丸山俊一『14歳からの資本主義』を読みました。

 

 自分が生きている社会はどんな仕組みのうえに成り立っているのかを俯瞰的に捉えたいという思いを、絶えず抱いている。聞き慣れた言葉や、なにげない生活のやり取りの中にも、無意識のうちに固定化された物の見方や価値観が、潜んでいるかもしれない。一度立ち止まってそれらを振り返ることは、暗黙のうちに前提にしていた条件付けに改めて注意を向け、これから何を考えていかなければならないのかという問いに、ヒントをあたえてくれるかもしれない…。そのとき、「資本主義」という現代社会の根本を形づくっている巨大なシステムについて、その本質をわかりやすく解説した本書はそうした試みにとって有益なサポートになるだろうと思った。

 

 資本から価値を生み出すことで、際限のない拡大を至上命題とする資本主義は、しかし、19世紀には見られなかった新たな状況を、21世紀の今日に生み出し、複雑化させている。本書では、それを、(1)グローバル化、(2)「共感」の商品化、(3)デジタル技術の進歩という三つの要因を挙げ、まとめている。僕が面白かったのは、(2)と(3)だった。

 

 物質的な豊かさが達成されると、物が欲しいという消費行動から、サービスや、心を動かされる感動体験などの「精神」にお金を払うようになる。言い換えればモノ消費からコト消費へと移る。そんな後者の状況を、ポスト産業資本主義という。ポスト産業資本主義では、「精神」や「心」という領域までにも商品が介入し、「『共感』が商品となる時代」ともいえる。確かに、自分の最近の消費行動を振り返ると、食費や移動費などを除くと、友達との交際費や、映画鑑賞、音楽のレンタルなど、やはり精神的な満足を得ようとするところにお金をかけていたように思う。たまに服を買ったりするが、モノというよりは、ほとんどがコトを消費することが中心になっている。ここで問題なのは、感動体験という商品は、主観的な価値観に大きく依存していることだ。しかし、そうした価値は、個人の主観によって決まるものだろうか?あるいは、決めることができるだろうか?筆者は、ここで、「すばらしいから◯万円の価値」という論理から、「◯万円もするからすばらしい」という論理にすり替わってしまうのだという。筆者は、「共感が商品化する」という言い方をしているが、僕はむしろ「共感」が商品の価値を決める大きな要因になっているように思った。特に、流行になっているものを見たり聞いたりして、「やっぱり良かった」と感じたとき、共感が商品になっていたことでもあるが、他の大勢の価値観に共感したことで商品を消費したという見方もできるだろう。あるいは、「推しメン」と言われた誰かに共感して、何かを消費するといったこともたくさんある。

 

 さらに現代の資本主義は、テクノロジーと切っても切れない関係にある。特に、デジタル技術は、「成長」というよりは格差などの「分断」をもたらしていることが問題になっているという。「世界標準」を握ったGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)という言葉ができる一方、特にアメリカではAIなどのテクノロジー中産階級から仕事を奪い、低スキルで低所得の仕事への転職を余儀なくされ、上位10%が残りの90%を逼迫し、二極化を進めたという。ここでは、テクノロジーの労働力の方が、市場において人間の労働力よりも価値をもつという、人間とテクノロジーの逆転した関係が見られる。

 そうすると、シンプルに、浮かび上がる疑問としては、テクノロジーが既存の職を奪うとき、新たな職は生じないか。二極化にあわせて、これまで以上に所得の高い層から低い層へお金を配分することはできるか。本書でも触れられるベーシックインカムは妥当性をもつか。あるいは、そもそも社会の中で人間の職を失うという方向はネガティブなことなのかどうか…といったことが浮かぶ。こういった問いは、他の関連書籍なども頼りにしながら考えていきたいと思った。

 また、個人的に興味深かったのは、インターネットが需要と供給をマッチさせる上で有効に機能し、その意味で資本主義の力を加速させているという論点だった。このようなネットワークメディアと、資本主義の関係性についても、面白そうなテーマだと思った。

 

文献:丸山俊一『14歳からの資本主義-君たちが大人になることの未来を変えるために』(大和書房、2019年)

 

 

14歳からの資本主義~君たちが大人になるころの未来を変えるために

14歳からの資本主義~君たちが大人になるころの未来を変えるために

 

 

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか-問題史的考察』を読みました。

 

 19世紀後半、幕末維新期の日本がヨーロッパをモデルとした近代化を開始したとき、当のヨーロッパでは、自らが経験し、経験しつつある「近代」とは何なのかという、(ある種のメタ認知的な視点たった)理論的省察が始まっていたという。政治学ではウォルター・バジョットが、経済学ではカール・マルクスが、それぞれ当時の最先端であった自然科学の勃興(進化論や物理学等)に触発され、それらをモデルとしつつ、近代の現実を解明するあたらしい学問の成立を目指した。そして、そこに「近代」という概念の萌芽が見られた。本書では、福沢諭吉らを始めとする当時の知識人にも大きな影響を与えた、バジョットの「近代」概念の考察に基づき、日本の近代化の歩みを振り返っていく。バジョットの議論を一言で要約すると、政治学における近代化とは、「慣習の支配」から「議論による統治」への移行であるということになるだろう。しかし、この近代と前近代との間には、断絶と同時に、連続性があるという。議論による統治は、古代ギリシアにおいてもすでに見られ、そこでは「自由国家」、つまり、「主体的権力が分割されており、各権力主体の間で議論が行われる」形態が存在した。それは、「議論による統治」を生み出す「自由」と連続していると、彼は論じた。さらに、彼は、こうした近代への移行においては、西欧の文明的一体性を前提としており、西と東の断絶を強調したという。ここで含意されているのは、「旧い東の慣習的文明」から「あたらしい西の変動的文明」への移行が、西の文明圏による植民地化を通じて行われるという命題だったという。これが、日本が近隣諸国を植民地化することを正当化する要因になっていった。実際、彼は、近代化を推進する要因として、貿易と植民地化を指摘していた。従って、日本に政党政治が成立した理由に加え、資本主義が成立した理由や過程、植民地帝国になった理由や過程などが議論されていく。以下、理解した範囲で、簡単にまとめてみる。

 

 第1章では、日本の複数政党制が成立した理由を、立憲主義が導入された理由までさかのぼって考え、それらの論理的・歴史的関係が検証される。旧体制である幕藩体制の中にあった「合議制」という仕組みは、権力の抑制均衡の機能を持っていた。また、身分や権力といった名目的な権力と、実質的な権力とが分離していたことも、権力の抑制均衡メカニズムとして注目されるという。こうした相互監視システムは、明治国家体制につながっていく素因だった。そして、幕末の政治的危機に対応する「政治戦略」の一環として、具体的に、権力分立制と議会制の観念が浮上した。当時徳川慶喜のブレーンであった西周は、「議題草案」の中で、一種の三権分立制を提唱した。立法権と行政権とを区別し、非幕府勢力を前者の中に封じ込み、大政奉還後の幕府の政治生存を確保することが、彼の狙いであったという。

 第2章では、日本に資本主義が成立した背景が議論される。国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分だった。特に、不平等条約下の日本では、外資に依存しない資本主義にならざるを得なかった。そして筆者は、自立的資本主義の4つの条件として、内務省を始めとする国家による先進産業技術の導入、国家資本の源泉としての租税制度、質の高い労働力を生みだす教育制度、対外戦争の回避を挙げている。一方、日英通商航海条約調印による不平等条約の解消と、日清戦争を契機に、非外債政策を放棄した国際資本主義へと舵をきることになった。外債依存はさらに日露戦争にいたって固定化するものの、満州事変にいたって金本位制を支える軍縮という財政戦略が破綻し、結果として国際資本主義の基盤が揺らぎ、国家資本の時代が始まった。

 第3章では、日本はいかにして、なぜ植民地帝国となったのかという問題が考察される。その内的な動機の一つとしてあげられるのが、三国干渉であった。国際平和主義を唱えていた徳富蘇峰は、それに遭遇したことで軍事的観点に立つう帝国主義へと「改宗」した。一方、日本が当初取っていた自立的資本主義の形態は、見方を変えるとイギリスなどの欧米諸国の「自由貿易帝国主義」に抗する一種の経済的ナショナリズムから発した対抗戦略でもあった。従って、日本が国際資本主義へと転換した時点で、植民地帝国の構築を目標とした戦略をとることになった。日本の植民地統治の枠組みは、政府や軍部のほか、枢密院がその立法過程に大きな影響を及ぼしていた。従って、本章では、枢密院が関与した植民地立法過程を通じて、帝国の形成を追跡される。

 第4章では、日本の近代にとって天皇制とは何であったかという問いが出される。日本にとってヨーロッパというモデルはあったが、ヨーロッパ化のモデルはなかった。日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実体としての欧州を、「導入可能な諸機能の形態(システム)」とみなした。そして、それを日本で作動させることでヨーロッパ化が可能であると考えたのだった。しかし、それに先立って、日本自体が機能の体系として再構築されなければならず、その前提として国民主体に対して「機能主義的思考様式の確立」を求めた。重要なのは、こうした諸機能を維持するためには、それらを統合する機能を担うべきものを必要とし、それが西欧においては宗教=キリスト教であると、明治国家形成の指導者らはみなした。そして、宗教なるものの力が微弱であるとされた日本で、その宗教の機能的等価物になりえたのが、とりもなおさず、神格化された天皇だった。しかしながら、大日本帝国憲法における天皇は、統治権を統合する国家主権の主体ではあったが、その行使にさいしては、憲法の条規に依る、すなわち立憲君主とされた。そこで、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明治したのが「教育勅語」であったという。立憲君主としての天皇と、道徳の立法者としての天皇との相互矛盾の関係の不安定性は持続していたが、一般国民に対して影響力をもったのは、教育勅語によって培養された、道徳の立法者としての天皇だった。

 終章で、著者は、こうした日本の近代は、「一面では高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていた」と述べる。そして、近代化路線に致命的な挫折感をもたらしたのが、2011年の福島原発事故だったと診断する。これは日本近代の最大に成果の一つであった日本資本主義の基盤へ根本的な疑問を突きつけ、日本近代そのものへの根源的批判を惹起したとみなす。国際協力が最も必要な時代に、ナショナリスティックな主張が瀰漫し、「安全保障環境」の変化が強調され、軍事力の強化の必要さえ叫ばれている今日、「グローバルな規模で近代化路線を再構築すること」が、これからの日本が歩むべき道であると主張される。さらに、歴史から導く著者の考察も興味深い。

 国際政治の多極化は、冷戦後のソ連と中国の力関係の逆転もさることながら、「パックスアメリカーナ」の国際政治秩序の変化の結果でもあった。そして、それと同じような現実が、第一次世界大戦後の国際政治にも見られた。それは、「パックス・ブリタニカ」という覇権構造の破綻からもたらされた国政治の多元化だった(それは、アメリカにゼーションを推進力としていた)。そしてその東アジア版がワシントン体制だった。ワシントン体制は、多国間条約のネットワークを基軸とし、軍縮を基本枠とし、さらに経済的金融的連携関係によって支えられていたという特徴があった。しかし、ワシントン体制は、中国のナショナリズムの進展に対して、関係諸国内に協調が成り立つかどうかという問題が内在していた。中国以外の関係諸国との連携を志向した日本と、中国との協調路線を進めた米英との間で孤立した日本は、満州事変によって隘路を打破し、強行突破に走ったことで、ワシントン体制は崩壊に転化したのだった。そこで、著者は、このワシントン体制の正負両面の歴史的経験に立脚した新しい国際政治の秩序の理念が必要とされているのだと言う。

 

 本書では、一次資料として、日本の近代国家化の先導者たちの文章の引用が数多く用いられいるが、彼らにとって、バジョットの「近代」概念がどれほど強力なインパクトを持っていたのか、あるいは、バジョットでなくとも、「近代」をどのように捉えていたのかを感じるためには、本書を(受動的に)読むだけではなく、やはり積極的に史料に当たってみることが必要になるだろうと感じた。

 

文献:三谷太一郎『日本の近代とは何であったか-問題史的考察』(岩波新書、2017年)

 

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

 

 

 

鈴木淳『科学技術政策』を読みました。

 

 本書は、明治初期に「科学」、「技術」という言葉ができてから、科学技術政策が発足するまでの過程を描いたテキストだ。科学技術政策に関する重要な出来事を網羅的に記述し、それらの歴史的意義が簡潔に述べられる。また、本書では陸海軍の政策を他の省をほとんど並列に扱っており、戦争と科学政策との関係を冷静に捉えている。結果、近現代の通史としてバランスがよく、読みやすい。

 

 現代日本の科学技術政策は、1995年に制定された科学技術基本法に基づき、総合科学技術会議の議を経て、5年ごとに策定される科学技術基本計画によって進めれる。科学技術政策は、「広範な国家的課題の解決を目標として、直接にそれを達成する、あるいは将来問題解決の基礎となる科学技術の振興をはかる政策」とされる。人々が科学技術によって様々な課題が解決可能になるという見通しを持つようになって初めて、こうした科学技術政策というものが現れてくる。だが、国策に科学が資すること自体は、明治の初めから明らかであったにも関わらず、「科学技術」という言葉が現れるまでには時間がかかった。

 

 明治維新期においては、新兵器の導入から、幕府や諸藩が軍備の近代化を進めたことから、近代科学の受容が始まった。また集成館や蘭学寮といった大規模な生産体制もつくられた。ここでは、土着の在来技術との融合の成否が、事業を左右した。そして、科学や洋式技術を学ぶ最も水準の高い手段は留学だった。科学技術政策の観点から重要なのは、1870年に置かれた工部省だった。これは官営事業の管轄や工業の奨励を目指したが、広範な施策を行い、また計画のプライオリティーを調整する機能があった点で、のちの科学技術政策の課題を果たしうる機関であったと評価される。しかしながら、工部省の政策は人材の質的・量的不足等から限界点もあり、1885年に廃止された。一方、殖産興業のスローガンを背景として置かれた農商務省では、工部省なき後、一元的に産業技術を担当するようになり、試験研究所の整備などを推進した。(工業試験所1900年、蚕業試験所・農事試験所1893年など。)

さらに、農商務省以外でも、技術の高度化に伴い、各官庁は必要に応じて試験研究機関を発展させた。(1891年には、逓信省に電気試験所が、1904年に大蔵省に醸造試験所が、そして1903年に陸軍火薬研究所は、1909年には海軍艦型試験所が発足した。)

 また、科学技術政策発足の背景の一つとして重要なのが、技術官の地位向上問題であった。1899年の文官任用令改正によって、大学教授や技師が行政官として勅任ポストに就けなくなった。技術官の地位問題は、陸海軍でも同様であって、彼らの運動が科学技術政策発足の一つの背景になる。

 

 総力戦と言われる第一次世界対戦への対応として、貿易が制限される中で国家総動員がなされ、科学を活用した開発、生産の効率化などが図られた。また重化学工業の発展や、科学動員の課題認識をも喚起した。1914年に設けられた化学工業調査会では、高松豊吉など、大学教授にして産業界でも活躍する人々がいた。こうした人材の流用性が科学の産業での活用とともに、政策への産業界の要望を反映する力となったという。また、科学の産業への利用を目指した国民科学研究所の設置の提案が、高峰譲吉らから出され、1917年には理化学研究所が発足した。

 科学動員の文脈では、1918年に制定された軍用自動車補助法、軍需工業動員法、などが重要である。また、新兵器の利用が顕著であった第一次世界大戦を背景といて、陸海軍では研究機関や人材確保の制度の必要性が認識された。1919年には陸軍科学研究所が、1923年には海軍技術研究所が発足し、翌年には海軍委託生徒の制度も設けられた。さらに1920年に設置された学術研究会議によって、「科学者の意見を取りまとめて政府に施策を求める恒常的な枠組みが成立したと述べられる。また、1920年代後半の財政状況の悪化も影響し、試験研究の重複にも厳しい目が向けられ、1927年に設置された資源局の資源審議会では「国家重要研究事項」を出し、研究統制が図られた。こうした研究費の削減を背景に、日本学術振興会が1933年に設立されることとなった。

 

 日中戦争が勃発すると、総力戦への動員という形での科学政策が課題となり、1937年には資源局と企画庁が合同し企画院が誕生し、「不足資源の科学的補填に関する重要事項を調査審議」する科学審議会が置かれた。企画院の科学への進出は文部省をも刺激し、1938年には科学振興調査会が設置され、翌年、科学研究費交付金が創設された。

 本書によると、科学技術政策は、省をを超えた調整が大きな課題になったときに必要になるという。そして、歴史的には、科学技術という言葉は、1940年に誕生した全日本科学技術団体連合会(全科技連)において、初めて公式の場で用いられた。それは戦時下で「新体制」という言葉が流行した時代だった。全科技連は、科学・技術の「国策の指導推進」と「国策寄与に関する関係団体の相互連絡」を目指し、自然科学系の科学人・技術人が手を携えて行動する形態が「科学技術」のルーツの一つとしてあった。 

 科学技術新体体制の主役であった技術院の開庁は1943年に、科学技術審議会の官制が定まったのは同年末だった。しかし、科学技術研究を統制し、その発展を推進する強力な機関とはなり得なかった。一方、在来の官庁による科学技術への取り組みを活性化させたという意義はあったという。

 

 戦後、精神主義に振り回された戦時体験を省みたとき、そこに「科学精神の涵養」や合理的な統制の姿を論じ、それらを今後の課題とする言説が主流となり、「科学」は、希望の言葉となった。そして、占領下の科学技術政策においても「生活の恒常や産業の発展を目的として科学技術という枠組みでの行政は継承された」のであった。1949年に学術研究会議を廃止した後の日本学術会議の発足とともに、科学技術行政協議会が発足する。これは学術会議への勧告に対応する原則であり、その学術会議は産業や行政実務への関心が薄かったので、実質的な科学技術政策が作り出せなかった。一方1952年の講和条約発効で航空研究が解禁し、また1955年には原子力基本法が制定する。ここに宇宙開発という国家的な開発を担う形で1956年に科学技術庁が発足した。高度経済成長は科学技術を背景に進んでいたが、これは民間企業に支えられていた面が強く、その主役は通産省であった。しかし、1960年代後半以降民間の研究投資に政府の支出が追いつかず、1992年に科学技術振興にテコ入れする動きが起こり、1995年に科学技術基本法が成立し、現在の科学技術政策の枠組みが出来上がった。

 

  科学技術政策という観点から、日本の近現代史を眺めたとき、戦争が国策としての科学技術政策与えた影響は大きかったことがわかる。科学と軍事との関係を歴史的にたどったときに見えてくる一つの結論として、科学そのものの発展というよりも、科学技術政策という国策の基盤ができたということが言えるかもしれない。少なくとも言葉のレベルで、現在ふつうに用いられている「科学技術」という政策的な概念は、1940年の新体制運動のもとで初めて公式に使われたのだった。その背景には、省の壁を超えた科学振興の必要性や、科学者・技術者や研究機関の連絡の必要性の認識があった。果たして、それは、国としてのまとまりが究極的なレベルで追及された戦争を通じてしか、なされざるを得なかったのだろうか。もちろん、戦時下の科学技術政策がどれほどの成果をおさめたのかはわからない。(そもそも政策の効果を評価する指標はなかなかきめられないし、それは敗戦という帰結からしか最終的な評価はされないのかもしれない。) しかしながら、科学技術政策はその後、強兵なき富国路線として、科学を希望の光としながら継続されていった。国策は軍事が全てではないが、科学との繋がりの深さは絶えず意識されなくてはいけないだろう。
一方、政策の主体は政府だが、実際には科学者、国民や企業などさまざまなステイクホルダーのなかに科学研究はあるのだろう。それぞれが科学に求める意義を議論することが大事になるのだろうか。っといったありふれた議論しか今はできないが、またごちゃごちゃ考えていきたい。

 

 戦後の科学政策に関しては、まだほとんど勉強したことがなく、今後積極的に関連文献を読んでいきたいと思っている。

 

文献:鈴木淳『科学技術政策』(山川出版社、2010年)

 

科学技術政策 (日本史リブレット)

科学技術政策 (日本史リブレット)

 

 

 

論文レビュー

 

 田中浩朗「「科学技術動員」の概念について」『福岡教育大学紀要』(1999年)第48号、第二分冊、71-84頁。

 

 本稿は、戦時科学史研究において、最も重要な概念の一つである「科学技術動員」の概念の分析と、その規定の試みである。

 第一節では、科学技術動員の使用例が紹介される。1937年に設置された企画院科学部では、「科学動員に関する事項」等を所掌するとされた。1941年の「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定されてからは、科学技術という用語も一般化し、技術員時代に入ると、「科学技術動員」という言葉も広まったという。

 

 第2節では、宮本武之輔『科学の動員』(1941)と、藤沢威雄『技術政策』(1943)という科学技術動員の実務を担った2人の官僚の著作をもとに、科学技術動員の使用例を分析する。まず、宮本の方では、「科学動員」を、「科学の動員」と、「科学能力の動員」に二分しているとされる。前者は、研究・発明・考案などを国家目的のために活用することで、主に情報に関する動員である。一方、後者は、研究者や研究機関といった知的リソースを科学躍進の目的に活用することを指す。ところで、動員する科学や科学能力が貧弱であれば、動員の効果は薄いゆえ、「科学動員」は、優秀な科学を培養する「科学振興」と対になると述べていることも注目される。宮本は、この科学振興政策として、調査・研究・教育の三項目を挙げている。ここで、筆者は、「科学技術動員」と「科学技術振興」はあくまで別概念であることに、注意を喚起している。

 さて、藤沢の科学技術動員の捉え方で特徴的なのは、まず、「武力科学動員」、すなわち兵器開発のための科学動員と、「不足資源補填のための科学動員」とを区別している点である。前者は軍部系、後者は内閣系の系統に分かれると考えられる。もう一つの特徴は、科学技術動員を、学術研究→応用研究→実用化試験→企業化という一連の流れの中で捉えている点である。このうち動員に該当するのは、応用研究と、実用化試験である。学術研究においては、研究統制はされないとされた。従って、これは振興に該当する。

 

 第3節では、(1)国家総動員法、総動員試験研究令、(2)昭和十五年度科学動員実施計画要綱、(3)科学技術新体制確立要綱、(4)技術院官制および同事務分掌規定という4つの公文書をもとに、実際の科学技術動員の行政施策の内容が分析される。

 まず、(1)について。この法令からはまず、動員主体は主務大臣であり、それを内閣総理大臣が調整する体制になっていると指摘する。さらにこの規定は、平時戦時をつうじて適用することができた。この法律は、(2)の中で具体的に明記された。綱領に示された施策は、①科学研究の振興統制、②実用化の促進、③産業の科学的振興であった。まず①に関しては、統制=動員の対象としては、応用研究のみとした(学術研究は振興の対象とされた)。そして、国家総動員上重要な研究を「重要研究」として指定し、それらを促進し、それ以外は抑制するという形で統制がなされたという。(ちなみにこの「重要研究」の大半は補填資源の充足に関する課題である。) さらに具体的な統制方法としては、官庁所属機関か、民間機関かによって異なった。前者では、まず必要な研究事項と予算の概要を企画院に出し、企画院はそれらを連絡・調整を行うとされた。それに対し、後者は、各庁が行う研究補助奨励の統制と、国家総動員法の運用による研究命令に分かれていた。このように、研究事項や資金に関する施策が重要であったが、それに加えて、資材や人員の統制も重要な課題だった。筆者は、この計画の背後には、「既存の人員・組織を連絡することにより研究の効率化を図る」考えがあったと分析している。また、国家の中でも、統制する側=企画院と、される=各官庁に分かれるといった具合に、統制は重層的な構造をしていた点も指摘される。続いて、(3)について。これは1941年に閣議決定された、戦時中の科学技術政策の方針を定め、そのための方策を示した文書である。ここでは施策として、①科学技術研究の振興、②技術の躍進、③科学精神の涵養の三分野に分類された。①、③は振興、②が動員に各々グルーピングできる。(4)としては、1943年11月1日の最終的な形での官制、事務分掌規定が参照される。この規定からは、「科学技術動員」は基本的に省庁で実施され、技術院が「調整統一」を行うことになっていたということがわかるという。また技術院研究動員部は、主に航空に関する武力科学動員を担った。また生産技術部においても、技術動員が行われることになっていた。

 

 最後に、第4節で、科学技術動員の概念規定が試みられる。まず、動員される「科学技術」概念として、それを「情報」と「能力」に分ける。そして「能力」はさらに「研究能力」と「実践能力」に区別する。また、科学技術研究を「学理研究」と「応用研究」に区別し、建前上は応用研究のみを統制するとされていたとする。(応用研究とはここでは、「実際の技術的目標を達成するための研究」と説明される。) 続いて、「動員」概念の規定がなされる。軍事用語の動員は、「科学技術の編成を平時の態勢から戦時の態勢に移すこと」という意味だが、しかし、国家総動員法においては、人的及物的資源ノ統制運用」という意味で用いられており、これは状態の変化ではなく、ある継続的な状態を指す言葉であるから、両者は区別されるべきだという。そして後者を「統制」と呼ぶことにする。さらに、こうした動員(統制)と対応する「振興」概念についても、動員との比較がなされる。一言でいうと、振興は制度による自由の制限や強制はないが、統制(動員)にはそれがあるという違いがある。とはいえ、振興は、動員されるところの科学を培養する意味で、動員と深く関わってもいる。その意義を筆者は、「科学技術動員準備」に区分することで表している。加えて、「振興」以外の「科学技術動員準備」としては、調査、計画・法令の立案、動員資源の保護育成、規格統一・標準化などがあるという。

 なお、本稿での概念規定はあくまで暫定的なもので、今後精緻化されたり、変更されたりするものであるとし、本文はとじられる。

 

 本稿はあくまで、「科学技術動員」の概念整理であって、動員がどう具現化されたのかを示すものではない。例えば、科学技術新体制確立要綱は一種のマニュフェストのようなものだろうが、それが実際にどこまで実現されたかどうかは、気になるところである。また、振興と動員の区別は、文部省と企画院-技術院との分掌にそのまま対応していたのかどうかも、気になるところだ。本稿を元に他の論文がクリアに見えると良い。

ウェストフォール『近代科学の形成』を読みました。

 

 「科学革命(The scientific revolution)」は、コペルニクスの『天球回転論』が書かれた1543年から、ニュートンの『プリンキピア』の1657年にわたるおよそ150年間を指す場合が多い。本書では、そのうち後半の17世紀以降を対象にしている。17世紀の科学革命は、「自然を幾何学の観点から見て、宇宙は数学的秩序の原理に従って構成されているとする」プラトン-ピタゴラスの伝統と、「自然を巨大な機械と考えて、背後の機構を明らかにしようとする」機械論哲学の二大思潮が結びついて生み出されたとされる。この二つの流れは、常に調和的であったわけではなく、衝突しがちだった。これらの間の緊張関係が解消して、科学革命が身を結ぶまでの過程をたずねたのが、本書である。以下1〜4、6章の内容を、理解した限りおいて、まとめてみたい。

 

 第1章 天界の動力学と地上の力学では、主にケプラーガリレオの業績を取り上げられる。17世紀の科学革命にとって大事なことは、前者は天体動力学の問題を切り開き、後者は力学の問題を開始したということである。

 ケプラーの『宇宙の神秘』(1596年)において、ルネサンスの新プラトン主義に立って、コペルニクス天文学を完成させようとした。ケプラーは、コペルニクス体系において惑星が6個であるとされた理由を、「正多面体には5種類のものがあってそれ以上は存在しない」ことによって証明しようとした。続いて、ケプラーは、晶質の天球は存在しないことを主張した。それは、ティコ・ブラーエらの精密観測によって、1572年の新星と、1577年の彗星が、月よりも上の天上界に位置することが明らかにされていたことに基づく。これらの天体の運動は、天球の存在とは両立しないことから、天体の運動を、天球を用いることなく、新しく定式化できるような物理的原因の探求が進められることになった。その結果、ケプラーは三つの法則を見出したが、その中で重要性を持つのは、最初の二つであると著者はいう。それは、惑星の運動を記述するには、いくつもの離心円や周転円を組み合わせるような複雑なモデルではなく、楕円という単純性の中に解消させたからである。そして、コペルニクス-ケプラー体系の命運は、その幾何学的な調和と単純性という論点にかかっていたのであり、この点だけをもって、人々は宇宙の概念を変革することをせまられた。

 しかしながら、太陽を中心とする地動説は、多くの常識と矛盾した。その際たるものが、鉛直落下運動だった。地球が高速で運動しているならば、塔のてっぺんから落下した球は、どうして真下に平行に落ちるのか?コペルニクス-ケプラー体系は、こうした不都合を理解できるような力学体系を必要とした。そして、その力学体系の構築に最も貢献したのが、ガリレオである。そして、この問題の鍵は、慣性の概念にあった。

 ガリレオの運動概念の中心は、物体の本質なるものから運動を切り離したところにあった。別の言い方をすると、物体は、運動や静止状態には「無頓着」であるとした点にある。アリストテレスの自然学の文脈においては、運動は物質の本質の表現であるとされた。しかし、ガリレオにおいては、運動は物体の状態のひとつであるに過ぎず、物体は同時に複数の運度に参加することもできた。それゆえ、投射体は、水平方向の運動と、落下運動とが合成され、放物線を描くと説明することもできた。自然的な運動と強制運動という区別は、無意味なものになった。しかし、慣性運動は、実地に示すことのできない、理想化された概念だった。アリストテレスが経験から出発したところを、彼は理想化した状態から始めた。彼にとっての真の世界とは、抽象的な数学的関係の世界だった。彼は、数学的な運動学の基礎を築くことに成功した。そして、一様な運動と一様に加速する運動とを定義し、そのいずれをも数学で記述したのであった。

 

 第2章 機械論哲学では、科学革命において最も重要な考え方である機械論哲学のエッセンスについて、主にデカルトの著作をたどりながら述べられる。

 ギルバードの1600年の著作『磁石について』は、科学革命に寄与した古典的な書物の一つであるが、現代科学の知見からして、神秘的なアイデアを基調としていた。それは、ルネサンス自然主義と呼ばれる考え方である。ルネサンス自然主義は、人間の霊魂を自然に投影したアニミズム的な考えであり、本書で論じられた磁気的な引力は、まさにそうした世界に満ちている隠れた力の一つであるとされた。16世紀の自然哲学では、「理性にとって不透明な自然の神秘を公言していた」のである。また、それは、17世紀初頭の化学においても、ヘルモントらによって、主張されていた。彼が好んだ題目に「共感軟膏薬」というものがある。これは、傷にではなく、傷を負わせた武器の方に塗ると傷が治るというものだった。物質世界では、すべての点で非物質的な目に見えないものによって支配され抑制されていると主張されたのである。しかし、ヘルモントらのこうした主張は、17世紀の消えゆく伝統の最後のこだまだった。ルネサンス自然主義に対して、デカルトの機械論哲学は、自然には底知れぬ神秘などなく、理性にとって完全に透明なものであるという自信を表明していた。

 デカルトは、実在するものは、二つの実態から成ると論じた。すなわち、思惟(res cogitans)と、延長(res extensa)である。ここで、精神の領域を特徴づけるために、彼はcogitansという能動分詞をもちい、一方物理的自然を特徴づけるために、extensaという受動分詞を採用したことは、注目に価する。つまり、彼は、物理的世界は活動源を持たない不活性な存在であるとし、自然から心霊的特性を完全に払拭したのだった。そして、ここに近代科学の物理的自然が誕生した。

 物質と延長とが同等であるとするデカルトの主張においては、広がりを持ついかなる空間も、物質によって満たされていなければならず、従って、「真空」はありえないことになった。そこで、彼は惑星の運動を説明するために渦動説という体系を考え出した。宇宙は、しばしばエーテルと呼ばれた、極度に小さな粒子である第一元素と、それよりも大きな完全に球の形状をした第二元素、そして惑星とよばれる大きな物質を構成している第三元素によって成る。そして、渦動が軸を中心に回転するとき、一つの粒子が中心から遠ざかるのは、他の粒子が逆に中心に向かって動く場合に限るとされた。換言すると、「惑星の軌道は、その遠心的傾向と、渦動を構成する他の物質の遠心的傾向から生じる反対圧力との力学的平行によって成立する」とされた。渦動論には、欠点もあった。それは、惑星軌道の正確な数学的な記述ができないという、技術的な問題だった。その点、機械論は、数学的伝統を重んじるピタゴラス学派と緊張関係にあった。そして、17世紀にピタゴラス学派と、機械論を統合したのが、ニュートンだった。

 

 第3章 機械論科学の前半では、まず、次第に真空に対する考え方が変化していった過程が描かれる。すでに見たように、デカルトに代表される機械論では、物質と空間における延長とが同一視されるため、真空は存在しないとされた。また、アリストテレス自然学においても、真空中では速度が無限になることや、「無いもの」が「ある」といった名辞の矛盾などにより、「自然は真空を嫌う」とされていきた。ところが、1640年代に最初の気圧計が作られ、続いて1644年にトリチェリが水銀気圧計を考案し、実験をしたことで、真空の存在が注目されるようになった。直接的には、この実験は、大気と管中の液体との機械的平衡が成立することを示したのであったが、管を立てたときその上部に形成される空間はなんなのかという疑問を投げかけた。真空を忌避するアリストテレス主義者らは、空気の泡が膨張して、その張力が水銀を押したのだとか、液柱の上に蒸気が生じて、それが液面を押し下げているのだなどと主張された。こうした議論に決着をつけたのが、パスカルである。彼は、管の先端が大きな球になっている装置や、長さの異なる管を用意し、それら中の水銀の高さ比較した。すると、水銀の高さは一定であり、管の先端を29インチ以下に下げると、「泡」は見られないことなどを示した。彼は、それでも真空を嫌うという結論を撤回できなかったが、のちに、自然の真空嫌悪は有限であるとの考えに至った。1650年代に入ると、空気ポンプが考案されたころで、ボイルがさらに研究を推し進め、圧力と体積の反比例の関係を見出した。今や、気圧計さえもが、テコや滑車のような機械のように単純な量的関係を表すものであるということが、明らかにされていた。

 機械論は、さらに光学の領域にも及んだ。機械論的な光学の拠り所は、ケプラーによって与えられていた。ケプラーは『天文学における光学の分野』の中で、ある店から発散した光束線を調べ、それらが別の焦点を結ぶまでをたどるという方法を提示した。著者によれば、こうした視覚の対象物を点に分割して考える発想が、経験世界を原子や粒子からなるとみなす機械論と同じであったと指摘する。デカルトにおいては、「圧力は運動の傾向(?)」であるとしていたから、光も運動と同じ法則に従うと述べた。しかしむしろ光学におけるデカルトの最大の業績は、色の現象を光学に結びつけた点にある。彼は、色は、対象物に帰属する性質ではなく、真の色と、見せかけの色という区別を取り払って、同じ基盤の上で扱おうとした。そして、こうした考えは、ニュートンの『光学』において、よりいっそう進められた。ニュートンの「光は計り知れぬほどの速度で運動する小さな粒子からなる」という仮説こそは、機械論哲学の典型的な産物だった。一方、波動説を唱えたホイヘンスにとっても、粒子論と同様に、光の直電的な伝播を説明したが、17世紀の終わり頃までには、こうした機械的なモデルでは理解不可能な現象が、実験によって発見されるようになっていた。

 

 第4章では、機械論哲学の化学へ与えた影響について述べられる。17世紀初頭の化学は、全ての物体を3-5種類の「原質」からなる混合物からなるとみなした。(金属も混合物であるとしていた。) そして、それらの混合は、連続的なスペクトルをなしていると考えていた。従って、ある化学物質と不純物とを区別する基準は存在しなかった。17世紀化学のもう一つの特徴は、化学は科学の一部ではなく、医学に役立つ技術とみなしていたことだった。パラケルススに代表される医化学派は、科学を医学の下僕と位置付けていた。塩、硫黄、水銀が、物体、霊魂、精神という形而上学的な成分に対応していたという質的な自然概念は、17世紀の後半に至って優勢になった数量的な見解と対立するようになった、さらに、17世紀科学のもう一つの伝統であった錬金術も、機械論哲学と化学との対立を促進させた。錬金術は、土の中で金が作り出される過程を実現する技術を用いて、金を成長させることを仕事にしていたが、金を有機物とし、化学的原質からなる混合物であるとした点で、医化学と一致していた。

 機械論的化学に先駆的な役割を果たした人物として、フランスのニコラ・レムリをあげている。機械論の基本命題は、物質は均等で、その粒子の形や大きさや運動によってのみ区別されるというものだった。レムリは、酸を鋭く尖った針のようなものからなるとし、一方のアルカリは、穴のああいた粒子とし、多くの反応をアルカリによる酸の中和反応に帰そうと試みた。

 また、イギリスのジョン・メイヨウは、呼吸と燃焼との類似性に関心を抱き、実験を経て呼吸にも燃焼にも空気中の硝空気の精気が必要であると論じた。しかし彼は、それは空気の一部をなす独立した気体とはみなさず、空気の弾性の原因であるとしており、それは「パラケルスス化学の能動的な精気を機械論に翻訳したものにすぎなかった」と言われる。

 機械論化学で最も重要だったのは、ロバート・ボイルだった。彼は、化学反応は粒子の入れ替えであり、あらゆる化学的性質は運動する物質粒子に由来すると述べた。ボイルの最大の業績は、混合比は連続的であることや、物質は限りない順応性を持っていることを否定し、「厳密に一連の検出実験によって同定される、一定種類の個々の物質が存在する」という基本概念を提示したことであった。

 ニュートンは、このボイルの著作に取り組み、『光学』の「疑問31」で、物質粒子は互いに引き合ったり反発しあったりするという証拠が化学現象の中に見出されることを論じた。例えば、彼は、銅は酸性溶液から鉄を置換し、鉄は銅を置換しという置換反応をボイルから学び取った。こうした機械論化学は、すでに医療のための技術という範疇を超え、自然科学の領域に位置付けられるようになっていた。

 

 

第6章では、前半で、主に17世紀における大学と学会の役割社会史的な記述に当てられている。大学は、科学革命を促進させたのではなく、むしろ真っ向から反対するような機関であった。近代科学はアリストテレス自然学の枠組みに挑戦していった。一方、そのアリストテレス自然学の集成を手にしたところに、学問の中心地として成立したのが大学だった。また、大学は教会のバックアップもあり、教授は聖職者であった。アリストテレスは「かの哲学者」とまつりあげられ、近代科学は「健全な」哲学と宗教を脅かすものであるとみなす傾向にあり、それを歓迎する人々はいなかった。例えば、ガリレオは最初、パドヴァ大学の数学教授という地位にあったが、のちにそこを去り、フィレンツェで『天文対話』や『新科学対話』を、トスカナ大公つきの数学者として出版した。また、ニュートンケンブリッジのルカス数学教授のポストにあったが、標準的な教育課程で彼の新発見を受容できるような準備はなく、彼はケンブリッジで孤独だった。彼の業績の出版を激励したのは、王立協会だった。

 初期の学会としては、アカデミア・デイ・リンチェイがよく知られている。ガリレオも参加した、自然哲学の諸問題を議論しあう同好会だった。これは、1630sまでしか存続しなかったが、どう時期にメディチ家の支えのもと、アカデミア・デル・チメントという学会ができた。1660年に発足した王立協会と、1666年にできた王立科学アカデミーは、そうした学会の代表であるが、幾つかの点で異なっている。後者は、選りすぐりの科学者を集め、フランス政府が給与を支払う仕組みがあり、官制機関であった。彼らは特許事務局のような仕事にも従事した。しかし、後者は素人の集まる私的な学会で、『フィロソフィカル・トランザクションず』などを通じて、科学活動を奨励するはたらきをした。

 他に17世紀の近代科学の形成に大きな役割を果たしたのが、機器の発明と、実験的方法であった。特に、方法に関しては、実験者の企図に基づき、仮説を立て、実験者が規定する条件のもとで、積極的に自然に問いかける実験方法が成立したことが重要だった。ボイルやガレノスの著作には、そうした仮説演繹法によく似た実験が見られていた。それは、人間は意志によって自然に介入し、人間の役に立つよう改変できるというベーコンの功利主義的なプログラムとも密接に結びついていた。

 

 

近代科学の形成 (1980年)

近代科学の形成 (1980年)

 

 

 

The Construction of Modern Science: Mechanisms and Mechanics (Cambridge Studies in the History of Science)

The Construction of Modern Science: Mechanisms and Mechanics (Cambridge Studies in the History of Science)

 

 

 

立岩陽一郎・楊井人文『ファクトチェックとは何か』を読みました。

 

  本書は、日本で初めてファクトチェックについて、詳しく解説したもの。

  ファクトチェックとは、いわゆる「事実確認」とは異なる。Fact-checkingを、敢えて日本語に訳すならば、「真偽検証」などと訳すべき営みである。事実確認は、ファクトチェックが注目される以前からマスメディアなどでも行われてきた、対外的な発表に誤りがないように、取材や調査の過程で慎重に事実関係を調べる作業を指す。一方、ファクトチェックは、正確な事実関係を調べる点では、前者と共通しているが、調査の結果、「ある情報が不正確だったこと」が判明すれば、それを積極的に公表し、社会と共有する営みである。「ある情報が不正確だったこと」を積極的に公表しようとするところに、前者との大きな違いがある。例えば、首相が、「消費税率の2%引き上げにより、5兆円強の税収となります。」と発言したとき、事実確認においては、首相が発言したその内容通りに報道されているかが、問われることになる。しかしファクトチェックでは、その発言内容そのものは本当に正しいのかを問うことになる。したがって、ファクトチェックが対象とする言説は、あくまで、事実言明であり、意見や見解を述べただけの言説を評価するものではない。
 ところで、最近よく耳にすることファクトチェックは、「ポストトゥルース」と言われる昨今の時代、フェイクニュース等に対抗すべく新たに生まれた活動であると思っていたが、実際はそうではないらしい。それは、1920年代に米国の出版社が、印刷前に事実の誤りがないかをチェックする専門職「ファクトチェッカー」を置いたことに起源があり、90年代からは、様々な政治的言説を対象としたファクトチェックが、インターネット上で行われるようになったという。
 さて、何が真実かわからない時代において、ファクトチェックした調査結果そのものが、事実でないかもしれないという疑問が頭をもたげるのは、僕だけだろうか。
  ファクトチェックにおいては、それが正しいことを担保するために、いくつかの原則がある。2016年に、世界中のファクトチェッカーらが議論し、合意した「ファクトチェック綱領」(International Fact- Checking Network fact-checkers' code of principles)によると、1.非党派性・公正性、2.情報源の透明性、3.財源と組織の透明性、4.方法の透明性、5.訂正の公開性の5つの原則を守る必要があるという。ファクトチェックは、特定の政治的主張のために行うものではないという1の原則は重要だ。また、2では、その判断が妥当なものかが、第三者でも検証できるように、情報源を明らかにするという原則である。さらに一番大事だと思ったのは、5だ。これは、ファクトチェック自体にも誤りが生じることを前提した考え方で、間違っていた場合、真摯に訂正を読者に説明しなければならないという原則である。こういう態度は重要だと感じた。こうした原則から分かるように、ファクトチェックは、とても禁欲的な活動である。
  ファクトチェックは世界的な潮流の中にあり、米国のポリティファクトを始め、欧州では、ジャーナリスト以外の様々な経歴を持った人が参加したファースト・ドラフト・ニュースなどが有名だ。また近年アジアでも、様々な取り組みがなされ、フィリピンでは、ベラ・ファイルズという団体が、2016年の大統領選をきっかけに、注目を浴びた。
  さて、これは内田樹Twitterで言っていたことだか、ファクトチェックは、考えてみれば、とても非生産的な活動ではないだろうか。事実言明が正しいかどうかを確かめるだけで、それ自体政治的含意はなく、なにも主張していない。だから、社会全体の中で見たとき、とても非効率的というか、大きなロスだ。そもそもは、発言者が、正しい事実に基づいて、公正な言説を発信しなければいけないのだろう。だから、ファクトチェックは、フェイクニュースが流布する昨今、それでも事実を大事にしたい真摯な人々によって、自発的に行われている活動だと見ることができるかもしれない。その点、こうした取り組みに参加している方々には、敬服するし、こうした活動に注目したい。また、AIによるファクトチェックの取り組みにも、一部触れられるが、こうした分野こそ、AIが代替すべき仕事なのかもしれない。

ファクトチェックとは何か (岩波ブックレット)

ファクトチェックとは何か (岩波ブックレット)



  

一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義』を読みました。

 

 

 本書は、著者によって、埼玉大学教養学部で2017年度後期に行われた「近現代日本の政治と社会Ⅰ」の15回分の講義を書籍化したもの。ジブリ作品を素材にしながら、昭和期の戦争(1931年満州事変、37年日中戦争、41年太平洋戦争など)の歴史を、軍事はさることながら、政治、経済、文化、病や科学技術といった様々な側面から、解説される。扱われる作品は、ほとんどが『風立ちぬ』で、その他『火垂るの墓』、『紅の豚』や、最後に『平成狸合戦ぽんぽこ』、『となりのトトロ』、『コクリコ坂』にも触れられるが、メインは『風立ちぬ』といって良い。『風立ちぬ』は、厳密に史実に基づいた作品ではない。その点、『歴史ファンタジー』とも言える作品ジャンルである。例えば、関東大震災の描写で、映画の中の二郎は、東京帝大の学生となっているが、実在の二郎は、震災の翌年に入学している。しかし、本作品では、監督自身も言っているように、史実に忠実であるかどうかは重要ではない。むしろ、場合によっては、史実を捻じ曲げてでも描かなければならなかった理由は何か、という問いが成り立ち、そこに歴史的に重要な背景や、ポイントがあることが、本書では明らかにされていく。(もちろん、史実と重なる描写もたくさんあるが。) 関東大震災でうごめく人々の描写に力点が置かれているのはなぜか?カストルプとは何者か?二郎が渡したシベリアを、なぜ少女は拒むのか?二郎の結婚がさびしいのはなぜか?こうした問いに対して、最新の研究成果を用いながら、映画では直接描かれない背景を推測するという形で、講義が進められるのである。僕は、『風立ちぬ』が大好きで、四回ほど観たが、それでも全く気がつかなかった背景がたくさんあり、宮崎駿監督の才能と、著者の分析力に驚かされるばかりだった。その中でも、一番興味深かったトッピクを紹介したいと思う。

 

 もっとも興味深かったのは、二郎と菜穂子の結婚がなぜさびしいのか?に対する著者の分析だ。

 まず、菜穂子は結核のため、長野の富士見のサナトリウムで療養生活を送る。結核は、1929年の時点で死因の第3位、1935年に第1位となっている。この結核という病気から、当時の日本の何がわかるか?著者は、端的に言ってそれは「膨大な貧困層と劣悪な衛生環境」の存在であるという。当時の結核死者数を形成していた最大の集団は、製糸工女だった。そして彼女らは、生糸を輸出して軍艦を輸入する明治日本を、下から支える存在だった。しかし、工女の労働環境は劣悪なものだった。秦郁彦『病気の日本近代史』は、解雇された工女のうち、63%が死亡したこと、その約7割が結核患者だったこと、さらに発病して故郷に帰らされた彼女らにより、汚染されていなかった農村にまで菌がばらまかれ、「肺病やみ」は納屋に押し込まれ、死を待つしかなかったことなどを伝えているという。

 

 さて、そんな結核患者の菜穂子と二郎の結婚のシーンは、どこか悲しげなイメージがある。立会人は黒川夫妻だけというだけでなく、夜間に、人目を避けて、ひっそりと行なわれた式という感じもしなくもない。では、なぜ二人の結婚式はさみしく描かれているのか?著者は、それは、当時理想視されていた恋愛結婚は、健康と不可分であり、菜穂子は健康な体ではなかったからだという。結婚の際、相手の健康を意識することは、当時に限るものではなく、今だってそうだろう。しかし、当時、現在とは異なる背景があった。

  加藤秀一の研究によると、戦前の日本では、欧米由来の生物学や優生思想に基づき、恋愛結婚は、一夫一妻制のもと、選ばれた男女が思い合い、結婚まで純潔を保ち、優良な子孫を残すためのものと主張されていたという。昭和期に入ると、人口の質の確保が国家的な課題とされ、「優生結婚」が、恋愛の名の下に推奨されていたのだ。そして、それは、結婚し出産することが、国力増強や戦時国家への貢献となると考えられ、それができないものは国家や社会からはじかれてしかるべきということを意味してもいた。だからこそ、健康な子どもが産めそうにない菜穂子との結婚は、当時認められるべきものではなかった。(当時結核は遺伝性だと考えられており、かつ、菜穂子の母も結核で亡くなっていた。) 『風立ちぬ』では、菜穂子が「あの人(震災のとき、二人と一緒に逃げた女中のお絹)このまえ二人目の赤ちゃんを産んだんですよ。とてもかわいい赤ちゃん」と独り言のように語るシーンがある。著者は、菜穂子が病気の自分にはそれができないからだと内心で悟っていたからだと分析する。しかしなんといっても、そういったセリフをさりげなく入れていた宮崎駿の洞察力というか才能の凄さに、全く驚くばかりだ。

 

文献:一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義-ジブリ作品から歴史を学ぶ』(人文書院、2018年)

 

昭和戦争史講義: ジブリ作品から歴史を学ぶ

昭和戦争史講義: ジブリ作品から歴史を学ぶ