yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

山田朗『軍備拡張の近代史-日本軍の膨張と崩壊』1997年

 

 戦史ではなく「軍事力の歴史」を扱った史書。少し古いが、軍事史以外の異分野でもしばしば引用される文献の一つ。

本書では戦時体制にない時期に、いかなる思想のもと、どれほどのエネルギーを費やして軍事力が建設されたのかという問題が主に扱われる。その際、その軍拡/軍縮の実態を数量的なデータで裏付けるアプローチが特徴である。本書の問題設定の背後には、「軍事力が国民の冷静な監視下におかれていない」という戦前・戦後日本に通底する筆者の問題意識がある。読みやすく簡便な書物ながら、濃い内容を備えている。

 

1870年代前半に、明治政府は「近代国家」建設のために様々な改革を始める。71年には御親兵が創設され、73年には徴兵制が施行され、74年に陸軍の歩兵連隊が編成された。77年に西南戦争を経て日本の軍事力は増強されるが、基本的には国内の治安維持のための力だった。同時に、山県有朋ら明治国家指導者の中には、帝政ロシアの南下に備えて日本が先手を打って朝鮮半島を確保しなければならないという戦略を唱える者がいた。こうして、1880年代に入ると治安維持能力は対外侵攻のために再編成されていく1888年には初めて師団が編成され、以後陸軍の主力部隊となった。

 朝鮮半島から清国の影響を排除すると、今度はロシアと直接に対立するようになる。軍事思想的に日露戦争は、(陸戦では)「ドイツ式の火力主義(迅速に機動する小銃・砲兵火力の集中により圧倒しようとする考え)とフランス式の白兵主義(堅固な築城によって相手の火力をかわし、火力の支援によって接近し、歩兵の白兵突撃によって一挙に勝敗を決しようとする考え)」の対立という図式を読み取ることができる。日本は前者、ロシアは後者を体現していた。近い将来欧州で軍事衝突が起きることを予期していた欧米列強は、この戦争を注視しており、重機関銃榴弾砲、有刺鉄線の重要性を学んでいた。(以後、重機関銃と重砲の配備は急速に進み、第一次大戦の大量殺戮につながる。)

 だが日本は皮肉なことに、日露戦争を経て火力主義から白兵主義へと転換し、欧米列強とは異なったルートを歩み始めた。その転換の原因を、著者は、(1)砲弾・小銃弾の欠乏=工業力の欠乏により火力主義が貫徹できなかったこと、(2)効果の薄い榴散弾を大量使用したことで歩兵に犠牲を強い、砲兵に対する不信を招いたこと、(3)白兵主義の敵国ロシア軍兵士の負傷率が比較的低かったことを挙げている。以来、陸軍では、歩兵の銃剣突撃至上主義=「日本式戦法」が定着する。一方海軍では、艦隊決戦で海戦史上類を見ない成功をおさめたことで、日露戦争以後は、艦隊決戦のシナリオから思考していく習慣が植え付けられた。また日露戦争勝利に伴い軍部の発言力が強まり、軍事戦略が国家戦略をひきづる端緒となった。

 

 第二章 日露戦争から第一次世界大戦

 陸軍は、第一次大戦を経て欧米との軍需工業力の格差を認識し、「皇軍」の「精神的優位性」に疑問が持たれはじめた。しかしこの焦燥感は陸軍の装備・編成・組織の近代化にストレートに結びつたわけではなく、欧米の戦闘にあくまで「日本式」に対抗しようとする姿勢を崩さなかった。

 日露戦争から第一次大戦に至る10年間は、海軍力の拡大によって特徴付けられる。膨張主義政策において海軍力が必須であるとみなされていた歴史的段階において、1890年に記されたマハンの『海上権力論』は、海軍力が権力政治の指導理念としての地位を獲得し、以後マハン理論に基づく大建艦競争時代に突入する。イギリスのドレッドノート建造で始まった世界列強の猛烈な建造競争の中に日本も飛び込んだが、英国の水準に追いつくことはできなかった。1911年には英国ヴァッカース社に発注して巡洋戦艦金剛を起工し、1913年に完成する。この時期の日本は、国産化路線を変更してまでも世界最高水準に主力艦を手にしようとした

 第一次大戦後は日米間での建艦競争が激化した。日米間には植民地分割をめぐる衝突が存在していたわけではなかったので、国際的な地位を強化するための軍艦建造だった。

 

第3章 軍縮期の日本の軍事力

 無理な建艦競争を推し進めていたのはアメリカも同じであり、1921年アメリカのハーディング大統領は英・日・仏・伊に軍拡停止・海軍軍備制限に関する国際会議を提案した。原敬内閣は英米強調路線に従い、この提案を受け入れた。こうして1921-22年にかけて「ベルサイユ体制」に対応する新しい国際秩序の構築を目指してワシントン会議が開催された。会議では海軍軍縮条約が締結され、主力艦と航空母艦保有比率を米:英:日=5:5:3とする要旨が盛り込まれていた。日本海海戦当時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎の絶大な権威は、加藤寛治らの「対米7割」論者を押さえ、果てしない主力艦の建造競争に歯止めがかかった。これにより日本の国家財政は破綻から救われたし、日米間の関係悪化も免れた。そしてこのワシントン会議は大国同士の話し合いで軍縮が実現された事実上最初の事例として、国際的な軍備管理に新しいページを開いた出来事でもあった。

 ワシントン海軍軍縮条約締結後、海軍部内は2つのグループに分裂した。一つは軍政系統で「6割」を受諾するグループ、他方は軍令系統で強大な軍事力を保有し、速戦即決を志向するグループである。1922年5月に加藤寛治が軍令部部長に就任すると情勢は変化し始め、「帝国国防方針」第二改定が軍人主導で行われ、米国を仮想第一敵国とし、索敵→漸減→決戦という3段構えの作戦構想が確立した。特に、主力艦の劣勢を補うための「漸減」(決戦の前に少しでも相手の戦力を減らしておこうとする考え)作戦を実現するために、(1)潜水艦の速度の上昇、(2)大型巡礼艦の攻撃力と速力の上昇という問題の解決に取り組んだ。こうしてワシントン条約後は、補助艦の質が向上していった。陸軍側も、山梨軍縮と宇垣軍縮を経て、師団や将兵の定員が縮小されていったが、この動きに対応して陸軍の機械化・近代化が進んだとは言い難かった。その主な原因は陸軍内の近代化路線(永田鉄山ら)と白兵主義を突き詰める現状維持派の対立だった。1928年の「統帥綱領」では勝敗の主因は依然として「精神的要素」にあることが唱えられた。そして陸軍の総動員準備も国民の精神動員体制の整備から始まった。永田鉄山らがまとめた『国家総力戦に関する意見書』では、精神動員が実現すれば「国民動員」や「産業動員」、「財務動員」なども円滑に進展することが予想されていた。

 ワシントン海軍軍縮条約締結後、補助艦船の制限のための国際会議が行われることは確実であり、1929年にロンドン会議開催が提唱された。この条約をめぐり、海軍内部では再び、妥協案で条約締結もやむ得ないとする軍政部らの「条約派」と、それを拒否する軍令部らの「艦隊派」とに分裂した。またこの条約は、天皇統帥権を補佐する軍令部長が反対する条約を政府が無理やり結んだため「統帥権干犯」であると追及され、条約派は窮地に立たされた。結局、ロンドン条約は日本の補助艦船の保有をほぼ追認する内容となり、軍縮というよりは部分的な軍拡さえも許容するものになった。

 

 第4章 軍拡・戦争期の日本の軍事力

 ロンドン軍縮条約の抜け道の一つに航空戦力の拡張があった。1930年には航空主兵論者山本五十六が航空本部技術部長に、31年には松山茂が本部長に就任し、軍用機国産化を主導した。航空機が戦力として戦史に登場するのは第一次大戦であるが、日本海軍内部では1914年にすでに中島知久平(のち、中島飛行機社長)が「航空機構造に関する私見」という意見書を海軍当局に提出している。欧米における航空主兵論者であるジュリオ・ドゥーエやウィリアム・ミッチュエルは軍当局から処罰を受けていることからもうかがわれるように、当時ではまだ中島の戦艦無用論も異端の軍事思想だった。海軍ではまず航空機による索敵、支援能力に注目され、1927年に航空本部が設置される。そして28年に改定された「海戦要務令」では、偵察以外に「漸減作戦」にも活用することが示された。1935年には世界トップレベルに九試単座戦闘機を完成させている。航空本部では、表面的には「漸減作戦」構想に従って航空機の開発を進めていたが、同時にその艦船決戦戦略の枠を超え、究極的には基地航空部隊単独で艦隊を攻撃することも企図されていた。一方の陸軍では、勝敗を決するのは白兵による銃剣突撃であるとする方針は変わらず、航空部隊を陸戦協力兵力とみなし、地上部隊を支援する軽爆撃機が重視された。このように陸海軍の航空作戦にはそれぞれ独自性が強く、独立した空軍建設は厳しくなった。

 1936年にワシントン・ロンドン両条約が失効すると「第三次補充計画」(1937年)、「軍備充実計画」(1939年)を通じて海軍力の大幅な拡張が行われた。また日本以外の国も建艦を再開した。そうした中起工された大和型戦艦は、日本の大艦巨砲主義の究極の産物だった。だがそれと同時に、(各国とも航空母艦の使い方は確立していなかったが、)「漸減」の主役は巡洋艦から航空母艦に変化しつつもあった。太平洋戦争開戦時においては、日本は航空母艦では隻数・トン数でアメリカを上回っていた。

 

 第5章 戦前期の日本の軍事力の崩壊

 1941年海軍は基地航空戦力の大部分を持って「第十一航空艦隊」(基地航空部隊)を、海上航空戦力の主力として「第一航空艦隊」(空母部隊)を編成した。これらの位置付けは、大艦巨砲主義者と航空主兵論者とでは異なっており、前者はあくまで漸減段階の戦力、および艦隊決戦の支援の戦力としてみなし、後者は撃滅のための独立した戦力とみなしていた。両者の構想は分離したまま戦争に突入しようとしていた。実際には、大艦巨砲主義者らの「待ち」の艦隊決戦構想は、アメリカからの石油輸入を止められていた状況では実現し難く、漸減作戦を積極化して航空戦力の全面的な依存のもと、日本側からハワイを叩くという作戦が展開することになった。緒戦では、航空隊の少数先鋭主義、零式観戦の高い攻撃性能、作戦の電撃性が功を奏し、連合軍に対して優勢を維持することができた。しかし、ミッドウェー開戦でベテラン搭乗員1881名を失い、彼らの再生産を根底から破壊する決定的打撃を受けた。陸軍側も「少数先鋭」主義はとても維持できない状態に追い込まれ、将校一人当たりんの下士官兵の数は45年には24.6人にのぼり、これはアメリカの8.3人に比べて相当な「水膨れ」状態になっていたことを示している。

 そもそも日米間の戦争潜在力=war potentialの格差は圧倒的で、GNPと鉄鋼生産量にして約12倍、石油備蓄量では41年で7.8倍もあった。さらに生産性格差も大きく、42-43年間の航空機製造の生産力格差は、3倍近くに開いていた。日本の航空戦力は安定した工業的基盤を確保できていなかった。このような総兵力だけではなく、陸軍では決戦の「型」こだわるばかり、現実の戦争の中から作戦を構想するのではなく、戦争が思い描いた「型」に当てはまるのを待っていたところがあり、持久戦への思想的な準備もなかった。日本軍の作戦の根底には、極端な精神主義と、総合性・ネットワークの欠如という問題があり、時と場合に応じて持てる力を総合して柔軟に対応する発想力がなかったという。様々な軍事的単位を結びつけて戦おうとする発想がなかったゆえ、通信や輸送などの各単位を結びつける分野は軽視され、レーダーや航空機無線の開発も立ち遅れたり、偏ったりした。

 

感想

・近代日本には「資源」の問題が重く横たわっているという印象を受けた。太平洋戦争の敗戦はいうまでもなく、日露戦争後の白兵主義への転換も「資源」の問題(弾丸不足)が絡んでいた。

日露戦争を経て、ドイツ式火力主義からフランス式白兵主義へと(ある意味世界の潮流に逆行するかのように)転換してしまうというのは興味深い。素人目線からだと、あきらかに火力主義の方が有利であるように思える。(これもやはり資源の問題が大きいか。)

・開戦時、米国よりも空母の隻数・トン数で上回っていたというのは意外だった。

・日本軍の作戦の根底に、総合性・ネットワーク性の欠如という問題があり、それゆえ、レーダーや通信機・輸送などの軍事的単位を結ぶ領域にある装備品の開発が立ち遅れたという指摘がある。だが、通信や輸送といった側面についての記述は本文ではことごとく捨象されている。(日露戦争マリアナ海戦は特にこの「通信」部門が戦局を左右したことはよく知られている思うが、それさえも扱われていない。) よって、(少なくとも開発の水準については)本書からはその真偽は確認しようがないのでは。

 

 

軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー)

軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者:山田 朗
  • 発売日: 1997/05/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

沢井実『近代日本の研究開発体制』とその書評を読む。

 沢井実『近代日本の研究開発体制』(名古屋大学出版会、2012年)

 

 本書は、研究開発体制(ナショナルイノベーションシステム)の近代日本における特質を約半世紀に及ぶ長期的な視点に経って600頁以上に渡って考察した大作である。著者が描く見取り図は、幕末から第一次大戦期までの「近代前期」とし、第一次大戦から1950年代までの「近代後期」、そして、近代の終わり=現代の始まりという過渡期である高度経済成長期を経て、1990年から「現代」が始まるというものである。第一次大戦以降の近代後期という時代は、欧米列強に対する技術的なキャッチアップを至上命題とし、そのための軍産官学の諸部門が緊密な連携を構築し、政府部門が強い主導性を発揮した時代であった。その近代後期の現代に対する規定性は圧倒的である。戦後、戦争完遂、必勝のための科学技術は経済復興のための科学技術に転轍したものの、研究開発体制における政府部門の主導性には強い連続性が認められる。我々は「近代」からの蓄積と制約の重さを抜きに、「現代」における選択肢を語ることはできない。それゆえ、近代日本の研究開発体制を探究する意義は大きい。全体の構成は、第一部(第1-4章)が戦間期の研究開発体制、第二部(第5-11章)は戦時期の研究開発体制、第三部(第12-14章)が戦後復興期の研究開発体制、第四部(第15-19章)が1950年代の研究開発体制となっている。以下では第2部までの内容をまとめ、複数の書評を確認したのち、私自身のコメントを加える。

 

  • 第1章

 第1章「「帝国」の技術者」では、工業専門学校、大学を卒業した技術者の数(=供給)を統計的に把握した上で、初職市場の動向・勤続年数(=移動)さらには、導入教育・OJT(=技能形成)について記される。注目すべきは、日本国内のみならず、朝鮮や「満州国」、台湾などの技術者、留学生の動向まで視野に入れて分析されている点である。このことで、帝国日本圏内全体における技術者の動態の解明が試みられている。まず、供給と移動については、(1)工業専門学校(以下、工高と表記)、(2)大学、(3)朝鮮、台湾、関東州、「満州」の各学校を卒業した技術者の数や、カリキュラム、初職市場などが示される。原敬内閣期において、高等教育機関の大拡張計画の一環として1920年代に多くの工業専門学校が新設され、重化学工業の進展に対応した技術者供給が可能になった。また満州事変以降は大学卒業生の民間企業への就職者が急増し、官庁技術者の割合が低下していることが特徴的である。しかし5年後の勤続率を見ると、東京・京都帝大工学部の卒業生が7~8割台であるのに対して、高工卒業生は5-6割代と大きな差があった。また、帝大工学部はやや少なかったものの、工業専門学校とともに外国人留学生も受け入れており、その中でも中国人留学生らは、母国へ帰国してから民族紡や学校などの場で活躍することによって、東アジア全域における技術者供給のあり方に影響を与えていたことも指摘される。

 

  • 第2章

   第2章「官公私立鉱工業試験研究機関の変遷とその特質」では、総力戦である第一次世界大戦の勃発により、銃後の国民的生産力を満たすべく総動員体制の確立が要求され、また、欧米諸国からの輸入途絶・減退・遅延を補うための研究開発体制の整備が求められた戦間期における官公私立工業史研究機関の変遷が追跡される。まず研究開発の担う人材である技術者の数の推移を見ると、1910年に5078人、20年に14162人、34年に41080人へと増加しており、このうち民間技術者の割合は、10年で56%、20年で73.2%、34年で61.7%といった具合に増加しており、第一次大戦期の民間部門の成長を反映して、技術者分布の民間比率が急上昇していることがわかる。また分野別に見ると、34年に入るとそれまで多くのウェイトを占めていた鉱山、繊維、造船などとならんで機械、電機・電波、化学などの重化学工業部門の割合が上昇している。次に、民間試験研究機関の動向をみると、分野別では、20年代初頭からすでに重化学工業に傾斜していたことが特徴的である。また戦間期では、工場内に設置された研究係・研究室などが次第に拡大して研究部などに昇格し、その後研究所として分離独立するケースが多く、民間企業がこうした試験研究機関を有する場合が増えていたことも特徴的である。続いて官立試験研究機関では、1931年時点で陸軍8機関、海軍7機関を含む計73機関があり、研究者数は陸海軍を除いて829人だった。その中でも逓信省電気試験所、東京帝大航空研究所、東北帝大金属材料研究所、電気通信研究所(35年設立)、京都帝大化学研究所等の附置研究所、陸軍技術本部・陸軍科学研究所、海軍技術研究所、海軍航空廠などが有力な試験研究機関だった。最後に公立の試験研究機関を見ると、当該地方の在来産業・地場産業の展開と関係しているものが多く、代表者は高等工業学校の卒業者であることが多かった。分野も繊維、機織、色染、染料化学、などがほとんどだった。以上のような戦間期における官公私立試験研究機関のあり方について認識・指摘されていた問題点は、第一に、民間企業における試験研究部門と現業部門との連絡の悪さだった。つまり、研究機関で熱心に研究している事項は、営業上もっとも改善が必要とされているものだとは限らないケースが多かった。第二に、官公立試験研究機関と産業界、および試験研究機関相互の連絡の悪さだった。したがって、研究機関所属の技術者が価値あるものと信じているものが、産業上案外利用価値がないものである場合があった。しかしその一方、陸海軍と特定の民間メーカーとの深いつながりはこのころからすでに存在しており、1930年代半ばの海軍技術研究所は国防科学協議会を通じて部外研究機関への研究委託を行なっていた。例えば、電気研究部の場合は東北帝大電気通信研究所の抜山平一が嘱託になっていた。しかし軍産学間の研究交流もいまば部分的、散発的なものに止まっていた。

 

  • 第3章

   第3章では、陸軍技術本部および陸軍科学研究所を中心にとりあげ、戦間期陸軍の兵器研究開発の実態がいかなるものであったのかが検討される。1919年に設置された陸軍科学研究所と陸軍技術本部は、前者が基礎研究、後者がその成果を利用し、兵器開発につなげる役割を担っていた。しかし、実際に技術本部から陸軍科学研究所への委託は少数にとどまっており、そのような分業体制は確立していなかった。加えて、陸軍技術本部は当初構想していたように、兵器に関する全ての調査研究を一括し実施することはなく、その役割は限定的だった。技術本部の編成は、1931年時点で総務部(庶務班、調査班)、第一部(庶務、共通、火砲、銃器、車輌、射表、弾薬、測機)、第二部(統調班、審査班、設計班)、第三部(庶務班、第一班、第二班)という構成だった。人員・予算は、1923年時点で約350名、経常費は年額約35万円だった。なお、1922年に陸海軍の関係高官を加えて、軍事技術の知識向上、研究進展を図る目的で科学協議会が発足し、これがのちの国防科学協議会の起源となった。本会議は、技術本部、大学の博士、工業試験所の間での研究連携の場でもあったが、1930年代に入ると、実質的には食事会のような会合になり、軍産学研究連携が新たに動き始めるのは、1932年以降である。陸軍科学研究所の動向で重要なのは、1932年から34年にかけて、多田礼吉が第一部長を務めたことである。多田の着任早々、第一部では電子関係の研究に重点が置かれるようになり、研究が大いに活性化したようである。また多田の着任後、外部研究者の活用に乗り出し、特に満州事変後の1933年以降は嘱託数が急増している。

 

  • 第4章

   第4章では戦間期の海軍技術研究所の実態を明らかにすることを通じて、戦間期の研究開発体制の特徴が考察される。1923年に海軍技研の設立当初は4課と10班構成の研究部からなっていた。しかし同年関東大震災後の火災の影響により、30年に目黒に移転される。その間、1925年に大幅な組織改正が行われ、研究部が廃止され、科学研究部、電気研究部、航空研究部、造船研究部の4つの研究部から成る構成に変わった。そして戦時機に入ると1939年に材料研究部、40年に音響研究部、42年に実験心理研究部、43年に電波研究部が新設されていった。技研の人員は、文官・武官の高等官、文官の判任官、工員グループから構成されており、1937年の時点で、高等官55名、判任官78名、工員・職夫が1063名であり、研究の推進力は、優秀な工員グループに負う部分も大きかったという。また、研究項目は訓令・照会によるもの(予算が別途配布されるものと、されないもの)、自発的に実施するものがあった。部外嘱託についてはあまり触れられていないが、東北帝大通信研究所所長の抜山平一は技研嘱託であったし、伊藤庸二は外部の研究機関の連携強化に努めた一人だった。戦間期、特に1930年代以降、陸海軍試験研究機関の活動の中から、軍産学との密接な連携の関係の原点が形成されつつあった。(以上、第一部)

 

  •  第5章

 第5章「戦時期日本帝国における技術者供給」では、日中戦争勃発以降、「産業構造の機械工業化」、「機械工業の兵器工業化」によって特徴付けられる日本経済の変化に対応しながら、技術者供給の構造がどのように変容していったのかを明らかにされる。まず、大学工学部や工業大学の新設が相次いだことが特筆される。1940年度に名古屋帝国大学理学部が、1942年度には東京帝国大学第二工学部が新設された。私立大学では、藤原工業大学が新設され1942年度に第一回生が進学した。(なお、本校は44年8月から慶應義塾大学工学部となった。)そのほかには1942年に興亜工業大学が1943年には大阪理工科大学が新設された。また各大学で学科の増設も目立ったが、その中でも注目すべきは戦前には東大にしか存在しなかった航空(工)学科が、北大を除く5帝大および東工大に設置されたことである。また、阪大、東北大、九州大、早稲田大に設置された通信工学、電気通信等のエレクトロニクス関連の増設も注目される。その結果、7帝国大学の卒業者数は1936年度の890人から44年度の1829人へと倍増した(私立や東工大を含めた全体では2.1倍)。また1939年卒業生から学校卒業生使用制限令という就職統制が始まり、各企業は必要な新卒者の数を工場・事業所単位で厚生省に申請し、同省による調整を経た上で配当を決定し、各学校は企業との間で新卒者の就職を決定した。なお、東大工学部では、陸海軍の委託学生が卒業期を迎えることもあり、軍関係への就職者が42年9月卒業で132名に上り、これは全体の1/3を占める規模だった。次に、工業専門学校について見ると、1939年度の官立高等工業学校7校の新設が特筆される。具体的な動向としては、(1)機械関連学科の拡充、(2)航空学科やエレクトロニクスなどの新分野の増設、(3)エネルギー関連の学科の拡充が特徴としてあげられる。私立の工業専門学校についても各種学校からの昇格や、工学系を持たない私大が新設するケースなどがあり、拡充が図られた。最後に「外地」の技術者供給の動向について見ると、1931年に台湾に開校した台南高等工業学校は39年に電気化学科、44年に土木科と建築科が増設された。なお、37-45年までの卒業生1098人のうち台湾人は144人しかいなかった。また朝鮮においても複数の高等教育機関の拡充がみられた。しかし就職機会は日朝間で分断されていたようである。朝鮮にある日本人会社で朝鮮技術者が就職するケースは極めて稀有だった。関東州では、旅順工科大学に36年に応用化学科が、39年に航空学科が新設された。

 

  • 第6章

 第6章「戦時期の産業技術政策」では、戦時期に日本の戦争遂行能力に対する深い危惧が様々なレベルで表明されるなか、それらを事態を打開するために展開された科学技術政策、産業技術政策を扱う。具体的には、技術院の設立に至る経緯および活動内容、商工省の産業技術政策の一端が検討される。1938年に内閣に科学審議会が設置されるが、これが戦時下における科学技術政策の最初の具体化である。ここでは不足資源の科学的補填や機械類の国内供給力の充足の方策などに関する諮問が出されたものの、それらを実現する資金的基礎は脆弱だった。一方、文部省は1938年に科学振興調査会を設置し、戦時科学ブームを背景に「生活の科学化」を提唱する。また同年教育審議会が内閣に設置され、答申には大学工学部・理学部の拡充や日本文化・東洋文化に関する学科・講座の拡充が記された。科学動員をめぐっては、研究の方向性を国家が示す必要性が訴えられる一方で、研究の自由を主張するものもあり、意見が紛糾していた。科学動員の中枢であった企画院では1939年になってようやく科学動員委員会が設置され、翌年に「昭和十五年度科学動員実施計画綱領」が閣議決定されるが、施策としては総動員試験研究令の発動と研究資材の物質動員計画の策定がなされただけだった。その後、新体制運動が追い風となり、日本技術協会の国防技術委員会が活発に活動を展開し、1940年に134の科学・技術団体を糾合した全日本科学技術団体連合会および財政法人科学動員協会が設立される。同年7月、基本国策要綱閣議決定されて以来、企画院は科学技術政策の立案作業を進めるが、財界や、省庁では主に商工省と文部省からの反発にあった。科学を担当する文部省、技術を担当する商工省の間にあって、新設の技術院は「科学技術」を担当することになる。1941年5月27日に漸く科学技術新体制確立要綱閣議決定され、(1)科学技術行政機関の創設、(2)科学技術研究機関の総合整備、(3)科学技術審議会の設置の三つの柱が掲げられた。しかし、(1)が技術院の開庁として実現するのは42年2月、科学技術審議会の官制公布は同年12月、(2)に関して調査研究連盟と調査研究協議会が設置されるのも、各々同年9月、12月と遅れが目立った。技術院は各省庁からの反発にあい、陸軍に意向に沿う形で「航空技術院」の性格を強め、商工省や特許局の業務の一部を担う機関という当初の構想からは大きく離れたものになった。科学技術審議会の設置の準備に向けて、「科学技術審議会の設置に関する懇談会」(p.153に招待者の名簿が記載されているが、陸海軍、アカデミア、理化学研究所、民間企業などから集まった錚々たるメンバーである)が1942年3月から開催された。この会では、同審議会と技術院以外の他省庁と各種既存官制委員会との関係が最大の問題となっていた。特に文部省の学術研究会議との重複が懸念されていた。そして、1943年に科学技術審議会総会が開催されたが、これは最初で最後の会合であった。同会では合計30の諮問について、61の答申を行なった。特に、材料部会が担当した諮問が多かった。また第一部会の「決戦体制下に於ける科学研究の動員方策」および科学体制特別部会の答申「研究体制整備に関する応急対策」を受けて、「科学研究の緊急整備方策要綱」(8月20日)が閣議決定されたことで、学術研究会議の研究動員体制が動き出したことは注目すべきことである。また「科学技術動員総合方策確立に関する件」(10月1日)が閣議決定されたことで、研究動員会議・戦時研究員制度が動き出した。

 

  • 第7章

 第7章「戦時期における研究開発体制の変容」では、戦時期の科学技術動員のプロセスを跡づけることで、研究開発体制がいかなる変容を遂げたを考察することが課題とされる。前半は、官公私立研究研究機関の動向が検討される。民間の試験研究機関は、1939年に383、1942年に711と拡大し、研究人員は23955人を数えた。その専門分野別分布は、戦時期になると機械器具、金属関連の機関が急増していることがわかる。民間企業が有する試験研究機関も拡大したが、官立との違いは全体に占める大学程度の研究人員が18%と官立に占める割合(28%)と懸隔があったことである。なお1943年の時点で民間試験研究機関506の機関に21142人の研究員が所属していた。官立についてみると、戦時期には工業関係の試験研究所の拡大が顕著だが、依然として農林水産関係のウェイトが大きく、重化学工業関連の人員は全体の15%に止まった。戦時期において、陸海軍の研究開発機関が膨張したことはもちろん、これらの試験研究機関との陸海軍との関わりは、(1)陸海軍からの研究委託の増加、(2)研究員が陸海軍嘱託として、または海軍技師として登用され陸海軍研究機関の活動に直接参画する機会の増加、(3)一部の官公私立研究研究機関そのものが陸海軍研究機関の研究分所・研究分室になるという3つのパターンによって深化していった。ここで注目すべきは、1944年度時点で海軍技研の電波・電気研究部の研究分所・分室に指定された31の民間企業や大学に、多摩陸軍技術研究所の15の研究室が所属する大学・民間企業の全てが含まれており、陸海軍が優秀な研究機関を囲い込んでいたことが窺い知れるということである。後半は、戦時下の研究開発機関の最大の変容形態である共同研究制度の実態を、この時期に代表的な5つの場を取り上げて、内実を明らかにしていく。その5つの場とはすなわち、(1)大日本航空技術協会、(2)研究隣組、(3)戦時研究員制度、(4)学術研究会議の研究班、(5)日本学術研究振興会の総合研究である。(1)は、1942年5月に設立された財団法人大日本航空技術協会によって1943年に開始された活動であり、同年度は14の部会で、88の分科会、305の研究班によって、航空関連の共同研究が行われた。(残念ながら、各班がどれくらい異種混合的な集団だったのかは明らかにされていない。) (2)は、1940年に設立された全科技連によって担当された共同研究活動である。1943年までの30組の研究隣組が結成され、43年度は40、44年度は82組の研究隣組が組織された。(3)は1943年に科学技術審議会研究体制特別部会によって出された答申に基づき実施された制度で、1943年10月より開始された。その内容は、研究動員会議が重要研究課題を選定し、戦時研究員を任命し、資材の確保を図るというものである。計約250の課題が実施され、約100件の研究が完了した。(4)は文部省所管の学術研究会議が、43年の閣議決定「科学研究の緊急整備方策要綱」をもとに編成された共同研究制度で、44年からは陸海軍技術運用委員会が新兵器の研究・生産を一元的に統括する任務を担った。1943年は104件の課題を100の班が取り組み、44年度は195班に拡大した。(5)の様子は、それほど詳しく明らかにされていないが、1943-45年で12の委員会により、計708人が総合研究の推進を担った。これらの共同研究プロジェクトにおいては、重複調整を巡って様々な問題が生じていた。複数の共同研究に同時に取り組む必要に駆られた研究者もおり、優先権などについて混乱が生じていた。また、技術院と文部省との溝が深まり、陸軍技術運用委員会の多くが学術研究会議のメンバーで占められていたことに対して、当時の技術院総裁の井上匡四郎は不満を表明していた。

 

  •  第8章

 第8章「太平洋戦争後期における「共同研究」の諸相」では、海軍科学技術審議会および、東芝、海軍、商工省、技術院での真空管増産研究の事例を取り上げ、戦争後期における研究開発体制について検討される。学術振興会、科学動員協会、国防科学協議会、大日本航空技術協会、科学技術審議会など、科学動員のための専門家集団は他にもすでに存在していたが、これらは「普遍的」であり、海軍的性格に特化してこれらを運用することは難しかった。従って海軍における科学および技術の諮問機関として、1943年に海軍科学技術審議会が発足することになった。メンバーは、理研長岡半太郎東工大学長の八木秀次日本放送協会技術研究所所長(元技研所長)の箕原勉、逓信省電気試験所所長の堀岡正家ら計22名だった。長岡半太郎は、第一回総会の当時の日記に、陸軍の諮問と似ており、双方で合議すればよいのにやらない、腹の内でいがみあいがある、と記している。海軍科学技術審議会は、4つの小委員会に分かれ、各々専門分野についての諮問を受けて、専門的な助言を下した。後半は、1943年に東京芝浦電気の川崎支社で開催された「真空管生産隘路打開」に関する懇談会に始める、真空管増産のための共同研究の実態が検討される。懇談会では、真空管増産のための具体的方策について、大学関係者(東大:野口尚一、星合正治東工大:海老原敬吉、佐々木重雄)から様々な提案が出されているが、設計に関しては(1)性能設計(=質にかかわるもの)と(2)量産設計(量にかかわるもの)とに分け、プレス作業を海中時計製作者に任せることなど、既存資源の有効活用について提言されていたことが目を惹く。一方、商工省機械局でも真空管の増産が重要課題となり、1943年10月に「真空管増産計画」が作成された。具体的には労務者の補充や電球工場の転用などの項目を含んだ8つの点が指摘されているが、東芝の技術公開という項目については、川崎支所と通信工業支所に講習会、実地指導を行わせるといった内容だった。(実際に行われたのかどうかは、ここでは明らかにされていない。) 技術院では、1944年2月に「電波兵器決戦生産体制整備要綱(案)」が作成され、続いて3月に「電波兵器指導本部設置運営要綱(案)」が作成された。この電波兵器の指導本部をおく案は実現しなかった。また技術院で展開された戦時研究員制度では、「真空管量産の躍進的向上を期するの見地よりする技術上の具体的方策の研究」が1944年の3月に提出され、5月末には終了した。研究会のメンバーの一人であった小林正次は、当時の日記に、「相当の根本手術」がないと解決しないと思われるといった趣旨の記述を残している。最後に、海軍に主導の共同研究の場としては、海軍工業会電気工業会通信部会真空管分科会技術委員会五社真空管技術委員会などがあった。1944年には海軍独自の増産対策も行われており、同年5月には「真空管生産促進調査会」が設置された。同会は、試験規格を決定する第一分科会と、使用材料と処理加工に関する第二分科会から構成されていた。ここでは、レーダーの磁電管に関する議論が行われていたようである。また、海軍では、航空機搭載無線電話機用受信真空管の性能改善を目的に、1944年10月に「海軍航空本部真空管生産技術指導委員会」が設置され、航空機用受信管「FM-2A05A」や新型の「ソラ」の歩留・性能向上、量産促進などが議論された。

 

  • 第9章

 第9章「陸軍航空品部技術部・陸軍航空技術研究所の活動」では、約四半世紀に及ぶ陸軍における航空関連研究機関の実態が取り上げられる。陸軍の航空関係の研究開発機関は、(1)陸軍航空学校研究部(1919年設立)および陸軍航空本部技術部(1925年設置)の時代と、(2)陸軍航空技術研究所設置(1935年)以降の「拡大」の時代とに二分できる。1920年代後半の陸軍技術本部は、外国人技術者から設計技術を直接学ぶことに努め、瑞西(スイス)人のエーリヒ・ユースト、リチャード・フォークト、ハンス・プーヘルらから数ヶ月にわたって、飛行機設計などに関して技術移転を行なっていた。また1930年代に入ると陸軍科学研究所や帝国大学、民間研究所といった内外の研究機関に対して共同連携を行なっており、広範な研究ネットワークを張っていた。技術部の任務は次第に設計業務や実用研究を外部に依存するようになったことから、審査研究へと主たる任務が変わっていった。この点、設計も行なっていた海軍航空廠とは大きく異なる。1935年、陸軍航空本部技術部の現業部門を継承する形で陸軍航空技術研究所が設立される。定員は106名だったが、1937年に研究所令により改正されたときの定員は203名だった。予算は、日中戦争を境に倍増し、39年度には3253万円を数えた。1940年には審査に力点が置かれていた体制を研究面から強化すべく、従来の三部制から8部制へと改変したが、例えば発動機を例にとると、設計それ自体、製造試作、関連部品その他の基礎実験の大半が民間企業によって行われていたことは特徴的である。一方で様々な機会を捉えて必要な研究情報の収集に努めていたことが窺える。1941年には陸軍航空技術研究所において理研の矢崎為一がアメリカの近年の研究動向について談話を行なっている。だが、軍事研究のうちで何を内部で実施し、何を外部に委ねるのかの判断にかんしては、試行錯誤を余儀なくされていたという。

 

  • 第10章

 第10章「海軍航空廠・海軍航空技術廠の活動」では、戦時期の日本において最重要技術の一つであった航空技術の中心的な開発・実験組織である海軍航空廠(のちの海軍航空技術廠)の活動に焦点が当てられる。1932年に設立された海軍航空廠は、計8部から構成され、基礎的な理論研究から実用機に対する飛行実験、審査、試作機の設計、さらには製造能力も持つ研究実験期間だった。1935年時点での高等官は104名、総員は約3000名だった。また、大学・高等工業卒の技術者の養成には相当の時間をかけていたようで、入廠後1年間は実習期間となっており、その後次第に実務に就ていった。1938年4月には材料部が、39年4月には発着部が新設された。外国技術の吸収にも努め、1936年には海軍航空廠造兵少佐と工手が欧米に派遣され、37年にはドイツのユンカース社から「ユモ」発動機の装備期待が到着することになっていた。1939年に海軍航空技術廠と改名され、41年には電気部、さらに従来の兵器部と新設の爆弾部からなる支廠が設置された。41年時点で、高等官は518名、判任官281名を擁し、研究嘱託も25名に依頼していた。なお、戦時末期の45年2月に海軍航空技術廠は第一海軍技術廠と改称され、電波・音響・音波関係の実験研究機関として第二海軍技術廠が設置された。終戦時の第一海軍技術廠の高等官は656名、工員その他含めて合計1万4031名を擁する巨大な機関になっていた。海軍航空廠でも、様々な共同研究が行われていた。例えば研究嘱託の一人である東大の谷一郎(1940年に任命され、「境界層に関する研究」を行なった)によると、科学部が中心となって定期的に風洞水槽研究会が開催されておた。ここでは62本の研究報告が行われており、民間企業の研究者や陸軍関係者らも網羅されていた。

 

  • 第11章

 第11章「太平洋戦争期における陸軍の研究家初体制構想」では、陸軍技術本部および陸軍兵器行政本部技術部の活動を中心にして、戦時機における研究開発体制の方向づけが探られる。第三章で検討されたように、1919年に設置された陸軍技術本部と陸軍科学研究所が陸軍の兵器開発の司令塔および実施機関だった。その後1938年の改正により、通信や電波兵器を所掌する技術本部第4部が置かれた。技術本部では、部長が主任担当官を決め、民間試作工場を選定し、これに対して設計の大網、仕様を示し、主任担当官のもとで試作工場にて設計・製作が行われ、部内審査・実践試験を経て、制定されるという流れだった。1941年の改正で、技術本部と科学研究所が統合し、技術本部は総務部と1-3部、研究所1-8と登戸研究所(9)から構成されるようになった。続いて1942年には、陸軍兵本部(陸軍兵器廠に含まれる)と技術本部との統合が企図され、陸軍兵器行政本部が設立された。ここでは様々な科学技術体制構想が模索されていたが、画期的兵器の開発を目的とした技術研究所と部外研究機関との連携が強調されていた。研究動員は、まず、陸軍技術本部の調査班が、仙台・北海道の試験研究機関の動員可能性を模索していた。これは、東京付近の勤務者は多数の研究項目を抱え、多忙な者が多いため、むしろ北大等の教授の方が研究に専念できるとの着意によるものだった。実際、東北大では附属の電気通信研究所宇田新太郎らに「超短波、極超短波ノ発振特ニ真空管ノ研究」などの課題を委嘱していた。陸軍兵器行政本部設立当初における嘱託数は192名だった。1943年に入ると「個人の動員」から「組織の動員」へと深化が図られ、その結結果44年上期に142名、下期に139名が新たに動員された。また逓信省電気試験所の堀岡正家とも協議し、堀岡自らが第八技術研究所を見学し、協力可能事項について連絡を取っていた。(以上、第二部)

 

  •  書評

 以上が第二部までの内容である。次に、ネット上で閲覧できる複数の書評を取り上げ、各評者の本書に対する評価をまとめておきたい。

 まずは、経営史家の平本厚氏の書評(https://www.jstage.jst.go.jp/article/rekishitokeizai/56/1/56_KJ00008919054/_pdf/-char/ja)。平本は、本書の成果を、膨大な資料に基いた「様々な個々の事実の発見」にあると述べる。特に、戦時期の陸海軍の研究開発体制の分析は、これまでブラックボックスとなっていた内実を明らかにしているという点で特筆すべき成果であるという。一方の問題点としては、第一に、研究開発体制の定義の問題をあげている。本書では、それをナショナルイノベーションシステム(=イノベーションを生む国民的システム)とみなしているため、技術者教育、研究機関の動向、その間のネットワーク、各種研究体制政策の推移などされる議論が展開されている。だが、イノベーションとはより広い概念であり、例えば企業間関係の機能など、もう少し広い視野から分析されるべきだと指摘する。第二に、戦前の民間企業の位置である。沢井によれば、近代後期はまで、戦前・戦後にわたって政府主導の産官学連携体制が継続し、技術のキャッチアップが達成されたのちの現代において、初めて企業がそれを主導すると主張される。しかし、戦前の企業の位置は、卒業生の就職先としては最大であったし、学術論文執筆においても、大学に劣らない地位を保っていた。よって、企業の研究開発の独自の意味を汲み取る余地はまだ残っていると指摘する。 

 

 次は、『アカデミック・キャピタリズム』の著者である上山隆大氏のレビューを見てみる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/79/4/79_KJ00009263477/_pdf/-char/ja

 上山は本書を、これまで概念的に論じられてきた日本の近代化に果たした科学技術の役割を、本格的な実証研究によって示した「経営史および科学技術史の分野における新たなベンチマークを画する」「金字塔」であると高く評価した上で、次の3つの問題点を指摘する。第一に、平本と同様に、ナショナルイノベーションシステム(NIS)への味方に関する指摘である。NISとは、クリストファー・フリードマンやリチャード・ネルソンらによって1980年代後半から使われ始めた用語で、グローバリゼーションの論理に対抗するように国内の政策的制度の役割を論じるための概念装置である。本書では、研究開発体制にこのNIS概念を単純に重ねているが、それはNIS概念が生まれた背景を十分に認識していないのではないかという疑問を示している。第二に、各国との比較の視座の欠如を指摘している。例えば、基礎研究とミリタリー技術をつなぐところに国家戦略があると考えられるが、それは日本と米国では大きく違うだろうと述べる。第三に、戦間期・戦時期の研究開発の戦後への遺産としての「共同研究」体制と、「産学連携」とを同一視しても良いのかという問題である。両者では、「研究大学」のシステムに大きな違いがあるという。

 

 さらに、教育史の大淀昇一氏の書評も見てみよう。https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/123/6/123_KJ00010090862/_pdf/-char/ja

 大淀氏のレビューでは、評者の日本工業教育史に関する知見と照らし合わせながら内容が紹介されていて興味深い。例えば第二章で指摘されている研究部門と生産部門との連絡に悪さは、軍需工業動員法の公布(1918年)後の帝国大学工科大学において、設計技術者の養成に重点を置くあまり、生産技術者の養成が遅れていたという問題を孕んでいたことが紹介される。また本多静雄氏へのインタビューのエピソードにも触れられており、沢井が示す科学=文部省、商工省=技術、そしてその真ん中にある科学技術=技術院という所掌分担関係が、当事者にとっても事実であったことを紹介している。

 大淀氏が指摘する問題点は、産官学連携を主導してきた政府部門の役割が、「現代」に入ると大きく減退したという沢井の見取り図である。実際には、1995年に公布された科学技術基本法において政府部門の科学技術行政の新たな枠組みが示されたと見ることもできるのではないかというのである。また、共同研究については、研究者自身が自発的に研究テーマを追求できない研究統制の下での研究体制であった点を確認する点が必要だったと指摘する。その統制という性格が、共同研究の興隆と関わってくる可能性があるからである。

 

 最後の科学技術史の橋本毅彦氏のレビューを確認しておく。(こちらは残念ながらweb上で閲覧できない。)

橋本氏は本書を、科学史の分野で近代日本の科学技術の制度史の標準的な書物であった広重徹『科学の社会史』にとって代わる、「この時代の歴史研究で必ず参照されるスタンダードな参考文献」になると、高く評価している。また本書の叙述のスタイルを、「各時期における研究開発の人的資源の統計的なデータの算出、全国における研究開発組織の網羅的な調査、そしていくつかの代表的な事例における研究活動の実情の紹介を順次提供する」方法であるとまとめた上で、読者の関心を引く図表が随所に掲載されている点も特徴的であると述べる。本書の限界点としては、研究開発体制の組織づくりに大きな影響を与えたことが予想される「海外情報の流通事情」について押さえておく必要がある点を指摘している。加えて、共同研究の人的ネットワークの形成が、技術の論理によって形成されたものなのかどうか、もしそうだとしたらそれはどこまで日本独自のものであるとみなせるかを、海外比較を通じて試みると、さらに議論が深まると指摘している。特に後者の指摘は、技術史サイドから見た重要な指摘だろう。

 

 まだ他に、青木洋氏の書評など気になるものはいくつかあるが、図書館が閉館しており閲覧できないため、これくらいにしておこう。そして、最後に僕自身のコメントを(あくまで第二部までを読んでの感想であるが、) 付け加えておく。

 まず個人的に、本書の大きな成果は、戦前の陸海軍の活動について従来の歴史記述を更新した点にあると考える。これは、本書の序文にも記されていることであるが、広重は「第一次対戦の経験に教えられて着手され、不況のなかで中断していた科学動員への努力は、1930年代にはいって息を吹き返し、太平洋戦争に向かって強化されていく」と書いていた。しかし本書はおびただしい数の一次資料に基づいて、「科学動員への努力」は「不況のなかで中断されていた」わけでなく、厳しい予算制約のもとでも着実にその基盤を固め、新兵器開発を目指していたことを明らかにした。この歴史記述の変更は、従来の陸海軍の役割を見直す大きなきっかけになるだろう。

第二に、本書の特徴は、何よりも膨大な資料を検証可能な形にオープンにしてみせた一種の資料目録のような性格も持ち合わせている点にある。その意味で分野横断的に、多くの研究者によって重要な資料情報を提供してくれる点も素晴らしい。

 本書の最大の限界点は、戦前期・戦時期の研究開発のもとで取り組まれた活動が、具体的にどのような身を結んだのかが考察されていない点にあると考える。いや、正確に言えば、その成果とは「共同研究」=異分野間のネートワークの形成という一種の「経験」であったというのが本書の基本的な主張である。しかし、研究開発そのものは、そうした共同研究の生成を意図して形成されたわけではない。その経験が生まれ、戦後に引き継がれたというのはあくまで結果論である。例えば、真空管の増産活動などが紹介されているが、結局のところ、その活動は真空管の増産をどの程度なし得たのだろうか。こうした各活動の肝心な成果が記されていない。

 加えて、本書は科学史・技術史の文脈にそって、その研究開発活動がどのような意義をもっていたのかが明らかにされていない。異なる組織間の共同研究というのは、当時の日本で、研究テーマの関連分野で権威であった複数の研究者らが手をとりあって研究に取り組むということだろう。それは具体的な研究プログラムにとっても、革新的であったことが予想される。

 

 ちなみに、著者の第一次大戦後を「近代後期」とみなす見取り図は、なるほどと思わされる。確かに、第一次対戦のインパクト、つまり、科学に基づく新兵器開発だけではなく、総力戦に対応する形で国民的生産力を肝要する研究開発体制の整備、輸入の遅延・途絶に対処するための、国内における工業化の重要性の高まりなど、1914年前後で一つの時代に区切りがつくというのは納得される。科学史分野では、しばしば、理化学研究所の設立(1917年)を、第一次大戦インパクトというよりはむしろ、試験機関から研究機関への移行を象徴する出来事だと説明される(※)が、この認識も、本書の見取り図と矛盾しない。

 

近代日本の研究開発体制

近代日本の研究開発体制

  • 作者:沢井 実
  • 発売日: 2012/11/15
  • メディア: 単行本
 

 

 

※ 杉山滋郎『日本の近代科学史』、29頁。

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (6)

Hugh G.J. Aitken, Syntony and Spark: The origin of radio (New York: Wiley, 1976),(Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), pp.298-340.

 

 最終章では、序章で設定されていた問題、すなわち、科学と技術と経済という3つの社会的活動領域はどのように関わっているのかという大きな問題について、今まで議論されてきた無線通信技術の歴史という事例を通じて考察される。この考察に際して、著者は3つのモデルを作る。

まず第一のモデルは、科学=知識生産活動とみなし、その知識が技術、経済へと一方的に変換されていくという、常識に照らしても妥当なモデルである(図1)。

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図1. モデル1


 しかし著者は、このモデルは何が科学で何が科学ではないか(18世紀以前と19世紀-20世紀にかけての「科学」は同じものなのか)という点が曖昧であることと、知識が「供給」される面のみを考察対象とし、需要サイドを十分に見ていないという問題があると指摘する。

 実際には、科学の知識だけが特定の技術体系を決定する訳ではない。科学的発見が、いつ、どのように技術的前進をもたらすのかという点には、他の要因が関わっているはずである。あるいは、技術自体は本質的にそれが経済的にどの市場で用いられるものであるかということを、自ずと示すことはない。技術は、しかるべき方法で、それは用いられる市場が発見される必要がある。したがって、著者が示す第二のモデルは、それぞれの間の相互作用をくみつくしたモデルである(図2)。

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図2. モデル2

 これまで考察してきたように、マルコーニがイギリスに渡った1896年という時期は、ちょうど有線、視覚に基づく通信方法の限界を超える新たな長距離通信方法が求められていた。あるいは、恐慌後の経済が徐々に復興に向かいつつある時期でもあった。(1896年からWWⅠまでの間に、ラジオのほか自動車・飛行機・コンクリートといった新しい技術が芽生えていることは、このことと無関係ではない。) さらに、19世紀末から20世紀にかけてはナショナリズムが勃興する時代でもあり、それゆえ、英国、ドイツ、アメリカ、イタリアの軍部(特に海軍)は、無線技術の軍事的重要性に機敏に反応した。このように、技術と経済の間には、経済側からの様々な需要があった。それは、技術の側からの出力の中で、何が意味を持つのかということを教えてくれる情報であり、それに基づき特定の技術がふるいにかけられ、選択されるのである。

 次に、科学と技術の間の関係を考える。技術は科学の側に何を求め、何をふるいにかけ、何を選択するのか。

 ここで、科学と技術との間にある「市場」と、技術と経済の間にある「市場」とは、性格が異なる点に注意しなければならないという。というのも、技術はすでに高度に組織化されており、経済サイドからの需要のシグナルに即座に対応することができる。それに対し、科学は、いつどのような発見が生じるのかが不明であり、技術サイドからの需要のシグナルに即座に対応することは難しい。むしろ、科学は自律性が高く、科学内部のシグナルによく反応しがちである。したがって、三者を俯瞰すると、技術は、経済サイドから科学に対して発せられる需要を、一旦緩衝させるクッションのような役割を果たしているとみなすこともできる。(技術は、すでに利用可能な情報のストックに基づいて、それらを組み合わせることで、経済側からのニーズに即座に対応することができるからである。)

 ところで、技術から科学へもたらされるフィードバックは、(1)情報、(2)技術、(3)人材に分類できるという。情報の中でもっとも重要なのは、「不変項」である。これは、マルコーニの垂直設置アンテナ(長波)の発明の事例がよく説明している。マルコーニは正式な科学の教育を受けてはいなく、科学の人としては、アマチュアであった点に注意すべきである。もし、マルコーニが「通常科学」の体系的な性格に順応していたら、当時の科学によってガイドされ得ないような領域(=長波)へと足を踏み入れることはなかっただろう。彼がアンテナを垂直に立て、長波を利用することで長距離通信が可能になることを発見したのは、科学的知識に基づいていたわけでなかった。このマルコーニの事例から分かるように、技術から科学へもたらされる情報の中には、当時の通常科学の枠内では理解できない「不変項」が含まれることがある。第二には、測定器(ガルバノメーター、干渉計)、純粋な材料などが含まれる。そして第三には、訓練されたマンパワー(人的資本)、例えば、器具製作者、実験助手などが含まれる。このように、科学と技術の間においては、科学の側から技術の側に一方向に知識が流通するわけではない。技術から科学の側にも、フィードバックのループが存在しているはずである。

 

 しかし、このモデルでも説明されていないことがあるという。それは、それぞれの活動が持つ一種の文化(subculture)である。つまり、それぞれの領域で活動する人間の生活、望み、恐れ、不満、失望といった側面である。科学、技術、経済で活動する人間は、それぞれ違った文化を生きている。ある文化から別の文化へ、アイデアはどのように変換されるのか。この点を表現したモデルが、図3である。

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図3. モデル3

 これまでの議論で明らかになったことは、それぞれの文化を仲介する個人(もしくは制度)が存在し、彼らがそのアイデアの翻訳を行うということである。ヘルツは、一連の数学的方程式を実験装置に翻訳し、それにより測定や仮説の検証が可能になった。またロッジは、それらの装置を実現可能性のある無線通信技術に翻訳した。さらに、マルコーニは、当時の経済システムに適合することができる場所=市場を、他の誰よりもはっきりと見据えていた。つまり、彼らは科学・技術・経済の間にいて、両方の「言語」を話すことができたので、アイデアを一方から他方へと翻訳することができたのだった。情報が翻訳されることで、その領域においても「意味のある形」に変換され、その領域にある既存のアイデアを混ぜ合わされ、新しいものが生まれるのである。今日では、このような翻訳の活動は、制度的に整備されていることがあるが、当時はまだそのような制度はなかった。それゆえ、本書で見てきたように、その翻訳者は個人だった。

 

感想

 1901年のマルコーニの無線による太平洋横断通信の試みは、ある意味で巨大な「実験」だったのではないだろうか。この実験は、それまでの「ヘルツ波」について理解されていた枠内では説明できない「不変項」を電磁気学にフィードバックし、その結果、科学知識そのものの成長を促した。例えば、マルコーニの実験後、ヘヴィサイドは、直進するはずの「ヘルツ波」が、地球の湾曲にそって伝播するはずはないと考え、電離層の存在を予言した。このアイデアは、長距離無線通信技術から科学界へもたらされた不変項がきっかけとなって生まれたものである。電磁波の概念が「ヘルツ波」が、長波や短波、さらには超短波へと更新されていく過程は、「科学革命」が繰り返されていると考えることもできるのかもしれない。その場合、何が連続し、何が断絶したのかという問題は興味深いテーマだと思う。

 マルコーニ以後の歴史は、The Continuous Waveという本書の続編で扱われる。次は、この本に取り組もうと思います。

 

https://www.jstor.org/stable/j.ctt7zv7w0

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

論文レビュー:平本論文(真空管産業 3)

平本厚「真空管技術と共同研究開発の生成-戦前から戦中における共同研究開発の開始と広がり」平本厚編『日本におけるイノベーション・システムとしての共同研究開発はいかに生まれたか-組織論連携の歴史分析』(ミネルヴァ書房、2014年)。

 

 『日本におけるイノベーション・システムとしての共同研究開発はいかに生まれたか』の第3章に収録されている本論文では、真空管の研究開発において、共同研究開発活動がどのように生成したのかが論じられる。最初の2節は、1930年代までの真空管業の形成のプロセスを扱った前著論文のまとめであり、第3節から新しい研究成果が報告されている。

 

 1. 日本における真空管研究開発の始まり

日本において真空管が導入された経緯については2つの説がある。第一は、逓信省電気試験所の鳥潟右一が1910年に三極真空管(軟真空管)入手したが、これがうまく機能しなかったため、1914年から長岡半太郎の指示で真空ポンプ(ゲーデ式、分子ポンプ)を輸入し試作を始め、1916,17年に受信機と送信機の製作に成功したというもの。第二は、海軍が1914年にゲッティンゲン大学の林房吉を海軍技師として雇い入れ、造兵廠電気部でリーベン管の研究をはじめたというものである。しかし、これは分子ポンプの故障により失敗する。1916年にアメリカの駐在武官からアメリカ製の真空管が送付されるが、このフィラメントが切れたことから、松田達生技師の尽力により、1917年に同時送受信電話機が完成された。民間企業でもやや遅れて真空管の研究開発に着手された。東京電気では1916年8月に、沖電気も同年の秋に研究に着手している。なお、1919年末に東京電気は、海軍から研究試作資料の提供を受けたという事実が指摘されるものの、その内実は不明である。

 

2. 真空管産業の形成と産業組織の変遷

 1925年にラジオ放送が開始したことで、受信管の需要が拡大し、真空管市場は成長した。(正確には、ラジオ放送開始前から、アマチュア無線家らの間で送受信の実験は始まっており、「ハマチバルヴ」は1922年に販売が開始されていた。) 1926年時点で、東京市に約80もの中小零細企業が存在したと言われる。が、このときは品質の悪い真空管のそれと判断されることなく高価に販売することが可能だった。産業構造は、1905年にGEと提携を結んでいた東京電気が1925年よりラングミュアの硬真空管特許の実施権を発動し始めたことで、大企業=東京電気/中小零細メーカーという二極構造になった。1930年代に入ると、(1)上記の東京電気によるラングミュア特許実施権の延長および、日本真空管製作所に対する権利確認審判が東京電気の勝訴に終わったことで、東京電気による独占的支配が確立したこと、(2)1935年にラングミュア特許が期限切れを迎えたことで、有力企業が再び生産を本格化したこと、(3)中小企業が凋落したことが重要な事象である。その結果、産業構造は、いくつかの有力企業(日本電気、川西機械、日立)が東京電気=大企業に拮抗するという形になった。

 しかし、1934年ごろから日本の真空管技術は欧米に遅れるようになった。欧米では多極管、複機能真空管エーコン管、金属管など電気的性能の向上や小型化が進んでいったが、日本ではそれらを採用したラジオは売れなかった。日本の受信機市場の中心は廉価なセットであり、真空管の古いままだった。したがってこのころから3-5年にタイムラグが開いていくことになる。このことは、電波兵器の革新やその量産を制約したため、戦時体制にとって大きな問題だった。そして、この技術的な遅れこそが、1930年代以降の日本の真空管産業の大きな問題になっていた。

 

3. 共同研究開発の生成 

 以上のような危機意識が技術者、研究者の中から芽生え始め、様々な共同研究活動が展開される。ここでは、(1)通信機国産化調査委員会、(2)日本学術振興会第一小委員会第二分科、(3)電気学会技術委員会、(4)真空管同好会、(5)研究隣組がとりあげられる。

 

 1936年に電信電話学会において、通信機の国産化の具体的な方策を樹立するため、調査、研究の連絡、指導を行うべく通信機国産化調査委員会が設置された。委員会は三つの小委員会からなり、第三小委員会(真空管応用技術)の第一部門が「真空管」だった。ここで重要なことは、共同研究が学会という形をとったことである。学会であるがゆえに、官民だけでなく、大学や軍の関係者まで集めた全日本的な活動になったからである。また、東京電気のような外資系企業にとって、国産奨励の共同研究活動は、企業の利益にはむしろそぐわないものだったはずである。にもかかわらず、技術者個人の考えは企業利害に沿うものであるとは限らなかったのであり、政府や企業等の機関の利益から推進されたわけではなかった。

 日本学術振興会では、渋沢元治の提案で、秘密無線装置の問題に取り組むべく1933年6月に第一小委員会が設置された。しかし、ここでは陸海軍の秘密主義が共同研究を妨げた。1936年には、同委員会に第二分科会を設けて、超短波および極超短波装置に関する研究が開始されることになった。5つの重要研究事項が設けられていたが、そのうちの一つは、陸海軍の要求に応じたもので、水冷式三極管や水冷式マグネトロンの研究が行われた八木秀次曰く、この第二分科の活動は最も目覚ましいものだったという。

 1938年に電気学会に「技術委員会」が設置された。ここには軍ん関係者は入っていない。真空管専門委員会は1939年から月一回のペースで会合を開き、欧米の最新技術や新製品の紹介、討論を行った。

 

4. 社会運動としての共同研究開発

 東京電気の浜田成徳真空管の共同研究開発の中心にいた人物だった。彼は、日本の真空管技術の向上を図るために、現場に近いところにいる若手の研究者・技術者の直接の共同を促進する「研究隣組」のようなものを発足させる必要があると主張していた。1941年5月真空管専門委員会で、「第一線の研究者を専門別に集合して試案の如き七つの同好会の如きものを結成」することが提案され、同年7月に同好会の結成が決定された。活動としては、講演、討論、協議、調査、文献紹介などがあった。

 そして1943年、この真空会同好会が、技術院の科学動員政策としての研究隣組にとりこまれることになった。研究隣組になったことで活動はいっそう大規模化し、同好会の数は8となった。

 以上のように、戦時期の真空管の共同研究活動は、政府や企業などの機関の利益から行われたものではなく、研究者・技術者の発意によって主導された。そして、彼らが共有していたのはナショナリズムに駆動された、日本の真空管技術が遅れているという強い危機感であった。共同研究開発の技術的成果としては、酸化物陰極の研究は真空技術の発展が挙げられるが、イノベーションにとって重要だったのは、共同研究という経験自体だったと述べられる。この経験が、戦後のエレクトロニクス分野で様々に展開した共同研究開発の基盤の一つを形成していた。

 

感想

 ・戦時期の真空管の共同研究が政府企業からのトップダウンで主導されたのではなく、研究者・技術者らによってボトムアップで取り組まれたという指摘は、興味深い。共同研究という形式自体が、陸海軍の秘密主義や、外資系企業の経営戦略とそぐわないことは容易に想像がつくから、これは納得である。しかし、日本の真空管技術が遅れているという危機感は、陸海軍も共有していたと想像できるため、共同研究というテーマに限定しないのであれば、別の戦時研究体制が展開されていた可能性があると思った。確かに、民生市場は、新型の真空管を取り入れた高価なラジオの販売とは適合しないものであり、軍需を逼迫した。であれば、共同研究という形ではないにせよ、新型真空管の試作や生産の要求が、陸海軍から起こっていてもおかしくない。確かに、学振の第一小委員会では陸海軍の要求を受け、研究が進展したことが指摘されているが、それを除けば軍-民間企業との連携・協働の一側面しか描けていないのではないかという気がした。

 

・各種の共同研究活動が行われたことで、結局、1930年代後半以降の欧米に対する3-5年の技術的ブランクを埋めるという問題は解決されたのか、されなかったのか。もし、直接そのような課題が達成されなかったとしたら、それは「共同研究の経験」という間接的な遺産しか残さなかったのだろうか。

 

 

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-2

: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.後半(pp.244-297)

 

5章後半の内容のまとめ。備忘録です。

マルコーニが、火花式(disc-discharger)によって、連続波に近い波の発振を実現していたということは驚きでした。

 

5-7

 市場の拡大は、(1)長距離通信をいかに実現するか、(2)選択度をいかに向上させるかという二つの技術的な課題を突破する革新を求めた。この説では、(2)の問題を扱う。1900年ごろまでに送受信機の数が増えるにつれて、この問題は看過できなくなっていた。特に送信局間の混信の問題が深刻だった。コロンビア大学のマイケル・ピューピンは、1901年に、マルコーニの大西洋横断通信の偉業を認める一方、所与の時間において、英国から米国へ一つ以上の局から送信することはできない点を心に留めておくべきだと主張している。(現代の我々にとって、羅針盤や六分儀なしで自分自身の位置をしることに全く想像が及ばないのと同様にして、同調事前の時代に思いをはせることは難しい。)

 新しい無線機と公衆との最も初期の効果的な接続は、ヨットレースだった。1901年のヨットレースでは、マルコーニ社以外にも、米国ワイアレステレグラフィー、AT &Tの機器も混ざっており、それらとの混信により大失敗に終わってしまった。米国海軍省の船の実践でも、ある局が送信している間に二船の船の間で送信できないこと、片方の船が送信し始めているときに、もう一方の船は受信できないといった問題が指摘された。 マルコーニ同調へのアプローチは間接的だった。というのも、彼の意識は干渉に向いていたからである。彼はまた、送信周波数が広すぎるために、エネルギーを浪費いていることも気にしていた。こうした直接の関心が、彼を(間接的に)同調技術へと導いていったのだ。

 まず同調回路の設計において取り組んだ問題は、受信機の感度の悪さからだった。

従来のマルコーニの装置では、コヒーラが地面とアンテナの間に挿入されていたが、これは不適切な位置だった。コヒーラーをアンテナから遠ざける(スレイビーは、1/4波長遠ざける方法により、電圧を最大化することを考案し、1900年にSlaby-Arco特許を取得している)ことで、受信感度の問題を解決した。マルコーニ自身が採用したタイプは、スレイビーのそれを原理は同じだが異なるもので、アンテナの電流振動をコヒーラが検知可能な電圧へと変換可能な「高周波トランス」を具備するもの(jigger transformer)であった。ここまでは問題なかったが、今度は、コイルの巻数とその比率が問題になった。知的なブレークスルーは、彼が、アンテナとコヒーラはインダクタンスとキャパシタンスから成る共振回路であり、それゆえ特定の周波数で共振し、そのときにエネルギーが効率よく伝わるということを理解したときに起きた。これらの成果は、最終的に1900年に4つの特許に結実するが、この中に有名な「四つの7=7777番」特許が含まれている。

 マルコーニ自身は、”syntony”という言葉をほとんど使っていない。彼はロッジの1897年特許との違いを強調するために、この語を使わなかったのだろう。彼はその代わりに”tuning”という言葉を利用していたため、1900年以降この言葉は次第に消えていった。もう一つの違いは、ロッジの方は2つの回路から構成されていたが、マルコーニの回路は4つから構成されていたという点だ。だが、ロッジは同調を得る方法を最初に記述した点で、彼に特許権にあるようにみなされ、1911年にマルコーニ社によってロッジの特許は買収されるに至った。

 ただ、ロッジ以外にも、マルコーニ以前に同調に注目していた人物はいた。例えば、テスラは1897年時点で同調のコンセプトをもった装置を開発していたし、John Stone Stoneは、不必要な振動を取り除くフィルターとしての共振回路により、1900年に特許を取得している(発行は1902年)。だが、ストーンもテスラも商業的関心は薄かったし、ロッジも1911年まではマルコーニを訴えなかった。マルコーニがロッジの装置を改良したということよりも、むしろなぜロッジ自身が自分でそれを改良しようとしなかったのかを説明する方が難しい。

 

5-8

 二つ目の目的は、長距離通信の達成ということである。1900年ごろの装置は、100マイルくらいの通信にやっと十分なものだった。マルコーニは、彼の技術をより大きな電流と大きな電圧を有するものへと転換する必要があった。そこで、1900年12月にロンドンのフレミングがアドヴァイザーにつき、高周波発電装置について助言をした。また同時期にR.N.vyvyanもマルコーニ社に加わった。フレミングによって使用された技術は、(1)内燃機関を用いた交流機(発電機)、(2)電流変圧器、(3)同調された火花放電回路だった。1901年に行われたフィラデルフィアの実験は、しかし、期待以下の成果しか得られなかった。大きな電力を得て火花回路へ送ることは比較的容易だったが、それをアンテナに送り長距離通信を達成させることが、前例のない試みだった。そこで課題となったのが、アンテナ設計だった。

 マルコーニが用いていたアンテナは風や氷に弱かったこと以上に、指向性がなく、固有周波数が不明だったことが問題だった。1905年になって初めて、L字型の指向性アンテナが発明された。マルコーニは短波で指向性アンテナを用いることは理解したが、長波で用いいることを学ぶ必要があった。

 マルコーニは、なぜ長距離通信には長波の方が有利だと考えていたのか。低いほとほど霧の中をよく伝わるという音の性質になぞらえて理解する者もいたが、彼自身は地球の伝導性に基づいて説明している。しかし、その説明は、夜の方がよく伝わるということを説明できなかった。電離層が観測されるのはもっと後年になってからである。ともかく、この時無線通信に関して重要な点は、長波のほうが長距離通信にとって有利であると理解されていたということだ。1920年代に入って、アマチュア無線家たちが短波での長距離通信に成功したのは、彼らが優れた機器を用いていたからではなく、電離層という新しい資源を利用していたからである。だとすれば、マルコーニは長波=長距離だとみなす「エラー」を回避することができただろうか。もちろん、ここで問うているのは、当時アクセス可能だった知識の中で、彼の戦略は良いものであったかどうかということである。しかし、長波の実用的な利用にとって「地表波」の知識が必要でなかったのだから、短波の実用的な利用にとって電離層や電波伝搬の知識は必ずしも必要ではなかったはずだ。1900年から1914年の間、ここでは科学的知識が技術に先行するという関係ではなく、技術が科学的な知識に先行するという関係になる段階に入っていた。その意味では、彼は「間違って」いたわけではなく、もっとお金や時間や労力をかけずに目的を達成できたはずという意味で、他の選択肢にも開かれていたと言うべきである。それでも彼が長波にこだわり続けた理由は、彼の両親と同様に、頑強な性格の持ち主であったことも関係しているかもしれない。

 

5-9

 大電力-長波火花送信機の頂点は、1907年に開局したClifden(アイルランド)局だった。ここでは、タービンを用いて直流電流を生成し、それを一つは直接火花回路へ、他方はバッテリーへと導くことで、長時間の送信と二種類(11000-12000,15000V)の電圧で起動することを可能にした。アンテナは指向性のもの(L字型、vent設計)を利用していた。だが、技術的に最も重要な点は、円型の放電機(disc-discharger)を導入したことである。これはアーク放電(電極に電位差が生じることで、電極間の期待に持続的に発生する放電)によるスパークギャップの侵食を防ぐ目的で利用された。例えばリーギはもともと、アーク放電を防ぐために油を塗っていたが、高電圧になればなるほどそれでは不十分になっていた。また、送風や、(テスラが考案した)磁石を挿入して磁場とアークを相殺する方法、スパークボール(?)を導入する方法なども考案されていたが、回転式の円盤を放電に用いたのはマルコーニが初めてだった。だが、これは期せずして、アーク放電によるスパークギャップの侵食を防止すること以上の意味を持つことになった。というのも、これを活用することで、各パルスはとてもゆっくりと対数的に減衰し、それらのパルスは高速で互いに追随するため、連続波に近い送信波を生成できたのだった。残念ながら音声変調として用いられることはなかったが、連続波の生成は、のちの時代にとっても最も重要なブレークスルーの一つになる。そして、円型放電機は、一貫した発振と効率的な放射のトレードオフを解決する技術でもあった。

 Clifdenの通信で、技術的な危機に直面することはほとんどなかった。Fessendenら一部の人間は、ここでの連続波の精度は音声を送るには不十分であること、周波数の混信の問題を意識していた。混信の問題は、受信機の選択制、送信機のより狭いバンド、そしてまだ利用されていない周波数(短波)へのシフトを示唆し、音声送信ができるようにするための改良は、真空管への移行を示唆していた。

 マルコーニ社にとって、1910年以降は、技術的な発展の時代ではなく、商業的な統合の時代となった。1900年の「4つの7」特許を基盤として、1911年にはロッジの同調特許を購入し、1912年にはドフォレストの特許を持つアメリカのユナイテッドワイアレスカンパニーを買収した。ドイツではテレフンケン社が政府の手厚い保護のもとに置かれていたため、買収は容易ではなく、テレフンケンが1912年にロッジの特許権を侵害していることを認め、マルコーニ連合に加盟し、欧州でのマルコーニ特許の使用権を購入することで和解した。第一次大戦(1914-18)に入ると、連合はより国家主義的な意味合いを持ち始め、その延長で米国のRCAが発足(1919年)する。

 しかし、後続の真空管、再生回路、スーパーヘテロダイン回路の発明、さらには1920年から始まる放送といった革新の中でマルコーニ社の特許権の有効性が生き残るかどうかは、疑わしかった。新しい革新により、1920年代以降の産業構造は、1900-1914年までのそれとは根本的に異なるものとなった。1930年までには、火花式送信機は博物館の展示物になり、syntonyという言葉もほとんど消失した。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.pp.179-244.

 

 以下では、第五章の前半までの内容をまとめています。ここでは、グリエルモ・マルコーニの幼少期の様子、母親とイギリスに渡り、ウィリアム・プリースという知己を得てマルコーニ社を創立し、無線電信の大西洋横断実験を行おうとする1901年ごろまでが扱われています。マルコーニは、幼少期にボローニャ大学でリーギの講義を聴講したり、実験室に出入りしていましたが、正式な学生ではありまでんでした。つまり彼はアカデミアに属する学者ではなく、アマチュア無線家であり、起業家でした。彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、本書では、マルコーニは「科学者」ではなく、「実業家」という経済界の人物しての面を強調しているように思います。もちろんその一方で、彼が大西洋横断実験を行うなかで、科学界にも解決すべき新しい問題(=anomaries)を、フィードバックしたことも事実でした。

 

5-1

 1896年にマルコーニは英国に渡った。彼が英国で成功することができた理由を、彼に要求されていたことを詳細に観察することと、ウィリアム・プリースが自分自身の状況をどのように考えていたのかに注目することで、考察する。

5-2

 マルコーニは正規の教育を受けていない。だがそれゆえに、彼は自分自身の興味関心に自由に従うことができた。彼は物理や化学特に、電気にかんすることに興味があった。彼は、ボローニャAugusto Righiの教育を受けることで、素人的な好奇心を幾分体系だった知識へとか変えることができた。ボローニャ大学の正規の教育を受けることはできなかったが、彼はリーギの講義を聴講することを許可され、実験室に出入りすることも認められた。リーギは、1894年にヘルツの実験が行われた際、イタリアのある雑誌にその実験についての記事を寄稿しており、そのことがマルコーニが無線を通信に活用できることを思いつくきっかけになったかもしれない。

 マルコーニがリーギから学んだことは、電磁波がどのように生成し、伝播し、検知されるのかについての実用的な理解だった。1894年時点でのリーギの関心は、ヘルツが晩年に取り組んでいたことと同じく、超短波(超高周波)の電波が光とおなじようにどのように放射されるのかということについてだった。一方マルコーニは全く逆の方向、つまり、長波で低周波の電波を用いた実験を行うことになる。彼がリーギからどの程度の影響を受け、あるいは逆にどの程度独立していたかということは、リーギの実験器具を見るとわかる。超短波の電波を生成するために、彼は規模の小さな装置を使っていた。そしてスパークギャプはヘルツのそれを改良し、4つからなる構造だった。この強い、規則的な火花を生み出せるライヒのスパークギャップは、マルコーニの初期の送信機の特徴の一つであった。受信機の方では、コヒーラーに特徴があった。マルコーニのコヒーラーはより大きな感度を備えるものだった。1894年から1896年までにマルコーニが行なったコヒーラーの批判的な改良は、実験的好奇心の産物ではなく、商業的(軍事的)サービスにおける日々の使用に耐えうるものを発明使用とする試みだった。

 アンテナに注目すると、ヘルツの実験以降、超短波の実験が規範的になっていたが、これは「実験室内」という環境に由来するアンテナの機械的な問題に起因していた。(例えば室内におい、2mの波長の電波を生成できても、200mの波長の電波を生成することはできない。) マルコーニの実験のアンテナで特徴的なのは、垂直接地アンテナの活用だが、マルコーニ自身は、垂直アンテナから放射される波とヘルツの波とは異なるものだと考えていたようである。いずれにせよ、垂直アンテナそれ自体に固有な要素があるのではなく、アンテナを垂直に立てたことで偶然にも長波を利用することになり、今日的に言うと、「地表波」によって遠距離通信が可能になったという点に新規性があった。したがって、1920年代に短波が「再発見」されるまで、長距離通信を可能にするのは、長いアンテナであり、長波であり、大電力の送信であるというマルコーニの公式(これはもちろん不完全な公式であるが)が成立すると思われるようになった。その意味で、1895年-96年の垂直アンテナ=長波への移行は、実際、技術的なブレイクスルーであったものの、一方で技術的な「病的な固執=fixation」の始まりでもあった。経済的な観点から言うと、これは長距離通信にとっての資源の誤った配置を導くレシピであった。

 マルコーニは科学的な発見を便利で潜在能力のある装置へと翻訳した。彼は電波を、科学から技術へさらには商業的な利用へと導いたのである。だが、逆に、商業的な利用というマルコーニの試みから科学や技術の方へと情報がフィードバックされるという面もある。というのも、マルコーニは「長距離通信」という科学者の関心になかった問題に取り組む中で、その副産物として、科学が新たに解くべきそして合理的に説明すべきanomalies(トマス・クーン)を提出したからである。例えば、ロッジ自身は実験の中でanomaliesという呼べるものに遭遇していなかった。彼は、新しいアンテナやコヒーラーを用いた実験から得られた結果を完全に理解するために、(1)アンテナ設計に関する理論、(2)電波伝搬に関する理論、(3)送受信機をアンテナにマッチさせるtransmission linesに関する理論を必要としていただろう。これらについての経験的な部分的な知見はすでにあったが、体系的な知識は存在しなかった。マルコーニは、1895年までに綺麗に整えられていた牧草地を未知の大地へと変えてしまったのである。

 1896年に彼が英国にもたらしたものは、(1)装置としてのコヒーラー、(2)情報としてのdirectional reflective antenna、そして垂直接地という概念だった。そのほかには、(3)彼が電磁波を用いて軍事的にも商業的にも価値がある伝送システムを創造できるという自身と、(4)それを実行する揺れない自信を持ち込んだという点も重要である。

 

5-3

 

 マルコーニが1896年に申請した特許(暫定的な仕様書と完全な仕様書から成る)は、それ自体新規性のある科学や技術を含んでいるのではなく、無線のパフォーマンスが向上することにつながる既存の技術の設計上の改善と、構造を詳述しているという点に特徴がある。ただ、アンテナの設計に関しては、新規性を持っていた。マルコーニは、アンテナを一つの独立した問題領域として認識してはいなかったようで、送受信機の構造についての記述の中に散逸しているのだが、いずれにせよ、彼は、(1)インダクションコイル、コヒーラーがアンテナに直接接続している(直接式?)タイプ、(2)パラボラ反射器を備えたダイポールアンテナ、(3)垂直接地型アンテナの3つ型のアンテナを記述している。そして、方向性を重視する場合には(2)を、送受信機間に障害物がある場合には(3)をといった具合に、様々なアンテナを選択している。ただし、同調にかんする言及はほとんどない。強いて言えば、アンテナの大きさによって波長を変え、大雑把に同調できることを記している程度であり、混信を防ぐための同調という視点が皆無であった。

 ロッジは、科学者として、理論的な予言を物理的な器具に変換しようとし、マルコーニはそのプロセスをさらに推し進め、実験室のハードウェアから実用性に奉仕する技術体系へと翻訳した。したがって、この段階において、物事はコスト、予算、代替モードとの競合といった経済的な用語で語ることができるようになった。無論、マルコーニの技術は最先端の科学技術に関わるフロンティアであったが、その唯一の例外が「同調」だった。なぜなら、彼は、正確な同調や鋭い選択性が求められる状況に未だ嘗て遭遇したことがなかったからである。彼は同調の問題を、アンテナの大きさの問題としてしかみなしていなかった。

 

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5-3の内容をまとめた概念図

 

5-4

 郵政省の技師長であり、自らも実験家であり技術者であったウィリアム・プリースが、マルコーニの電信システムを支持するようになった動機は何だったか?彼は、マルコーニがイギリスに来る前からすでに無線電信(※無線なのか有線なのか、その両方なのか、いまいち読解できなかった。)の実験に取り組んでいた。なぜ彼は自分自身の実験成果を棄却してまで、マルコーニの技術を採用しようとしたのか。手短に言えば、彼自身1895年から1896年の間に、袋小路の状態にあったからである。プリースは経験的に、ワイヤはーは局間の距離と同じ長さにする必要があることを導いていた。だが、これはいくつかの離れた島にある灯台など、適さない状況での使用が難しいという問題があった。取り組んでいた誘導電信は、ワイヤーを展開できる土地が十分に存在する条件で効果的に機能したのだった。電磁波理論が示すように、変動する電磁場には、距離の二乗に反比例して変化する誘導場と、距離の一乗にのみ反比例して変化する放射場の二つの要素があるが、プリースの装置は誘導結合(inductive coupling)(?)にのみ依存しているため、距離とともに急速に(距離の二乗に比例して)減衰してしまった。長い平行線はこれを補うための措置であり、比較的短い距離であれば、有効に機能した。しかし、長距離となれば話は別である。ここでは放射(新しく発見されたヘルツ波)のみが、受信機で検知されるほど十分に強力な効果を生成することが期待された。だが、プリースがマルコーニの技術に関心を持ったのは、このような長距離通信を可能にしたことと以上に、船同士の移動体間通信を可能にするものでもあったからである。確かに距離は重要な要素だったが、1896年より前にマルコーニはプリースの装置以上に長距離の通信の実験に成功していたわけではなかった。彼は惹きつけられた点は、使用するワイヤーが少なくて済んだという単純な事実であった。

 

5-5

 グリエルモ・マルコーニの母にであるアニーは、スコットランド出身であった。彼女は歌を学んでおり、イタリアに「bel conto」を学ぶべく留学していた。ボローニャの友人の家に滞在しているときに、グリエルモの父となるジュセッペと出会う。ジュセッペはボローニャの絹商人だった。彼はアニーの17歳年上で、妻を失った男やもめであり、一人息子を抱えていた(※グリエルモではない)。両親は結婚に反発したものの、アニーはジュセッペと駆け落ちし、イタリアに残ることになる。(のちに、アニーは家族と和解する。) したがって、1895年にグリエルモが母と共にイギリスに旅立ったことは、里帰りでもあった。そして、イギリスは当初世界最大の商船の保有国であり、国際貿易の中心でもあり、海軍力も大きかった。 

 アニー家から得たものは、金と助言と人脈である。このうち助言と人脈において重要な働きをしたのが、アニーのいとこであるJameson Davisであった。Jameson Davisの友人のキャンベル・スウィントンが、イギリス郵政省のプリースとマルコーニを結びつけたからである。

 プリースは郵政省の技師長であり、ちょうど技術的にも行き詰まりに遭遇しているところだった。彼はマルコーニと出会うことにより、そのボトルネックを打破することができることを期待したのだった。

 ところで、マルコーニが官立ではなく、民間企業としてマルコーニ社を起業することになった理由は、英国政府の対応が遅かったためであるという説があるが、これは事実と異なっている。1897年の夏になってようやくプリースはマルコーニにコミットするようになるが、マルコーニ家からすると、これは不必要な官僚的な遅延に思えたに違いない。、、、(以下理解不能)

 結局、プリースの協力を得てマルコーニ社が民間企業として発足したことには、三つの重要な点があった。一つは、プリースのおかげで、民間企業でありつつも、社の方針として第二次世界大戦まで、「政府所有」という方向性が掲げられた点である。第二は、郵政省とマルコーニ社との間に軋轢を残し、特に「帝国の鎖」を構築するときに、その相互不信が大きな問題となった。ただし、この不信感は、マルコーニ社に対して向けられていたものであり、マルコーニ自身に向けられたものではなかった。マルコーニは「無線界の天才」であり、科学者や技術者の間には、友愛や兄弟愛と呼べるような関係が続いていた。第三は、マルコーニの特許をその民間企業が利用することで、研究資金の継続的な拠出関係が出来上がったことである。特に当初は家族の小さな輪の中に、会社の所有権や管理権が限定されており、外部からのそれらの侵害を憂慮する必要もなければ、配当を心配する必要もなかった。マルコーニ社は、いわば、拡大された家族を具現化したものであった。

 

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 1897年にマルコーニ社が創立したのち、技術は商業的な問題と関係しながら、言い換えれば価格システムの影響を受けながら、展開するようになる。市場で生き残り、市場での競争に寄与するかどうかが、装置の発展や、採用/棄却を左右するようになった。ところで、その市場そのものも、無線界では自明の存在ではなかった。まず手始めに、市場を形成するためには通信能力を実演することが必要だった。そのため、当初マルコーニ社は、需要者(軍)自らが装置を操作して、それを体感させる戦略を採用した。しかし、のちに通信システムを所有するのではなく、それへのアクセスを求めている民間を顧客にしたとき、装置自体を製造し、販売するというよりは無線のサービスを提供する性質に変化していく。英国には、すでに国内の通信網を郵政省の管理のもとで一元化する法律が存在したので、マルコーニ社が進出することは容易ではなかった。この法律の抜け道として、民間企業が社内で通信をやりとりすることは禁じていなかった点に着目し、マルコーニ社はロイド社を顧客に無線システムの販売に出た。したがってロイド社がマルコーニ製品のみを使ったのは、技術的な理由ではなく、英国の法律の制限に由来するものであった。マルコーニの独占体制は、1908年の国際無線会議の際に問題化するようになった。そして、マルコーニ社も1910年になって、漸く他社による特許権の侵害を訴え始めるようになる。同社にとって、海軍とロイド社が最初の重要な顧客になったが、第三の市場は、海を越えた長距離通信にあった。だが、この第三の市場は、それまでとは性格を異にする市場であった。というのも、大西洋横断通信は、すでに有線ケーブルによって構築されており、それは格段古い技術というわけでもなく、また多くの投資もなされている分野だったからである。経済の論理からすると、有線電信を無線に置き替えることが合理的であるかどうかは自明なことではなかった。大西洋横断通信の顧客のニーズは、金融や新聞の情報の素早い性格なやりとりができるところにあった。この点について、無線というまだなじみのない未知の要素が多い技術が、有線電信に優っているとは限らなかった。それゆえ、マルコーニがこの分野に進出したことは驚くべきことだ。さらに、マルコーニが大西洋横断通信に試みたとき、その技術はまだ利用可能なものではなかった。ヘルツ波は直進すると考えられていたので、地球が湾曲していることを考慮すれば、それは不可能だという意見もあった。ケネリーとヘヴィサイドが電離層の存在を予言したのは1902年であり、また、アップルトンが実際に電離層を実験的に観測したのは、1925年のことである。マルコーニの事業が科学知識の最先端を超えてたという事実は自明のことである。むしろ、科学の進歩率が、マルコーニの状況に依存していたということが強調されるべきである。それは単にデータが提供されるということだけではなく、もっと難しい技術的な困難を科学界に要求することになった。大西洋音大通信は、マルコーニや周辺の技術者たちに、既存の技術の能力をテストする機会と、新しい技術の基盤を提供したのである。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

 

平野啓一郎『透明な迷宮』を読みました。

 

 『透明な迷宮』は、2014年に刊行された短編集で、著者自身による創作時期の分類によると、第4期(後期分人主義)に含まれる作品だ。一つ一つの小品は完全に独立しているわけではなく、テーマや要素が緩やかに重なり合う6つの短編が収録されている。

 作風としては、不思議な国のアリスの世界というか、エッシャーの絵画のようというか、メビウスの輪のようというか、、、物語を筋を追っていくと、何が正しくて何が間違っているのかが分からず混乱してくるような不思議さを備えており、まさに「迷宮」の中を彷徨うような感覚におちいる。

 個人的には、6つの作品の中で、「family affair」と「Re: 依田氏からの依頼」の二作品が特に面白かった。両作品は、「姉妹」という要素が共通しているが、もう一つ、(タイトルの『透明な迷宮』という言葉とも関係してくるが、)「無意識的な強制」というテーマも併せ持っているように思われた。

 

 「family affair」は、享年86歳で亡くなった古賀惣吉の葬儀に参列した登志江(姉)とミツ子(妹)の、惣吉の遺品をめぐるやりとりを中心に描かれる。この二人は、姉妹であるにも関わらず、対照的な人物として描かれており、饒舌でしたたかな妹に対して、姉は普通にしていても笑っているかのように見え、「いつ本当に笑っているのかも、なかなか分からない」という穏健な人物のイメージが湧く。だがそのせいで本当の表情も分かりづらい。

 登志江は、父のなくなる7年前から自宅で寝たきりの彼を看病し続けいていた。周囲の親類は、父の死は悲しいに違いないが、登志江の献身さを労い、ホッとしてもいいだろうという「やさしい」考えを持つことで一致していたと書かれるが、もちろん登志江の本心は不明である。本当は、父の死を誰よりも悲しんでいたのかもしれないが、なにせいつも笑っているような表情をしているので、どんな考えを抱いているのか分からない。そんな具合に、本作品は、姉の自発的な行為でなされているかのように見えながらも、実は妹が強制的に誘導された結果であるように翻弄される姿が印象的な短編である。

 

 「Re: 依田氏からの依頼」も似たようなテーマを持っている。本作は、恋人の涼子を失った劇作家の依田氏の身に起こった特異なエピソードについて、涼子の姉の未知恵の依頼によって、彼女から提供された素材を元に、小説家である主人公がそれを小説に仕立て上げるという内容である。そして、ほとんどの部分は、この「小説の中の小説」のテクストが占めている。が、肝となるのは、このとき依田は時間感覚が混乱するという一種の病に冒されており、日常生活を送ることが困難な中にあって、小説の素材も、未知恵の口述筆記によって書かれている。依田の本心は、誰にも分からないのである。

 

 Twitterなどのメディアには、日々、たくさんの情報が洪水のように溢れており、何が正しくて何が誤りか、見極めることがとても難しくなってきている。自分が「信頼できる」と思っていた情報に基づく判断であっても、実は背後に巨大な力学が働いていて、その大きな力による強制になっていることもありうる。そして、それが難しい問題であればあるほど、外的な環境に左右されやすく、自分の本心がどこにあるのかということが見えづらくなっていく。知らない間に自分の価値観が変容され、ある方向へ誘導されているという感覚。それが、ただの迷宮ではなく、「透明な」迷宮ということなのだろう。

 実際、本当の意見を持つということが、とても難しくなってきているような気がする。もちろん、自分の意見というのはゼロから生まれるのではなく、他人の意見を含めた外的環境の影響を受けながら形成されていくものだ。だが、「こういう意見もあるし、ああいう意見もある。みんな違って、みんないい」というある種の相対主義に陥ると、これもまた迷宮の中をたださまよっているだけになってしまう。

 

 我々が生きている現代という時代の混沌さを、著者独特の方法で表現した、なかなか面白い本だった。まあ、あまり深く考えなくとも、迷宮の中を彷徨うような不思議な体験が得られて楽しい。

 

 

 

透明な迷宮 (新潮文庫)

透明な迷宮 (新潮文庫)