として何を達成したのかも考察される。「二つのナショナリズム」を達成する上での科学が科研費によって実現したかどうかという点について、少なくとも運用開始後の議論からは、西洋を上回る科学を樹立したという言明はない。また一例をあげるなら、湯川秀樹は「各種素粒子に関する総合研究」という題目で、科研費の支援によって研究していたにもかかわらず、新理論の樹立には至らなかった。また各題目における研究成果のうち、国際学会誌に発表されたものは皆無だった。

 また、広重徹の「科学の体制化」論の関係では、本稿は体制化の過程を広重が着目しなかったレベルで描き出したものであるとした上で、体制化の過程はあらゆる面での癒着では必ずしもなかったと述べる。文部省や研究者が目指したのはあくまでも緩やかな「連絡」であり、あらゆる研究活動を外部から統制するという類のものではなかった。また、広重は体制化をして科学・産業・国家が三位一体になることとしたが、本論文からは、その体制化を完結するに際してミクロなレベルで役割を果たした人物の存在であると述べる。すなわち、天文学者であり、文部省局長としての立場をもつ関口鯉吉や、長岡半太郎、田中館愛嬌といた科学者でありながら衆議院の立場にもあった。つまり各アクターの立場を一つに限定した議論は短絡的であり、現実には「科学行政家群」ともいうべき人々が、科学・産業・国家という集団の真ん中に立って、各分野の利害を反映させつつ、政策・体制化を進めていったと見るべきであると主張する。以上のように、本論文は広重の体制化論をミクロなレベルで補完する分析によって補ったものとして位置付けられる。

 最後に残された課題について述べられる。一つは、対象とした時期に政府によって行われた他の科学振興政策との接続である。科学振興政策は軍、商工省、企画院といったほかのセクターにおいても行われており、こういった政策立案過程における議論や、政策実行の段階における具体的な内実などを含めた総合的な比較研究がなされる必要があると述べられる。二つ目は「文部省科学研究費ニヨル研究報告」に基づく個別研究の成果に関する検討である。同時期の個別具体的な科学の中に、科学研究費交付金によって行われた個別研究を位置付け、その結果を分野ごとに集積することをもって、再び科研費という視座に戻る必要があると述べる。

 

 また評者として感じた限界点は、科研費の運用について、昭和17年度までのみを対象としていることが挙げられる。戦後末期においては、例えば学術研究会議の研究班といった新しい戦時政策が行われ、それにともなって科研費の運用にも変化が生じるはずだか、その時期は本論文の対象からは外れている。科研費の運用という観点からは、戦後末期までの過程を辿り、かつ戦後にどのように引き継がれたのかという点も検討される必要がある。

 

 

文献:森脇江介「戦時期日本の科学振興政策-科学研究費交付金の創設と運用」(修士論文東京大学、2014年)

今週読んだ雑誌論文や論考の概要など

(1)青木洋「第二次世界大戦中の科学動員と学術研究会議の研究班」『社会経済史学』第72巻第3号(2006年)、63-85頁。↓

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/72/3/72_KJ00005697928/_pdf/-char/ja

 

 本稿では学術会議の研究班を取り上げ、その活動の経緯、背景、概要、特徴が明らかにされる。学術会議の研究班とは、1943年に文部省により施行された戦時中の共同研究制度で、技術院の戦時研究員制度と並ぶ共同研究の制度である。そもそも学術研究会議自体は1920年に創設された文部省所轄の学術団体で、国内外の情勢学術の交流を目的としていたが、国内の研究の交流や推進には十分な成果を上げていなかった。そこで、1938年文部省の諮問機関である科学振興調査会が発足したことを契機に、学術研究会議の拡充が議論されるようになった。しかし学術研究会議は当初からその独自性、科学者の自治権が強く、文部省の要請で容易に改革できるものではなかった。契機となったのは1941年科学技術新体制運動の中で「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定されたことを受け、1942年に技術院が創設されたことだった。技術院では創設後すぐに科学技術審議会の設置に向けて動き出した。それは1942年に官制公布され、13部会からなる構成のうち、第一部会が文部省の所轄する教育機関を中心に動員の方針を検討するもので、学術研究会議はその下部組織として位置づけられた。そこでは主に基礎科学研究が対象になった。それに対して、技術院を中心に内閣による科学技術動員全般のあり方が検討されたのが研究体制特別部会だった。こちらは基礎研究に限らず広範囲の分野を対象にしていた。科学技術審議会の最初で最後の総会が1943年1月30日に開かれ、25の諮問が提出された。それに対し第一部会の会合が1943年3月23日に開かれ、一方の研究体制特別部会は3月23日に開かれ、ともに8月19日に答申を提出した。まず第一部会の答申は、戦力に直結する研究に集中するよう学術研究会議を中心とした科学動員の強化を図るという内容だった。研究体制特別部会の答申はのちの「戦時研究員制度」を提言していた。そして翌日8月20日に「科学研級ノ緊急整備方策要綱」が閣議決定され、学術研究会議の強化活用が決定した。一方の戦時研究員制度はやや遅れて10月の官制公布された。技術院と文部省の予算合計金額を比較すると、前者は1942年度700万円、1943年度1142万円、44年度2365万円で、後者は42年度715万円、43年度790万円、44年度2190万円だった。予算規模の拡大は両庁の勢力は拮抗ないし文部省の優位で推移していった。また政策内容を見ると技術院の外郭団体における活発な共同研究活動に比べて、学術会議を中心とした動員体制の遅れは明らかだった。そのため1942年末、学術研究会議は共同研究を重視する方針を打ち出した。先の科学技術審議会第一部会答申もその延長にあった。1943年11月25日、特に混乱もなく学術研究会議の改変が実現した。改正では、会員数を増やし、政府より任命された会長の権限を拡張された。また科学研究動員委員会が設置され、研究課題、担当者などを選定する任務を行った。科学研究動員委員会の第一回会合が12月6日に開催され、そこで104項目の重要研究課題と研究班の編成が決定された。44年度に結成された班の数は193班だった。一班あたりの班員数は10人、機関数は7.3だった。研究費の総額は11,743,300円だった。前年度の2倍を超える額が公布されたことになる。また個人研究費と比較するとそれは3倍近い額であった。また班員のうち教育機関、すなわち大学・高等学校等の研究者が90%近くを占めていた。しかし逆にみると、教育機関以外の研究者が10%ほどいたわけで、より広範な科学動員を目指していたこともうかがえる。採択された研究課題の特徴は、理工医農のそれぞれの部門の特性を生かした時局・戦局に対応した研究が多かったことである。
 また研究隣組との重複者は127名であり、そのうち112人が教育機関に所属するものだった。具体的な研究課題としても、不足資源、希少金属、エレクトロニクス、保健衛生などに関する研究で類似性が認められた。

 

 

(2)田中浩朗「日本の毒ガス戦の歴史」『化学史研究』第38号(2011年)、210-220頁

 

   本稿では第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時期に、当時国際法で使用が禁止されていた毒ガスが日本軍によっていかに準備され、実戦で使用されたか、また戦後に残された極ガス兵器や傷害者がいかに扱われたかが概説される。
 陸軍は、第一次世界大戦を総合的に調査するため、1915年に臨時軍事調査委員を設置し、調査の一環としてヨーロッパの毒ガス戦について調査した。他方、陸軍技術審査部は陸軍軍医学校と協力して1916年末頃より文献調査などを行っていたが、1917年に正式の研究審査命令を受け、放射用ガスと防毒マスクの研究を始めた。1918年には陸軍省に臨時毒瓦斯調査委員が設置され、研究の結果、1918年にはガス弾填実用ガスとして臭素が採用された。臨時瓦斯調査委員による研究が一段落ついた1920年以降、毒ガスの研究の中心になったのは陸軍科学研究所(科研)だった。その第2課が毒ガス研究を担当していた。同課は1923年度予算で化学兵器研究室の増築と化学兵器研究費の増額を果たし、1925年には同課は科研第三部として独立した。この時期には陸軍内にはアメリカの化学戦部をモデルとする「化学戦部編成案」があり、化学戦部本部では5名の外国技術者を高給で雇うことになっており、その一部は第一次世界大戦中にフリッツ・ハーバーの元で毒ガス研究に従事したワルター・メッツナーの招聘により実現した。1925年から2年間陸海軍の毒ガス戦関係者はメッツナーから講義、教習を受けた。科研第三部は1942年に陸軍兵器行政本部第六陸軍技術研究所(六研)へと改変された。なお、陸軍の毒ガス研究には初期の頃から大学教授を中心に多くの部外研究者が参加していた。また、1943年からはじまった戦時研究員制度に基づき、1944年4月に「毒物ノ研究」を課題とする2つの研究班が組織された。担当庁は陸軍省(六研)であり、研究委員は陸軍大臣の指揮を受けた。またこれとは別に1944年の文部省化学研究費を受けて、「化学兵器及爆発物」を研究課題とする研究班が学術研究会議科学研究動員委員会によって組織された。陸軍同様に海軍でも1923年海軍造蔽研究部で、ついで新設の海軍技術研究所(技研)で毒ガス研究がはじまった。
 陸軍では1920年代末までには毒ガスの研究を終え、製造の段階に入った。1928年には陸軍造蔽火工蔽忠海兵器製造所が設置され、そこで製造が開始された。陸海軍の毒ガス工場に原材料を納入したのは民間の化学企業だった。毒ガスの生産量は陸軍が6616トン、海軍が760トンで、填実された毒ガス弾は多く見積もって陸軍約207万発、海軍約7万発だった。
 陸軍における毒ガス戦の研究と運用研究は1933年に設置された陸軍習志野学校を中心に行われた。731部隊生物兵器の人体実験を行ったのと同様に、毒ガス戦の研究においても人体実験が行われた。例えば1939年に陸軍習志野学校長を統督として、中国東北部において青酸とイペリット・ルイサイトの効力を調べる人体実験が行われた。また1940年には関東軍砲兵隊司令官を統督とし、731部隊も加わった大規模な糜爛性ガス弾射撃の効力を調べる人体実験が行われた。
 1930年以降日本軍は毒ガスを実戦で使用していった。まず1930年に台湾で発生した霧社事件で先住民に対して催涙ガスが使用された。また1937年に勃発した日中戦争では第10師団が催涙筒を使用した。1941年には大規模な糜爛性ガスが使用された。太平洋戦争でもマレー攻略戦やシンガポール攻略戦で英連邦軍に対して嘔吐性、青酸手投瓶が小規模に使用された。
 敗戦後陸軍は毒ガス使用に対する連動国の責任の追及を逃れるために、関係書類を焼却し証拠隠滅を図り、米軍の尋問に対し虚偽の答弁をするための思想統一を図った。しかし米陸軍化学戦部は毒ガス使用が国際法上違法化されるのを嫌い、この件で日本の訴追中止を求めた結果、米陸軍は国際検察局に訴追を申請し、東京裁判で日本の毒ガス戦が裁かれることはなかった。
 敗戦後国内に存在した毒ガス兵器は占領軍が到着する前に海洋投棄された。毒ガス戦の被害者は攻撃を受けた兵士、人体実験の被験者、廃棄の際に被毒した作業員だけでなく、兵器製造等に関わった作業員も戦後長い間毒ガス障害に苦しんだ。

小島寛之『数学的決断の技術』を読みました。

 この本は、私たちが日々遭遇する選択行動の癖を知り、適切な決断の方法を場面によって使い分けるようにできる技術を伝達するいわゆる「ハウツー本」のように見せかけつつ、実は意思決定理論(数学と統計学と経済学と心理学にまたがる学際領域)の標準から最先端までの知見を学びながらアカデミックな教養を手軽に楽しむ、みたいな本です。結論を先に申し上げると、かなり面白いです。高校や予備校の数学の授業で「痺れた」経験を思い出しました。
 
 あなたは商売をするとして、商品A-Dまでを選択しなければならないとします。商品A-Dと天気によってそれぞれ利益がどれだけ出るかは異なり、それぞれ(晴れ、曇り、雨、雪)で表すと、A(2万円、2万円、1万円、1万円)、B(3万円、3万円、0万円、1万円)、C(2万円、4万円、0万円、0万円) 、D(1万円、5万円、0万円、0万円)です。この情報以外には何も与えられていないときに(つまり商売をする国や地域はわからないとしたときに)、4つの商売からどの商売を選ぶのが良いでしょうか?
 僕はAを選びます。Aはどの天気でも最低でも1万円の売り上げが保証されているからです。Aを選択する意思決定の方法は「マックスミン基準」(最低=minを最大=maxにしようとする)と呼ばれ、筆者のアンケートによると、これを選択する人は全体の7割程度だそうです。人は案外慎重に判断を下すのです。ちなみにBを選択する意思決定の方法は、「期待値」が最大になるものを選ぶというスタイルで「期待値基準」と呼ばれます。Dの選択は、可能な中で最大の利益に注目するという発想で、「マックスマックス基準」と呼ばれ、そして、Cの選択は「最も後悔を少なくすることができる」意思決定で、「最大機会損失・最小化基準(サベージ基準)」と言われる選択方法です。Cについて詳しく言うと、他の選択肢を選んでいれば得られていたであろう利益を損失として計上した「機会損失」が最小になる選択です。(例えばAを選んだ場合、曇りだったらDを選んでいた場合と比べて3万円の損失を被りますが、Cはどの天気でもつねに後悔は1万円であるから、最大の機会損失は1万円となり最小になります。)もちろん「正解」はなく、それぞれの選択基準にメリットとデメリットがあります。例えばマックスミン基準が妥当性を持つのは、「確率がわからない状況」、つまり統計的な頻度も全くわからない状況下で選択しなければならないとき、といった具合です。(私たちにとって深刻だった例は原発事故です。)僕が一番面白かったのが、マックスマックス基準を説明した5章です。そこでは「セント・ペテルスブルクのパラドクス」という例が紹介されます。次のようなクジを考えます。コインを投げ、表が出たら2円を得て終了し、裏が出たらもう一回投げることができるとします。そこで表が出たら4円をもらって終了、再び裏ならさらにもう一回投げることができます。そこで表が出たら8万円をもらって終了、以下同様に表が出るまでコインを投げ続けることができるとします。このとき、参加料がいくらだったらこの賭けに乗るか、という問題です。興味深いことに、実は期待値基準で考えると、参加料が1000万円であっても1億円でも参加すべきという結論になります。なぜなら、期待値は確率×賞金だから、1回目で表が出る確率は1/2で、賞金2円なので、期待値は1円、2回目で表が出る確率は1/4で賞金は4円だから期待値は1円、3回で初めて表が出る確率は1/8で賞金が8円だから期待値は1円…と、どの回でも1円になり、全てを合計すれば無限大になる、つまりこのギャンブルの期待値は無限大になるからです。しかしこの賭けに1000万円の参加料を払うことは馬鹿げているはずです。さて、このパラドックスをどう解くか?ベルヌイは「人は賞金額ではなく、それがもたらす『嬉しさ』を基準に判断する」と考えました。ざっくり言えば「人は賞金額が倍になっても、倍ほどには嬉しさが増すわけではない」というような「感覚の歪み」を取り入れた「効用の期待値」を計算した値(期待効用)を基準に判断すべきだと考えました。しかし、筆者はこれとは異なる考え方をしていて、それがすごく面白いのです。期待値にせよ、期待効用にせよ、それが「平均化計算」であることには変わりません。平均というのは「多数回の行動」を前提をしますが、私たちは一般に賭けに「多数回参加するわけではない」です。つまり射幸心からギャンブルに興じる人は、自分に一回だけものすごい幸運が訪れ、それが人生を抜本的に転換することを望んで行動しているのです。さらに、こうした射幸心やマックスマックス基準は「社会の成り立ち」と切り離せないのではないか、とも言います。社会ではたいての人は平凡な所得や資産のうちに暮らし、それが未来の豊かさも決定付けていますが、宝くじを当てることはその見通しを根本的に変えるかもしれないのです。この「劇的さ」は確率や期待値とは異なった次元であり、脳裏によぎるのは、自分というたった一回の存在の一回生の人生なのだと言います。こう考えると、マックスマックス基準といったひどく楽観的で無思慮な行動基準でも、じつは合理的な選択肢かもしれないのです。
 非常に面白い本なのですが、一方でこの本にも何度も出てくる「主観的確率」というのが、いまいちしっくりきませんでした。それもそのはず、今まで高校で習った確率は、サイコロとか球とか非区別的な性質がある「モノの対称性」を基本に据えた「数学的確率」だったからです。ただ、それは確率論全体のうちのごく一部にすぎないのですね。主観確率については科学哲学でも議論されるトピックだと聞いたことがあるので、もう少し詳しく知りたいと思いました。

 

文献:小島寛之『やさしい確率で「たったひとつ」の正解を導く方法』(朝日新書、2013年)

 

 

古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで』(後半)

  1760年代から1860年代にイギリスで起きた産業革命の担い手は伝統的職人層だった。化学を除けば、そこではここの新技術の誕生に大きな役割は果たさなかった。むしろ伝統技術の改良、応用、創意工夫で成果をあげた。しかし逆に、産業革命は科学に以下の影響を与えた。(1)企業間の競争から科学者へのニーズがたかまること、(2)科学の制度化の性格を産業志向的なものにしたこと、(3)ヨーロッパ文明全体が世界制覇をする契機を与えたことである。イギリスではドイツのような大学レベルの科学・技術教育は十分に確立しておらず、産業界を支える科学技術者の数も劣勢だった。王立化学カレッジでも、民間の篤志家の志向に依存していた。オックスブリッジでは良きクリスチャン・ジェントルマンを養成することを旨とした古典教育を貫き、19世紀の前半は科学の専門教育は行なっていなかった。そんな中イギリスでは、実用主義を強調した中産階級による「草の根科学」が普及した。1820年代から作られた技能講習所という会員制の学校では、全国の労働者層へ実用的な科学知識の普及を進めた制度だったし、1828年ベンサムを主導に開校したユニバーシティ・カレッジも、有用な知識を普及させる非国教学校だった。(以上9章)
  20世紀に入るとアメリカで産業科学が台頭するが、その背景には(1)19世紀末の高等教育の拡充と、(2)産業の再編があった。(1)に関しては、南北戦争を契機に工業化への脱皮を図るべく、高等教育が拡充されたことが特筆される。1862年には農業や産業に関わる階層のために、農学や機械技術を教える大学を作ろうとする州に、政府所有土地を無償で与えるモリル法が制定され、ここで開校したland-grant collegeが、州立大学の起源になった。例としてMITやコーネル大学がある。あるいは、1876年に開校したジョンズ・ホプキンス大学では、ドイツ流のヴィッセンシャフトと、オックスブリッジ的なピューリタン教育とを融合させた基礎科学教育と大学院教育で、新しい流れを作っていった。1880ー90年代にアメリカ人のドイツ留学がピークになり、帰国した科学者はアメリカの教育機関にポストを得て、ドイツ学問を導入した。またすでに1848年までにアメリカ科学振興協会がつくられ、19世紀末までには専門学会も設立されていた。(2)は、世紀転換期に一連の巨大企業が相次いで誕生したことである。1890年代の不況で、1200者が統合、合併したことがその背景にある。そうしてできた大企業は自前の実験研究設備を備えることで、学卒者を採用するようになり、産業研究者が増加した。特に化学と電気工学は科学の成果と技術開発との連関が認識されていた分野だった。そうした中、ごく一部の企業は応用科学から切り離された純粋科学(pure science)の探求を主眼に置いた基礎研究の試行に踏み切った。例を挙げると、ジャネラル・エレクトリック社=GE社の初期の中心メンバーはドイツ留学の経験がある物理化学者で、中でもラングミュアは1913年にガス封入電球の発明で1932年にノーベル化学賞を受賞した。20世紀中葉に向けて産業界と大学の結びつきは加速度的に緊密になっていき、科学は企業にどれだけ利潤をもたらしたかという基準から評価されるようになる。(以上10章)
 19世紀後半から20世紀にかけて、科学研究が国家の経済力や軍事力に果たす役割を強調する議論が沸き起こった。1851年のロンドンの大博覧会から60年代に至る顛末がこうした議論を煽った。ロンドン博は英国政府や国民の間で、科学が国家の繁栄につながるという意識が芽生え始めた時期に行われた行事だった。(また、19世紀中葉以降、オックスブリッジにも大学付属の研究施設ができたり、アメリカでもイェールやハーヴァードに物理関係の研究所が作られるのなどの「制度革命」が起きたことも見逃せない。背景としては、学生の急増や産業上の要請などが考えられる。)19世紀後半から、国際会議の開催数が増加していることも、科学活動が国家単位に分裂したことの表れである。1881年にパリで開かれた国際電気会議で、ドイツ代表団はフランスが度量衡において世界の主導権を握ることを危惧し、1887年国を挙げて実験物理学に奉仕してほしいという内部からの要請で、大学とは独立した科学・産業・政府をつなぐ独立研究所である帝国物理学・技術研究所=PTRを創設した。またアメリカでは20世紀の前半、私的な慈善団体が大学の科学研究に大掛かりな資金援助を行うようになっていた。スミソニアン研究所やロックフェラー医学研究所、ワシントン・カーネギー研究所はまず既存の大学から独立し研究のみに専念できる研究所を作った。そして財団と大学を結びつける役割を果たしたのが、国家研究評議会(NRC)だった。各国の研究所創設ブームは1911年ドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会の設立で頂点を迎える。これはベルリン大学創立100年の祝賀会で、ヴィルヘルム2世が設立を宣言した。大学やその付属研究所では教授たちは教育のために時間が費やされており、研究が停滞しているとの認識のもと、純粋研究を行う独立研究機関として構想された。そしてここからは、物理科学・電気化学研究所の所長であったハーバーが空中窒素固定によるアンモニアの合成法の発見をきっかけに毒ガス兵器の製造を、また化学研究所のハーンとシュトラスマンがウランの核分裂反応を発見したことをきっかけに原子爆弾の製造につながったという意味で、同研究所は2つの大戦で「有効」に活用されたといえる。

 

文献:古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで(増訂版)』(南窓社、2000年)

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

 

古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで』(前半)

 16ー17世紀の西欧近代の幕開けに成立した近代科学と今日の科学は、その内的側面以上に、社会的側面において、大きな変化を経験した。当時大学では科学の専門教育は行われていなかった。科学は私財を投じるか、裕福なパトロンに財政援助を受けることで初めて営むことができた個人的な余技といったほうが適切だった。しかし今日、科学は社会的に大きな意味をもつ営為になっている。社会に定着した仕組みを「制度」というならば、科学はそれ自体一つの制度になっている。当時の「自然哲学」とは違って、世俗化され、伝達可能なものとしてマニュアル化されるという変化も、この制度化と切り離して考えることはできない。そして、本書はまさにそうした科学と社会の相互作用、社会的文化的側面の歴史=社会史(external history)の入門書だ。扱っている範囲はルネサンスから20世紀までの欧米と日本で、入門書とはいえかなり詳しく、特に政治史を中心とした世界史全体の文脈の中で捉えようとする視角があるのも特徴だと思う。また著者が化学史の専門ということもあり、その方面の記述は洗練されている。図版も豊富で、カイザー・ヴィルヘルム協会の美しい建物とか、実験中のカローザースの写真、防毒マスクをつけるイギリス軍兵士の写真などが特に印象に残った。
  というわけで、早速、19世紀の制度化から、専門職業化を経て、ナショナリズムと結びつく過程を、6ー11章のまとめを通じて、二回に分けて自分なりに整理したいと思う。(一読した今も、このあたりがまだぼんやりして、上手く整理できていないので、書きながらまとまったら良いと思う。)

 

 


 19世紀は科学教育・研究組織の専門化、職業化などの制度的な基盤が確立される時期だ。まずはフランスを例にとる。フランス革命直後に政権を取ったジャコバン派は、王立科学アカデミーの閉鎖など、アンシャン・レジームの科学組織を破壊したが、1794年ロベスピエールが処刑され、恐怖政治が終わると、新たな体制の建設が始まった。最大のイベントは1795年にécole・Polytechniqueが創設されたことだ。その背景には、革命の波及を恐れた反仏同盟が干渉戦争を起こすようになったことで、輸入不可能となった軍事物資の自給体制を確立すべく科学技術者を結集させたということがある。ここでは技術教育の前段階として基礎科学教育を徹底させたところに特色があった。また1799年からナポレオン政権に入ると、科学の制度化はさらに進められる。彼は中等学校リセやバカロレアの試験制度を設けた。また、4年後の学制改革で、フランスをアカデミーといわれる40ほどの教育区に分け、各地区には1つのリセと一つ以上のファキュルテを配備し、帝国の秩序を強化し、国力を増大させようとした。また1808年、高等師範学校が再開せれ、école・Polytechniqueと勝るとも劣らない評価をうけた。école・Polytechniqueが上流階層出身者が多いのに対し、高等師範学校は中産下層階級の子弟が多く、パストゥールもここから出ている。(以上6章)。

 次にドイツの例に入る。ドイツ帝国誕生の1871年、パストゥールが『フランス科学についての省察』を書き、衰退論を唱えたのが印象的だが、この時期のドイツ科学の振興の背景には、やはり制度化に成功していたことがあった。ドイツはフランスのような中央集権的な性格とは異なり、地方分権な特徴があった。例えばドイツ自然科学者、医学者協会は閉鎖的な既成アカデミーではなく、自由参加型の科学者共同体だった。そこでは「学問としての科学」が強調されたが、それはドイツの大学改革における科学の理念と一致していた。1810年ベルリン大学が示した新しい方向は、大学は国や社会から独立して、教師と若い学生が手を携えて人間形成としての純粋学問=Wissenschaftの探求を行う機関であるというものだった。Wissenschaftという概念にはドイツ観念論ロマン主義などの学問観が反映しているという。また、ギーセン大学のリービッヒの実験教育は、当時興隆期にあった有機化学の化合物の同定を行い、教育と研究が統合された例である。学問としての科学が大学でおこなわれたのに対し、学問としての技術は高等技術学校= THで行われた。それは諸領邦の都市に設けられた。ドイツの地方分権的な教育制度は競争状態を生み出し、研究の活性化に繋がった。(以上7章)。
 19世紀、科学は内的にも成長を遂げた。物理学、化学、生物学、地質学は自立性持った学問分野として形を整えていった。化学を例にとると、定量的手法が重視されるようになり、「化学革命」を経たのち、物質の構成要素や化学反応に関わるいくつかの指導原理を持ったがくもんとして確立されていった。有機物は無機物とは異なる原理からなるという生気論は支持を失い、有機化学は生命体物質の化学ではなく、炭素元素を主体に構成された化合物の総称となる。このように実験的方法や数学的記述は19世紀において、専門分野を開く主導的アプローチになった。研究の分業体制を深化させていく、「専門分化(specialization)」も19世紀の科学の進展だった。19世紀には20以上の全国規模の学会が誕生したことは、このことの反映である。ここでは科学は宗教や哲学、文芸といった領域からますます隔離された知的活動になっていく。またウィリアム・ヒューエルが1834年に「サイエンティスト」という造語で新しい呼称を与えたことも、専門分化により研究者自身の専門分化が高じてきたためだった。こうした専門分化は、科学の内的な発展の帰結と決めつけてはならず、やはり19世紀の外的条件があったことは見逃せない。そこには科学教育の出現による専門的科学者の量産、科学の職業化、科学者の地位向上運動などがあった。「職業化professionalization」とは、「専門的な科学教育を受けた人々が、フルタイムでその専門領域の仕事に従事することによって生計を立てること、その仕事が社会的に確立された職業となっていることへ至る相対的な過程」だと定義される。これも19世紀に起きた重要な出来事であった。18世紀までの科学の担い手は聖職者や医師、貴族などで、君主や貴族、産業資本家がパトロン役を務めていた。大学教授であっても別の本職があり、それだけで生計を立てていくことはできなかった。しかし19世紀の専門教育の出現により、庶民の子弟であっても訓練を受ければ科学者になれる道が開かれ、社会階層として科学者が出現したのだった。(また技術の方にも少し触れると、18世紀に職業としての技術者=工学者(エンジニア)が誕生した。フランスで誕生したingenious civilは、従来のギルド的な枠組みからはみだした集団で、その多くは技術官僚だった。)さて科学に戻ると、職業的な科学者のニーズはまず企業ではなく、教育界から生まれてた。産業革命を経た19世紀後半に入ると、漸く研究者は産業界で有効活用されるようになる。(以上8章)。

 

文献:古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで(増訂版)』(南窓社、2000年)

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

 

2017年度「歴史学」期末レポート

 去年受講した余語先生の歴史学の期末レポートです。

【課題】「あなた自身が興味深い技術を分析対象としてとりあげ、調べた技術をめぐる歴史的事象と、背景となる当時の社会文化的状況を記述したうえ、上記のテーマについて自らの考えを示しなさい。」

【書き方】「テーマの説明」「資料の提示」「分析と考察」「まとめ」「引用文献参考文献一覧」のスタイル

【字数・書式等】2000-3000字で、A4横書き

でした。授業はほとんど聞いておらず、中間レポートも遅れて出しましたが、評価はA+でした。もともと評価が甘いのか、期末レポートが良かったかのどちらかです。また、授業では日本の技術史が中心だったと思いますが、レポートでは海外の事例でも問題なかったようです。文献は関連する部分しか読んでいないので、もう一度通読したいと思います。(面白い本なので。)

 

  歴史学期末レポート 「ねじ」の標準規格化を進めた歴史的・社会的状況

 —デュアルユース論の再考—

 

1 テーマの説明 

 昨今、(科学)技術の二面性を指すデュアルユースという言葉をよく聞く。技術は軍事利用と民生利用のどちらにも利用できるのであり、防衛省の進める防衛装備技術研究推進制度でも大学での研究においてもそのことを踏まえ、軍事研究へ直接つながる研究ではなくても将来的に軍事に応用できるような民生利用の技術開発を促すことで、軍事研究へのハードルを下げているように思われる節もある。しかし技術はもともとそうした二面性を持つことは自明であるということもそうだが、そもそも技術がなんらかの「製品」を前提にしていることに疑問を感じる。技術には製品以外にもその製品を成り立たせるモジュールからパーツ、さらには素材まで様々なレベルに分かれている。そして技術の二面性はそれぞれのレベルにおいても言える。私が「ねじ」という技術に興味を抱いたのは、ねじという技術そのものもなんらかの歴史的・社会的な要請に応じて開発され改良されたものであり、それ自体中立的なものでなく、軍事や民生などのネットワークの中に埋め込まれていることを示すことで、従来の製品を前提にしたデュアルユース論を再考しようと思ったからである。本レポートでは主にイギリスとアメリカで進められたねじの技術開発の事例を取り上げ、それが技術的なプロセスであると同時に、歴史的な背景を持つ社会的なプロセスであることを示すことを目的にする。。

2 資料の提示

  西欧で誕生したねじに日本人が初めて出会ったのは種子島に鉄砲が伝来した16世紀のことだった。鍛冶屋職人の八板金兵衛は火縄銃の模造を命じられ、筒などは作ることはできたが、その銃尾に用いられていたねじの作り方は見当もつかなかった。言い伝えによると、金兵衛は娘をポルトガル人に嫁がせることでねじの作り方を学ばせることでなんとか知り、藩主に献納することができたという。

 西欧においては木製の原型からそこから鋳型をとることで製造するプリミティブな方法の他、工作機械によってねじを切っていくという方法が15世紀ごろから考案され、17世紀になると工作機械はさらに発展する。18世紀になると先のとがった「木ネジ」が工作機械で大量生産されるようになり、さらに数学研究や天文観測の要請から高い制度で細かいピッチをもつねじを用いた正確な目盛りが作られるようになる。

 その精密なねじ切り旋盤を考案したのがヘンリー・モーズレー(1771-1831)である。そしてモーズレーの工場で働いたもう一人の技術者がジョセフ・ウィットワース(1803-1887)だ。モーズレーの工場をはじめとする各工場で、工場内の互換性をもつようなねじが製造されたが、各工場で作られるねじの寸法や形状はまちまちで、工場間の互換性はなかった。なんとかそれらの間に互換性をつけ、ねじの規格を全国的に統一できないかと考えたウィットワースは全国の工場からねじを取り寄せそれらを比較した。その結果は1841年の英国工業会(institution of Civil Engineers)で報告された。そこで彼はねじの溝を決める三つの要素としてピッチ(山と山の間隔)、山の高さ、山の形をあげ、それらの値を厳密に決定できるような力学的な原理はないと指摘する。そして彼は単純にそれらの平均をとるという方法をとった。彼は「何とか成功させる唯一の道は、ある種の妥協であり、すべての人々の共通の利益のために中間を採用することである。」と述べている。そうして計算した答えが55度という山の角度のねじであった。つまりそこには科学的根拠や技術的根拠はなかった。

 一方ウィットワースがねじ規格を提唱した20年後、米国ではウィリアム・セラーズ(1824-1905)が英国規格とは異なる新しい規格を提唱した。彼の規格の大きな特徴はねじの山の角度が60度という単純な角度であるという点だ。これは幾何学的にも簡単に作図でき、正確に制作・検査できるという理由で導出された。しかしこの合理的で技術的にも完全に思われるセラーズ規格に対して講演後に産業界からの批判的なコメントが集まった。蒸気機関の製造企業の技術者からは、機関車の製造にはもっと細かいピッチのねじが使われていると指摘された。またスチーム暖房の専門家ロバート・ブリックスは逆にねじ部分のピッチを細かくすると後で管を回して外すことが困難になると指摘した。このようにセラーズの提案には様々な意見があったが、全体として統一規格を作ることが望ましいということでは合意した。そして講演がなされたフランクリン協会によってねじの標準規格を策定し、その規格を関連学会や組織にも通達し国内に普及させていくことが決議された。その後まず海軍省の技術局がその規格の採用を推薦し、1868年には連邦政府の管轄下の工場でも採用され、次々と国内に普及していった。

 さらにアメリカは1917年に第一次世界大戦に参戦した際、国内の資材の利用が進められるとねじなどの基本部品の規格が統一されていた方が都合がよく、そうしたことから翌年ねじの規格化について全米ネジ協会が設置された。1933年には財政上の理由で一旦廃止されるが、第二次世界大戦を契機に再び設置され、ねじの規格化が検討されてくことになる。

3 分析と考察  

 従来、互換性や量産が目指されていなかった時代ではひとつひとつが異なる規格のねじでも問題はなく、それどころか職人にとっては修理が必要となれば購入者はその職人の店に戻ってこなくてはならず、わざと部品に互換性をもたせないといった悪弊もあったという。しかし産業革命以降、複雑な機械や多くの機械が連関し合う機械システムが作られるとともに、製造における分業化が進展し、大量生産が要求されるようになることで、部品と製品の標準化がますます求められるようになった。具体的にはガス管やガスバーナーなどのガス供給網の付属品、鉄道者両の連結器の位置やサイズなどが代表である。いずれもネットワークの構成品であり、その間の接続性を保証する標準規格が要請される。ねじの技術における標準化の過程にはこのような複雑な歴史的・社会的な状況や要請が背後にあってと言える。

3まとめ

 以上ねじの標準化のプロセスをめぐり、それが歴史的には産業革命を背景として複雑な機械や多くの機械が関連し合うシステムが作られるようになったことと同時に、製造における分業化が進展することで部品と製品の標準化がますます求められるようになるといった社会的状況が背景にあることを示した。またアメリカにおいては、ねじなどの基本部品の規格が全国的に統一された背景には、第一次世界大戦に参戦することに際し国内の多くの資材が利用されるようになり全米ネジ委員会が設置されたことがあり、さらに財政上の理由から一旦廃止されるが第二次世界大戦への参戦を通じて、全米的な標準規格の制定の必要性が再認識されるようになり、実行が進められていったことも示した。従って技術の持つ二面性(デュアルユース)は単に兵器製品について言えるだけでなく、それらの下のレベルにあるねじなどの部品に対しても言えるのであり、そうした開発もなんらかの社会的要請に応じて進展していく。技術者はそのことを意識した上で開発を行うことが必要であると考える。(2986字)

 

文献

 橋本毅彦(2013)『「ものづくり」の科学史—世界を変えた<標準革命>』講談社学術文庫 第5 刷

 

 

2016年「生態心理学」期末レポート

「生態心理学」の期末レポートもアップします。

 レポートの課題は、「人間の「感覚」と「知覚」の働きについて、それぞれの違いに注意しつつ解説しなさい。複数の理論的立場からの主張を踏まえ、両者の関係についても述べなさい。」でした。字数は1200字以上で、「図表を用いろ」との指示もあったと記憶しています。また、この講義では事前にレポートの評価規準が公表されたので、ありがたかったです。基本は授業で話されたことをまとめただけです。図はうまく添付できなかったので、以下本文だけ掲載させていただきました。ギブソンアフォーダンス理論は、ユニークでとても面白かったです。

 

人間の「感覚」と「知覚」の働きについて

        —複数の理論的立場の比較を通じてー

 

 人間科学の中の諸学問で心理学は自然科学を志向してその科学的方法を模索し続け、ここ百数十年間で大きく発展してきた背景がある。その過程で様々な立場が生まれてきたが、殊に生態心理学(ecological phycology)は自然科学のみならず、思想、哲学等他の領域にも影響を与えたユニークなアイデアで満ち満ちている。本レポートでは人間の「感覚」と「知覚」の働きについて、従来の感覚理論や心理学の他の理論的立場と比較しながら、生態心理学の「知覚」理論を明らかにし、かつそれが他の立場との関係性からどのような特徴や有効性、可能性を持つのかを考察することを目的とする。

 まず人間の「感覚」の働きについて、伝統的にはどのように考えられてきたのかその理論についてまとめる。私たち人間は身体に多くの感覚受容器を備えている。その感覚受容器は物理的エネルギーによって刺激され、その反応出力が電気信号として中枢へ伝達される。伝達されたいくつもの信号を材料に計算統合されることで低次元の「感覚」が生じる。このとき私たちは感覚受容器への意識としてある「感覚」を持つ。例えば「(単に)冷たい」といった感覚である。しかしこの段階ではまだ対象の事物への「知覚」は生じていない。低次の感覚がさらに処理され統合されることで高次の「知覚」が生じる。このとき私たちは初めて、例えば「氷が冷たい」というように対象への意識を持つことができる。したがってここで知覚は感覚より高次の概念である。こうした感覚が統合され計算される過程は私的で内的な活動であり、実際どのようにしてそれがなされるのかをこうした働きを情報処理のプロセスとして捉えて分析する立場が1960年以来発展を遂げてきた認知心理学である。つまり意識は人間の内部にあるとし、あるモデルや模型をつくることでその内的過程を明らかにするという立場だ。

 一方で生態心理学では知覚を全く異なった捉え方をする。生態心理学はJ.J.Gibsonらによって発展された領域で、彼の知覚の定義は「アフォーダンス(affordance)が『直接知覚』されること」である。ここで重要なのはアフォーダンスという用語の意味するところと、「直接知覚」のもつ性質をはっきりさせることだ。

 第一にアフォーダンス(affordance)とはGibsonの造語であり、afford(~を与える、提供する)という動詞から派生した用語だ。これは動物行動を支える環境の意味や価値といった心的資源を指している。例えばコップの取っ手はそのコップを持つという行為を可能にし、コップの縁はそこに唇を当てて飲むという行為を可能にしている。したがってアフォーダンスは私たちがある環境の中で行為を行うとき、その行為を可能にする、「将来そうなる独立した可能性」つまり傾向性を持つということもできる。こうした考えの基礎に動物と環境は互いに補い合う関係すなわち相補性(reciprocal)であるとする思想がある。さらにこのアフォーダンスは安定した「情報」である不変項(invariants)によって特定される。

 第二にこうしたアフォーダンスが「直接知覚」されることの意味を、視覚を例にとることで明らかにする。従来の感覚理論では、ある光点から放射状に伸びる放射光の刺激エネルギーを人間の網膜で受け取られることでその光を感覚すると考える(図1)。一方でGibsonの知覚理論では人間の目は光そのものを見ているとは考えない。彼は逆に静止した観察点を中心としてそこに集められる包囲光を受け取ると考える(図2)。包囲光の中には刺激としてはどこかに反射したものも含まれている。その乱反射した光の差異は肌理を備えている。こうした光刺激そのものではなく、そこから独立した刺激同士の差異の構造やパターンを情報として知覚しているというのがGibsonの考える知覚理論である。ここで注意すべきことは光の構造やパターンは安定した情報、つまり不変項であるという事実である。Gibson(1966)はこの情報について「情報は、包囲光の《構造》の中に、つまり包囲光が《布置》をもち、《配列》であることの中に存在する」と述べている。以上をまとめると「感覚」とは感覚器の状態に対する印象で刺激エネルギーに相関し、対して「知覚」とは外界の事物に関する印象で刺激とはごく率した刺激のパターンに相関するということになる。

 

   図1 放射光             図2 包囲光

     (刺激エネルギー)             (情報)

 

 次に今まで明らかにした従来の感覚理論及び認知心理学の感覚や知覚の理論と、生態心理学における直接知覚の理論を相互に比較することを通じて、各々の利点と欠点を考察する。まず従来の感覚理論及びそれを発展させた認知心理学の利点として、曖昧な人間の認知過程を厳密に定義することが可能になり、より科学的な記述が可能になったことが挙げられる。また内部の認知プロセスがモデル化されれば、様々な法則を直感的に把握することもできる。しかし認知心理学等の理論の欠点として、低次・高次の対象への知覚は全てあくまで細かな刺激に基づいており、言い換えれば、刺激がなければあらゆる感覚や知覚は生じないことになる。したがって人間はどうして「見えないもの」を知覚できるのかという問いに対しては記憶によって補われるといった説明に終止する。あるいは直接触れられないのにもかかわらず感じる対象の形状(ダイナミックタッチ)をどう知覚するかといった問いには答えることができない。

 一方で生態心理学における知覚理論では、環境内に等しく存在するアフォーダンスが誰にでも直接知覚されるとする。不変項を知覚するということは視点を変えても変わらないものを知覚するということである。視点を変えるということは言い換えれば、①一人が複数の視点から見て回る、②多人数の人々が見ることであり、知覚が「公共性」を持つとも言え、内部モデルに依存することのない開かれた理論であると言える。また刺激そのものでなく刺激のパターン(情報)を知覚するとすることで、実際に刺激が存在しない、見えていない或いは触れていない事物の知覚も説明することが可能になる。

 Gibsonは実際に見えていない事物の知覚は「肌理の削り取られ方(イベント)」によって知覚されると考えた。事物が見えなくなるとき、環境内の何かの物質が背後の光学的構造を遮蔽し始める。この遮蔽のパターン(変形の仕方)こそが見えないことへの意識を支えると考えるのだ。パターンとは安定した不変項である。

 さらに生態心理学の知覚理論は実際に触れられない事物の形状(ダイナミックタッチ)の知覚も説明することができる。例えば私たちはラケットを振ったとき実際に触れていないヘッドのしなりを感じることができる。こうしたダイナミックタッチは回転運動に対する抵抗の大きさである「慣性モーメント」の違いによって知覚される。これは具体的にどの受容器で知覚されているのは特定できないが、慣性モーメントという安定した不変項によって特定される。以上まとめると生態心理学の知覚理論は内部のモデルに依存しない開かれた公共的な知覚まで考慮に入れ、かつ刺激が存在しない見えないものの知覚やダイナミックタッチに関しても不変更による情報知覚という説明ができるという利点がある。

 

文献:J.J ギブソン, 佐々木正人・古山宣洋・三嶋博之監訳『ギブソン 生態学的知覚システム–感性をとらえなおす』(東京大学出版会、2011年)

 

生態学的知覚システム―感性をとらえなおす

生態学的知覚システム―感性をとらえなおす