遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史[新版]』を読みました。

 

 本書は、昭和の歴史を、政治・経済・文化の諸分野の動きを統一的に把握しながら、14年間の戦争に重点を置いて叙述した史書である。

 第1章「第一次世界大戦後の日本」では、戦争がなぜ起こり、なぜ国民の力が勝利しなかったのかを捉えるべく、大正期まで遡り、当時の国際的/国内的条件が模索される。

 1926年に「昭和」と改元した近代日本は、大きな転換点にさしかかっていた。第一次世界大戦は戦場における軍事力のみならず、それを支える国民総力の供給=「銃後」が勝敗を決める「総力戦」であったが、それゆえに、多くの犠牲を強いられた民衆の不満と反抗を蓄積させ、革命の機運を高めた。一方、日本は、ヨーロッパ諸国がアジア市場から撤退した隙に日本商品を進出させ、戦争を契機とした独占資本主義体制を形成することに成功した。また、1919年ヴェルサイユ講和会議では、中国やアメリカの反対を押し切って山東省の旧ドイツ権益を獲得した。これらのことは、第一に、英・米との政治経済的対立を深めることにつながった。1921年からのワシントン会議では、日本側が防備制限の6割で譲歩したが、国内では節約した費用で戦車・航空隊の整備を進めていた。第二に、中国の民族解放運動と直面することになった。1919年には北京の学生らが山東省に対する日本の要求受け入れに反対する五・四運動が起こった。憲政護憲運動の指導者や民本主義の思想家らは、こうした革命運動に共感を示す一方で、21カ条の要求の際には、列強が争っている状態ではやむを得ない措置だとし、総じて現実と妥協してしまったと述べられる。第三に、大衆の民主主義的要求につながった。1918年のシベリア出兵の後に起きた米騒動は、民衆の力を示すことに成功し、平民宰相の政友会原内閣を出現させたと述べられる。

 第2章「政党政治の危機」では、戦争とファシズムの時代に入るまでの、民政党内閣の政策が破綻する過程が描かれる。中国の国民革命軍の勢力へ抗するためのイギリスとの共同出兵を断った「幣原外交」は、革命軍側の陣営の分裂を生むことに成功した一方、国内では、震災後の金融恐慌の激化と台湾銀行の破産を受け、倒閣を策動する動きが強くなった。幣原外交の軟弱さ故に、中国にある権益が踏みにじられ恐慌を招いたとして、その責任が追及されたのである。そして枢密院を根城にする官僚政治家らを中心に、台湾救済緊急勅令を否決し、若槻内閣を総辞職に追い込んだ。代わる政友会の田中内閣も、革命軍の満州に及ぶ事態を収束すべく、二度にわたる山東出兵に踏み込んだ。しかし、中国の民族運動が持つ底力を認識できておらず、張作霖の爆破事件の背後に軍閥があるのではという疑念は世界に広まった。この事件の後始末や、続くパリ不戦条約における各隊と憲法違反をめぐる問題から、1929年浜口内閣が誕生するが、ロンドン条約天皇統帥権を干犯したとして、首相は右翼少年に狙撃される。また本章では、こうした政治の動きに対応して、民衆側の抵抗の諸相も丹念に描かれる。恐慌のもと大資本の結成が進む一方、労働者への負担は蓄積し、29から30年に渡り相次ぐストライキが起こった。加えて生産力の低い農村への影響も甚大で、小作争議も年々拡大していった。

 第3章では、14年間に渡る大戦争の第一歩となる満州事変と、その後の幾つかの事件の問題が扱われる。ロンドン条約問題等で政府との溝を深めた陸軍は、すでに満州問題の武力解決を図る「満州問題解決方針の大綱」を決定していた。そして1931年関東軍の陰謀により、柳条溝で満鉄の爆破事件が引き起こされ、以後満州占領計画が進行する。32年には関東軍の内面指導下に置かれた傀儡国家である「満州国」が作られた。さらに33年には国際連盟を脱退し、満州事変によって醸し出された国民的興奮の中で、国際的孤立に向かって歩みを始めた。こうした中、国内で軍国主義化の先頭に立ったのは青年将校らであった。しかし、二・二六事件をもって、既存秩序の破壊を通じて蜂起するという形でのファシズム運動は終わり、以後、軍幕僚層を推進力とし、軍部による組織的なファッショ化が推進されると分析される。

 第4章では、日中戦争前後に、軍備が拡張していく様が描かれる。とりわけ1937年に発動された軍需工業動員法を皮切りに国家総動員体制が整備されていく過程は、言論統制や抵抗組織の解体などを伴い、日本のファッショ化が急ピッチで進んでいく歩みを表していた。

 第5章では、第二次近衛内閣が日独伊三国同盟を結んだ1940年から、1945年ポツダム宣言を受諾するまでの、太平洋戦争の歴史が描かれる。「情勢にたいする客観的判断と希望的観測とをとりちがえる常套的な過ち」であった南部仏印への進駐をもって日米交渉は亀裂し、41年12月8日の真珠湾攻撃を行った。また、マレー半島における陸軍の上陸も成功し、イギリス艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈するなど、緒戦は予想外の成功を果たした。しかし、政府・統制部はこの勝利に酔い、戦力の正しい評価を見失い、ミッドウェー作戦での大敗、ガダルカナル島撤退等により、日本軍は態勢を立て直すのが困難になっていった。一方、植民地支配に苦しめられていた東南アジアの諸民族は、各地でゲリラ活動を活発に展開した。また軍隊への動員、軍需工場への流出による農業労働力不足は、深刻な食糧危機をもたらした。初めて「特攻隊」を使ったレイテ戦の敗戦は、太平洋戦線を完全に崩壊させ、44年からは米軍機による無差別都市攻撃が始まり、45年8月には広島と長崎に原爆が投下された。加えて、ソ連の参戦は日本にポツダム宣言受諾へ踏み切らせることになったが、「国体護持」を巡って紛糾し、その間にも空襲の被害は増えていった。

 最終章で特筆すべき点は、まずその前半で、第二次世界大戦の性格を分析している点である。筆者によれば、それは第一に、双方からの反帝国主義戦争だったこと、第二にファシスト諸国の侵略に抵抗する反ファッショ戦争だったこと、最後に被抑圧民族の解放戦争という性格である。この三つの条件が絡み合い、その時々によって流動していたのが先の大戦だったという。

 本書の優れた点の一つは、「はしがき」でも示されているように、戦争へ突入する時代を、政治のみならず、経済や文化の側面にも注目して叙述している点である。とりわけ経済に関して、金融恐慌の裏でカルテル・トラストの結成を通じて大資本の産業支配が進行した様子、また文化に関して、第一次世界大戦後に世界で芽生えた新カント派の理想主義哲学やコスモポリタニズムが、戦争の惨禍を直接経験しなかった日本で、のちに厳しい試練を受けることになるといった指摘は、戦争へ向かうリアルな姿を浮き彫りにしている。さらに、歴史のアクターとして、為政者だけでなく民衆にも焦点を当て、両者がどのように課題を乗り越えていったか描いている点も優れた点だ。一方、最大の限界点は、政治・経済・文化に漏れて「科学」というモメントが欠落している点だろう。日本の敗戦は、科学戦の敗戦でもあったこと、戦時中の科学動員の経験が戦後の高度経済成長を支える人員を要請していたことなどはよく知られている。あるいは、2011年の福島の原発事故は科学技術と資本制が生んだ悲劇であった。昭和史は、現代における科学と社会をめぐる諸問題のルーツを示せる可能性があるが、それらを本書に見いだすことは困難だろう。

 

文献:遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史[新版]』(岩波新書、1959年)

 

昭和史 新版 (岩波新書)

昭和史 新版 (岩波新書)

 

 

佐々木隆治『カール・マルクス』を読みました。

 

 卒研等でなかなか読書が進まず、18日ぶりの更新となりました。

 

 さて、これからマルクスの『資本論』を読んでいこうと思っていて、そのための予習として本書を読みました。知人に良いと勧められて読んだのですが、予想以上に読み応えのあるたいへん濃密な内容の本でした。僕も含めてこれからマルクスを読んでいこうと思っている読者に対して本書は以下の点で優れた入門書であると言えると思います。

 第一に、本書がマルクスの最新の研究の成果を取り入れているということです。筆者はMEGAという新しいマルクス全集の編集にも携わっており、特にこの全集に収録されるマルクスの抜粋ノートに基づき、晩年のエコロジー、共同体論、ジェンダーといった多彩な研究志向を持っていたことなども明らかにされます。

 第二に、これが『資本論』の解説書に止まらず、マルクスの評伝的な要素も含んでいるということです。とりわけ第1章では、初期の若きマルクスの姿が、文献のみならず、父親や友人らとの書簡などの多彩な資料に基づき、彼の思想や私生活の一面を鮮やかに描き出しています。特に、イェニーとの結婚ややエンゲルスとの交流などはマルクスの素顔に迫る上で重要なトピックスでした。

 第三に、『資本論』を読解する上でのキーワードを、段階的に整理し、コンパクトにまとめているという点です。もちろん『資本論』の内容をこの一冊で理解できるはずはなく、実際僕も半分くらいしかわからなかったのですが、何が重要なキーワードなのかといったポイントはざっくりと抑えることができました。それに加えて本書では、『資本論』をいくつかのステップを踏んで順に解説を進めているので、自分はどこまで理解して、今後どこから理解を進めれば良いのかの見通しもつきやすかったです。ちなみに著者の佐々木隆治による『マルクス 資本論』という角川選書の文献も近年出版され、次にそちらに当たってさらに理解を深めようと思っています。

 

 改めて本書の構成をまとめると、第1章では、初期マルクスが文学、哲学から社会科学へと移行していく過程が忠実に辿られ、第2章では、『資本論』を、商品、貨幣、資本、恐慌、資本主義の起源と運命というアングルから、コンパクトにかつ正確に読み説かれていきます。(しかし結構難しい。) そして第3章では、晩年のマルクスの「物質代謝」という思想に注目し、彼がエコロジーや共同体論、そしてジェンダーまで広大な範囲までおよぶ思想を展開していた様が語られます。以下にそれぞれの内容を簡潔にまとめておきます。

 

 第1章を一言で言うと、マルクスの文学、哲学から社会科学への移行ということになると思います。初期マルクスは、「否定の契機」というダイナミックな理性を以って、近代社会=立憲君主制を変革するというヘーゲル哲学のラディカルな側面に注目した青年ヘーゲル派の一人であるブルーノ・バウアーと、現実に生きる感性的人間としての人間から哲学を構築しようとした「ヒューマニズムの哲学」のフォイエルバッハという二人の人物から多大な影響を受けますが、彼らはともに「意識の変革」という啓蒙主義の枠組みにあり、マルクスは次第にそれらを否定的に乗り越えようとしていきます。1843年から『独仏年誌』において発表された二つの論文においては、市民社会における利害衝突と近代国家の二元主義というヘーゲルの枠組みを民主制によって打開するのではなく、市民社会それ自体の分析によって克服されなければならないというビジョンに到達します。さらにその変革の担い手はプロレタリアートであるとし、理念による社会変革という青年ヘーゲル派から脱却していったと言います。その後、『経済学・哲学草稿』で、「疎外された労働」という市民社会における疎外を理論的に把握するベースを確立し、「なぜ、いかにして」疎外が生じているのか、現実的諸関係を分析し、その変革の可能性や条件を明らかにする「社会科学」の方向へと向かっていき、フォイエルバッハの哲学からも離れていきました。

 第2章では、いよいよ『資本論』の解説に入ります。マルクスは資本主義を分析するときに、最初に「商品」に注目しました。商品は資本主義においてこそ全面化するものだからです。商品には使用価値と交換価値という二つの価値がありますが、後者は需要と供給の関係から説明されます。しかし、需供関係が一致している場合の価格の乖離は、より多くの労働が費やされている商品ほど自然価格は大きくなるという「労働価値説」によって説明されます。労働価値説はマルクスが最初に考えた概念ではありませんが、彼は社会の物質的な再生産というシステムから客観的にその「価値」を分析しようとしたところに新規性があるといいます。(労働価値説の自然価格をマルクスは「価値」と呼び、この価値は価格変動の中心点であると説明されるのですが、分かったような分からないようなといった感じです。) 社会の物質的な再生産とは、適切な労働の配分と、生産物の配分がありますが、私的利害に基づいて自由に交換するだけの市場システムがどうしてこの再生産の仕組みを維持できるのかという問いが出てきます。そこで、マルクスは労働を有用労働と抽象的人間的労働という二面性を持つものとして捉え、それぞれの社会的意義を各々商品の使用価値と、商品の「価値」に表すことで、労働の社会的配分を可能にしていると説明されます。ここまではなんとか分かったつもりなのですが、この後の物象化や価値形態論から先は、十分に理解できませんでした。キーワードはなんとなく抑えることができたので、それらをじっくり時間をかけて理解していきたいです。

 第3章は個人的に一番興味深く読んだ章です。マルクスが化学者のリービッヒからインスピレーションを得た「新陳代謝」という概念を、「人間と自然との物質的な循環」という意味で捉え、経済社会の循環活動を説明するアナロジーとして利用したと言います。マルクスは、人間が自然の一部であることを前提に考え、人間が自然との物質代謝を自分の意識的な行為によって媒介し、規制し、制御することこそが労働であると考えていました。これは『経済学・哲学草稿』の疎外された労働とも深くつながるものだと感じました。

 

 と、ここまで長々と書いてきましたが、正直理解は50%くらいです。結論を繰り返すと、本書はマルクス入門として最適な一冊です。内容はそれなりに歯ごたえがありますが、本書から徐々に勉強を深めていくことも容易だと思います。おすすめです。

 

 

 

落合陽一・堀江貴文『10年後の仕事図鑑』を読みました。

 

 人工知能によって、いつ、どんな職業が、どのように、(なぜ)代替されるようになるのか、 また、どんな仕事が新たに生まれるのか?みたいなことの興味があって、本書をよんでみた。

 インターネットやAIといった科学技術の進展によって社会は急速に変化し、21世紀はこれまでの「普通」が、これからの「普通」ではなくなるような激動の時代になっていくという。当然、これまでの働き方の「普通」も、これからの「普通」ではなくなるかもしれない。第2章では、そのような未来においてなくなったり、変わったりするであろう34の仕事が紹介され、続く第3章では、逆に新たに生まれたり、伸びていくであろう12の仕事が紹介される。しかし、読んでみて思ったのは、両者ともにAIを厳密には定義しておらず、コンピュータやロボットと意味が混交している箇所もみられる。だから、僕が最初に気になっていた「AIによって」未来の仕事がどう変わっていくのかという問いには十分答えるものではない。一方見方を変えれば、そもそも特徴量の獲得を自ら行う深層学習を搭載したAIの台頭それ自体には、仕事へのそれほど大きなインパクトはなく、何もAIに限定して議論を進める必要はない、と読み取ることもできると考えることもできる。読み終えた後、今はむしろこの考えに近いスタンスをとるようになったと思う。

 

 さて、タイトルが「仕事図鑑」とあることからもわかるように、本書のメインは2,3章立だろう。そこで、第2章で紹介される職種から、個人的に興味深いと思ったものを紹介して、「それは単純すぎでは」等の突っ込みをしてみたい。

 

 その前に、まず第2章で落合氏が、AI(≒機械)に代替される仕事の判断基準としている基本的な考えを抑えておきたい。落合氏の現代の時代認識は、「あらゆるものに市場原理が働き、働き方が最適化される時代」というもので、別の言い方をすれば、「一人ひとり異なる特性に合わせて、役割が分離し、「専門化」する時代」だという。そして、ここ40-50年間では、「人間対人間」の関係での最適化から、「人間対機械」の関係での最適化へと変化してきたという。そして、その検討材料は「コスト」である。つまり、現在その仕事をしている人に払う給料より、その仕事ができるAIを作るコストの方が大きければ、その仕事は人がすべきということになる。こうした経済的な発想は、僕には馴染みがないものだったが、シンプルで面白いと思った。

 例えば、AIに代替される代表格として、弁護士を挙げているが、それは過去のデータに基づいて判断する仕事が多い弁護士の職務はAIも得意とするということもさることながら、タスクの単純さの割に給料が高いので、AIの代替による最適化がおきやすいといった具合だ。

 他の具体例を紹介すると、機械は嘘をつかないため、営業ロボットは信頼される仕事を行うことができるという診断のもと、これからは「この人なら買ってもいい」と思われるようなお客さんがついている営業職だけが生き残れるようになると予測する。結局必要なのはお金ではなく、信用だというのは本書でもたびたび出てくる言葉だが、そうすると、「この人なら買ってもいい」といった人間に対する信頼関係と、決して嘘をつかない機械に対する信頼関係とは何が違うのだろうといった問いが出てくる。嘘をつかない人はもちろん信頼されるが、それが全てではないだろう。

 それから気になった仕事が、教員だ。本書では、AIを利用すると、個々の生徒に合った個別教育の設計ができるようになり、記述を含んだテストの採点もコンピュータができるようになるが、導入直後は人とのダブルチェックを行うことが予測されるので、コスト上、現段階での導入は難しいとの予測がなされる。これはやや素朴な見方ではないだろうか。教員というのも一枚岩でなく、小学校、中学校、高校、大学に分けて、それぞれの教員の役割を別個に考えるべきだろう。また、学習塾の教員になると変わってくる。個々の生徒に合った個別教育のカリキュラム作成は、学習塾の教員の主な仕事としてならば納得できる。あるいは、進学高の高校教員は全仕事のうち生徒の成績を上げる任務の占める割合は大きいと思うが、小学、中学の教員の仕事は、集団生活における倫理観や規範意識の教育など、もっと重要な仕事があるはずだ。

 また手書き解答の採点業務の機械化も少した止まって考えたい。大学の教員まで含めて、手書きの記述解答の採点が煩雑で「無駄な」仕事かどうかは、その教員の教育スタイルによるところが大きいのではと思う。僕は個別指導塾でアルバイトをしていたことがあるが、生徒が解いてきた手書きの解答を見れば、集中して解いてきたかどうか、あるいは答えを写しているだけかどうか、ある程度の察しがつくし、そこには生徒についての多くの情報が含まれていると思う。それらのチェック作業は機械に代替されるべき無駄なものとは言えないだろう。

 では、研究者はどうだろうか?本書では、研究チームをマネジメントするようなAIができる可能性があると指摘される。アメリカのように研究者の賃金がとても高い国では、研究者の代わりに、研究するAIの開発に賃金を回すという選択肢も考えられるという。したがって、また、ただ研究するだけでなく、いかに社会還元していくかを考え、自ら資金調達できる研究者が望まれるようになるという。自らの研究成果をどう社会に還元できるかを考えることは、AIの議論とは関係なく、とても重要だと思う。しかしそうだとしても、AIが研究職を代替するというのは、個人的には、到底考えられない。生物学専攻の知り合いの方が、確か研究のほとんどは機械的な単純作業で、頭を使って論文に仕立てるのは、ほんの一部だみたいなことを言っていたような気がするが、ひょっとすると、それらの作業の一部は機械に代替される可能性はあるかもしれない。しかし、人間が世界に対してもつ持つ好奇心や、特に人文学系の学問が目指す「価値観」の探求などは、AIなどとは本質的に相容れないような営みだと思う。

 それから、気になったのは翻訳だ。翻訳業も先細っていくに違いなく、「リアルタイムカメラ翻訳」の精度が上がっていくのは、時間の問題だというのが本書の見方。翻訳者として生きていくには、卓越した技術や付加価値、コミュニケーション能力が要求されるようになるという。僕は翻訳という営みを、言語に対する2種類の捉え方から、二つに分けて考えている。(これ自体も特に洗練された考えではなく、簡単なスケッチ程度なものだが、)言語には、コミュニケーション手段と、思考手段の二つの側面があると思う。そして前者として捉えた場合の翻訳業であれば、例えば「リアルタイムカメラ翻訳」みたいなアプリで代替可能だと思う。必要な情報が伝われば、一応コミュニケーションは成立するからだ。しかし、後者としての翻訳は、人間にしかできないと思う。例えば小説の翻訳。小説の中で登場人物がどのように考え、どう行動し、どういった心情に包まれるかを丹念に言語化していく作業は、統計的な言語処理ではなく、やはり作者の思考プロセスをトレースできるような共感力がないと厳しいだろうと思う。思想書の翻訳などはもっと厳しいだろう。

 

 やや抽象的な話になってしまったが、最後に、「あらゆるものに市場原理が働き、働き方が最適化される時代」が本当に良いのか?というラディカルな疑問も投げかける必要もあるだろうと思う。それぞれの能力に応じて適材適所に仕事が最適化され、好きなことをやればそれが仕事になり、社会もうまく回るというのは、仮にそうなるとしても、若干の違和感が残らないとは言えない。

 

 

文献:落合陽一・堀江貴文『10年後の仕事図鑑』(SBクリエイティブ、2018年)

 

10年後の仕事図鑑

10年後の仕事図鑑

 

 

ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』を読みました。

 

 

『Extension du Domaine de la Lutte』 (1994)の邦訳。ウェルベックの処女作で、長らく手に入りづらい状態が続いていたが、最近文庫化された。平野啓一郎がどこかで推薦していて、ずっと興味があったので、この機会に読んでみた。

 

 主人公の「僕」はソフトウェア会社に勤務する30歳。期せずして地方出張を命じれ、同僚のティスランが、恋愛に対して「痛々しい闘争」を繰り広げる様子を、「観察者」の立場から眺める。そこにはなんらのドラマも、ロマンもない。ティスランの醜悪な奮闘ぶりや、乱れきった性の秩序が、淡々と、ときにアイロニカルに述べられる。「僕」はその社会の仕組みを分析するたびに厭世的になり、不幸を生み出す社会に絶望し、鬱になり、最終的には会社を辞めてしまう。「僕」が導いた結論の一つを引用しよう。

「完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。(p126-127)」

 ティスランは完全な敗者だ。物語の終盤、「僕」はダンスパーティーで、彼にある企てを暴露する。それは、性の闘争領域で「勝利」した素晴らしいカップルをステーキナイフで殺害するという計画だった。彼らは、二人のカップルの後を追い、浜辺に行き着く。そして、ティスランに性行為中の2人に襲いかかるように催促する。しかし、彼は計画を実行することはできなかった。それどころか、美しい体に魅了され「マスをかき」、主人公と最後の会話をする。彼はその夜パリへ向かう途中自動車事故で死亡するのである。

 文学作品として、現実社会の一面を切り取り、哲学的な分析を物語にのせて語るスタイルは面白いし、なかなか日本の作家にはみられない小説だと思う。そして、激しい酩酊の中で「性の闘争」に奮闘する輩を観察することに疲弊する一種の倦怠感や、終盤のうつ病が悪化していく心情の描写などは秀逸で、作家の才能を感じることができる。

 しかし、僕はこの小説を好きにはなれないし、作家の「闘争」という視点にも全く賛同できない。そして、全体的に暗い。暗い小説は好きになれない。文学作品としての価値はともかく、一人の読者として、正直に言うと途中で読むのをやめようかとも思ったし、今このタイミングで読みたい小説では全くなかった。だけど、ウェルベック文学は何か重要な問題を提起し続けているだろうし、他の作品も(時間があれば)読んでみようとは思う。

 

 

追記( 9/18)

 恋愛は確かに戦いだ。但し他人との戦いではなく、自分との戦いだろう。

 

文献:ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』(河出文庫、2018年)

 

吉岡斉『科学革命の政治学』を読みました。

 

 

 本書は著者の3冊目の単著で、科学社会学の分野では、前作『科学社会学の構想』に続いて書かれた2冊目の作品である。ここでは、『科学文明の暴走過程』で展開されるジャパニーズ・モデル/アメリカン・モデルといった図式の萌芽も見られ、開放系モデルに基づく分析もより詳しめになされていると感じた。本書の表題は「現代科学の社会史」としても良かったのだが、今日の科学界の運営の仕方が「政治的」になっていること、現代科学が政治権力と密接に関わっていることを強調する意図を込めて、「科学革命の政治学」としたという。

 1-3章では、20世紀の核物理と天文学の発展過程を、顕微鏡と望遠鏡という二つの道具に焦点を当てコンパクトにまとめられる。ここでは科学革命に関する具体的な多くの「データ」が提供される。その上で、4章からは、科学研究のシステム構造に関する分析がなされていく。その中ではしばしば1-3章で見てきた具体例に落とし込んで議論が展開される。そして最後の8章は「科学革命とノーベル賞」と題され、ノーベル賞の社会的インパクトの径路は、現代科学という癌細胞に栄養を注入すること、つまり科学者の大群をラットレースに駆り立て、科学研究野放図な増殖を促進することであると考察される。どれも興味深い章だったが、特に重要だと思われる4章と7章を取り上げて、内容をまとめ、さらに限界点などを考えたい。

 

 第4章 科学研究システムの構造では、専門分野を開放系(オープンシステム)、すなわち取り巻く社会との間に活発な「モノ」と「情報」のやり取りをしている「二元論的」システムとみなす視点が導かれる。すると、科学理論よりも科学活動の方が基本的な分析対象となり、また科学研究の基本的な目標が、システムを定常的に維持すること、さらにそれをスケールアップすることであることが一目瞭然となる。なぜなら、科学の世界では一番手のオリジナルな業績だけが学問的に評価され、同一の生産物を定常的に作り続けることは無意味であるからだ。つまり、科学研究システムにおいては、活発さを維持するためにはオリジナルな情報を過去と同じかそれを上回るペースで算出しなければならず、そのために必要な諸資源は時とともに増大する。さらに、過去と同じ分量のアウトプットを生産するためだけでも、実験装置や観測装置を絶えず大規模で精巧なものへと置き換えていかなければならず、単位情報生産量あたりのコストは上昇する傾向にある。開放系を導入するメリットとしては他に、科学研究においては新陳代謝が不可欠だということがわかり、科学活動と外界とがどのようなルートを介して相互作用するかに関する概念的な見取り図を与えてくれるということもある。その一方、開放系モデルは、「通常科学」を対象にしており、革命期に関しては別途の考察を要すること、および個々の科学理論のダイナミクスを十分に表現しにくいといった盲点も存在すると述べられる。後半では、科学活動の「私有化」という現象に注目される。科学の私有化(privatization)とは、具体的ミッションを担うスポンサーが大規模な研究投資をし、それに伴って専門分野の動向に対して大きな影響力を行使するようになる事態を指す。そして、現代科学の自己増殖性と私有化は、排他的にみえて、実際には持ちつ持たれつの関係にあり、両者が関わりあって数々の社会問題を発生させているという。私有化の進展により、科学のパワーのコントロールに役立つ情報の多くが非公開とされているため、野放しなポワーに対して人間社会が潜在的に行使しうる限定された制御能力でさえ、十分に発揮できなくなっている。つまり、現代科学は悪用や過失によってではなく、そのシステム論的な特性の故に、さまざまな社会問題の発生源になっていると指摘する。

 

 第7章 科学革命と国家権力では、まず科学研究の世界では、国家と革命の関係は密接だという事実が確認される。坂田昌一のいう、政治の論理/科学の論理の図式、つまり科学の健全な発展は、科学的要求にのみ従い、科学者自身によって作られた計画に基づいて可能そなるという考えからすると、科学と政治権力が敵対関係にあるような印象を受ける。確かに、ミクロな視点で見れば互いに対立関係にあるが、よりマクロな視点から見れば、一般市民を排除し二者だけをメンバーとする閉鎖的なサークルの中で、財源分配ゲームに熱中しているのだという。そして科学と国家の蜜月関係が生じたのは、WW2以降であり、それを契機にパトロネージからインベストメントへと性質が変わったのだった。また、1930sの科学者らは一致してファシズムを科学の敵とみなし、また多くの場合共産主義にも同じような脅威を感じていた。その例として、ドイツの「アーリア的物理学」キャンペーンが挙げられる。しかし、イデオロギー的理由による科学者の統制は、特に軍事分野において各国でその後も盛んに行われているという。その例として、オッペンハイマー事件が挙げられる。彼は、ロスアラモス原始兵器研究所の所長として、原爆製造に大きな役割を果たし、戦後、AECの一般諮問委員会GACの委員長の要職を務め、アメリ原子力政策に大きな影響力を行使した。しかし、1949年のソ連の原爆実験の成功を受け、トルーマン政権は1950年に水爆計画にゴーサインを出す。そしてAECは54年、オッペンハイマーに国家機密に関与する権限を剥奪する評決を下す。理由としては、(1)過去に共産主義者の知人と度々接触していたこと、

(2)水爆開発に反対の態度をとったことがあると言われる。この事件は、政治権力が国益という大義名分を振りかざし、気にそぐわない科学者らを恣意的に排除したケースとみなされた。しかし、著者によると、オッペンハイマーの実像は大きく異なっていた。第一に、水爆開発を否認した背景には、世界中の反感を招き、アメリカの国益を損なうだろうという配慮と、そうした兵器は当面アメリカの酷寒安全保障にとっては必要無いという判断があった点。第二に、 一般諮問委員会答申の中には、戦術核兵器の開発を強化すべきという項目があった点である。その後、アメリカの水爆開発計画は順調に進められ、1952年には最初の水爆実験に成功した。その後の米ソを中心とする核軍拡競争のポイントとして、以下の2点を挙げる。(1)核弾頭と運搬手段の双方の領域で展開され、それにより核戦力は不可逆的な増強を続けてきた。(2)開発競争をリードしてきたのは、アメリカ(ex ICBMや SDI戦略)であったことである。そしてその背景には、現代科学と現代技術の自己増殖性があると述べられる。

 

文献:吉岡斉『科学革命の政治学』(中公新書、1987年)

 

科学革命の政治学―科学からみた現代史 (中公新書)

科学革命の政治学―科学からみた現代史 (中公新書)

 

 

内田樹・石川康宏『若者よ、マルクスを読もう』を読みました。

 

 内田氏、石川氏との往復書簡形式で、『共産党宣言』、『ユダヤ人問題によせて』、『ヘーゲル法哲学批判序説』『経済学・哲学草稿』、『ドイツ・イデオロギー』のそれぞれの「聞かせどころ」を紹介するといった本。

 内田樹曰く、マルクスを読むというのは、何か「正しいこと」を学ぶための「勉強」ではなく、日常的な思考の枠を超えて「切迫してくるもの」に圧倒される経験で、それはちょうど天才作曲家の音楽を聴いたりするのと同じ経験だと言います。このような書いているくらいなので、内田氏はマルクスのテクストを「精読」するみたいなことにはあまり関心がないようで、石川氏の「真っ向な」解説の後で、内田流のより噛み砕いた形で解釈されるといった構成になっています。確かに、石川氏の解説がマルクス研究者らしい読解だと思いますが、結局何が言いたいのかよくわからないところはあります。それを内田流解釈で、肉感的に分かるように示されるというスタイルになっているので、面白く読めました。

 例えば、『ドイツ・イデオロギー』で解明される「史的唯物論」を、内田氏はこう説明します。根っこから邪悪な人間がいるとして、その人がたまたま老人に席を譲るなどの善行をしたとします。史的唯物論的にはその人は「いい人」ということになる、なぜなら「本当は何者であるか」という本質的な条件は極端な話どうでもよく、その人が「何を生産し、いかに生産するか」によってその人間が決定されるからだ、と。正確には善行は生産ではないというエクスキューズ付きですが、なるほどなあと思いました。(ついでに、そこからさらに話が展開し、「自分のことを善良で有徳な人間であると思い込んでいる人のほうがむしろ卑劣な行為や利己的な行為をすることをためらわない」ことに気づいたといった暴走が始まり、面白いです。) それから「類的存在」を、「公私が文字通り一つになった状態」と解釈している点も面白かったです。

 

文献:内田樹石川康宏『若者よ、マルクスを読もう』(角川ソフィア文庫、2013年)

 

 

吉岡斉『科学文明の暴走過程』を読みました。

 

 

  本書の主題は、「科学技術体制」(=研究開発活動のマクロの推進メカニズム)の構造に関する一般理論の骨子を示すことにあり、科学技術社会学の分野におけるやがて書かれるであろう『資本論』の基本的筋書きを示すものであると書かれている。(実際、その『資本論』に相当する書物がかかれたのかどうかはわからない。) 感想を一言で言うと、もっとはやい段階で読むべきだったということに尽きます。以下では、内容をやや丁寧に追っていきたい。

 

 第1章 科学技術構造学の考え方では、研究開発体制の標準である研究機関の基本モデルである「開放系」モデルが提示される。が、その前に科学技術社会学における基礎概念が整理される。まず、科学技術とは、(1)情報という形で表現される知識・テクニックの体系、(2)自然界に対する人間の認識・製作行為、(3)人間集団が営む社会活動という3つのモメントの複合体であるとした上で、科学技術社会学では(3)の社会制度としてのモメントの分析を主目的とする研究の総称であると定義される。そしてその最も基本的なコンセプトは科学技術の「制度化」である。それは、「研究開発を専門的に行う組織体(システム)が社会に中に作られ、それらは定常的に維持されるようになる状態」と定義される。吉岡の定義は、バナールの「制度化=職業専門化」とする定義よりも広い、より一般的な形で定義したものである。なぜなら、今日の科学者は、伝統的古典的プロフェッションとは大きく異なり、普通の被雇用者と同じ生活を営んでいるからである。制度化は19世紀後半から生じ、20世紀に入ると「体制化」という特有の現象が生じた。続いて、科学技術を、国営科学とコーポレート科学、そして民間科学と分類し、さらに、国営科学を(1)国策科学、(2)公共科学に分ける。国策科学とは、軍が出資する軍事科学と、それ以外の政府機関が出資する戦略科学から成る。そして、公共科学とは、経済的・社会活動のインフラ整備や公共サービスなどの行政目的とした公益科学と、科学技術活動のインフラの整備を目的とするアカデミズム科学から成る。制度化された組織単位で標準的なものは研究機関であるが、それは「開放系」モデルで表現される。それは、資源(ヒト、モノ、カネ)と情報の双方の流れが交錯する二元論的な構造をし、その観点からすると、制度化の本質とは、「研究のために必要なモノと情報を定常的に供給し変換し続ける仕組みがつくられ、その仕組みが十分に高い安定性をもつこと」となる。つまり、システム自体を定常的に維持すること、それを準定常的に拡張することが科学研究の制度的目的なのであり、「真理探究」はあくまでその機能にすぎないことが指摘される。さて、単位情報生産量あたりのコストは一般的にどんどん上昇するゆえ、科学研究システムは強い自己増殖志向をもつことになる。吉岡は、これを「癌細胞」というアナロジーで表現する。ここでは、出資額の成長率成長率もまた大きいことが不可欠であり、これは資本の動特性と類似していると述べられる。つまり、科学も資本も自己増殖を制度目標とする法人組織であり、自己増殖にとっての不可欠の必要条件として、新しい生産物を不断に作り出すか、既成の生産物の生産工程の合理化・効率化を達成しなければならず、不断のイノベーションを推進しなければならないのである。ところで、この開放系モデルには、システム内部の機構において、資源や情報が流れる仕組みである内部構造と、システムと外界とを結びつける機構において、資源および情報が流れる仕組みである連結構造とに分かれ、その2つの複合体としての性質について、体系的な見取り図を立ちえることが科学技術構造学の基本的な課題であると述べられる。つまり、科学技術構造学とは、「科学技術を一種の情報生産システムとみなし、その「開放系」としての構造と動特性とを、社会科学的な視点から体系的に究明するための学問」と定義され、(1)情報と資源のインプット過程における科学と社会の関わりの構造分析、(2)科学活動の基本的ユニット内部での情報・資源変換過程がいかに編成されるかの構造分析、(3)情報と資源のアウトプット過程における科学と社会の関わりの構造分析を行うことがその任務とされる。それは、個々の研究開発ユニットが基本的な構造分析のユニットとするミクロ構造学と、国家単位の科学技術体制を対象とするマクロ構造学に分けられる。科学研究のシステム論的健全さとは、「価値」の高い科学技術情報を大量かつ効率的に生み出すことを意味する。マクロな見地からは、研究機関の接触的な新陳代謝を円滑に行いつつ、研究活動全体の規模を順調に拡大させていくような状態が「健全」である。科学技術は研究当事者の利益のために推進されているため、公益に貢献することは、技術開発の副産物である。したがって一般人にとっては、システム論的に健全な科学は、「歓迎すべきもの」ではない可能性があると指摘する。さて、こうした科学技術構造学の視点からすると、「科学者の社会的責任」は、ここの科学者のモラルの問題ではなく、科学研究システムの制度的構造の問題であることが導かれると言う。「高いモラルは科学者として社会的に尊敬されるための十分条件ではない。」と、筆者は言う。強烈だが、非常に重要な指摘に違いない。

 

 続く第2章では、アカデミズム科学について、詳しく分析される。吉岡は、まず、科学史家に広く共有されている「基本形・変異形図式」の問題点を明らかにするところから始める。それはすなわち、教育界に創設された研究体制(アカデミズム科学)が、科学研究システムの「基本形」をなし、官界・三業界で整備されていった研究体制(国策科学とコーポレート科学)はその「変異形」に当たるとする見方である。それは3つの点で誤りであるという。第一に、アカデミズム科学からマンパワーと知識のストックが供給され、国策・コーポレート科学が生まれたのではなく、正確には、実用的業務に教育界で専門的訓練を受けたマンパワーが進出し、研究専門の組織体が作られることにより、従来のそれが「科学化」されていったという点。第二に、基本形であるアカデミズム科学の制度的目標こそが「健全」なものであるという謝りに陥りやすく、それは相対化されなければならないという点。最後に、すでにアカデミズム科学は現代科学技術全体の中での主流の地位を、国策科学やコーポレート科学に譲っており、アカデミズム科学は傍流なのであるから、それを基本形とすることは大きくバランスを欠くという点である。ここで、筆者は、なぜアカデミズム科学に対して今日の先進国が例外なくかなり巨額の研究費を出資しつづけているのか、そこにいかなる政策合理性が存在するかと問題を立てる。

 アカデミズム科学は、研究機関の運営上のオートノミーが親機関により制度的に保障されており、かつ構成員である個人の行動も自律的であるという「二重のオートノミー」が認められた科学であることが特徴であるという。オートノミーであるというのは、組織体がその内部運営に際して、「資源配分権」、「情報管理権」、「人事権」を独占的に保有し、それらを外部勢力に分与しない状態のことだ。アカデミズム科学においては、情報管理権は、レフェリーシステムを持った地球大の専門学界が掌握しており、資源配分権と人事権は、研究機関と親機関が掌握している。ところで、専門学界はインターナショナルな性格をもつのに対し、研究機関はナショナルな性格をもち、この意味において、科学技術の推進機構は一般に、専門学界と研究機関という互いにかなり性格を異にするに種類の組織単位の「複合体」であるということができる。そして、アカデミズム科学の場合、前者の方が主要な役割を果たしている。すなわち、資源配分権は、専門学界の主要メンバーからなる委員会が決定権を行使し、人事権も専門学界が研究業績の評価の主たる担い手である。しかし、研究機関側の決定権が全面的に譲渡されているわけではない。アカデミズム科学は、財源を全面的に外界に依存せざるを得ないゆえに外界からの干渉を受けやすいのである。まとめると、アカデミズム科学は二重のオートノミーが相当程度許容されてはいるが、それ以外の点ではコーポレート科学と同様の性質をもつとされる。

 さて、アカデミズム科学の性質をここまで分析した上で、いよいよなぜ主要先進国はアカデミズム科学の育成に巨額の予算を投入し続けてきたのかという問いが考察される。それは以下の4つの理由による。第一に、国策・コーポレート科学のインフラとして、相当程度の規模のアカデミズム科学を育成することが不可欠であるという信念を、政府が持ち続けてきたという理由がある。分かりやすくいえば、国策・コーポレート科学は基本的に情報の秘匿を基本とするので、その比率が大きくなっていくと、公開メディアを流れる情報はそれにともない減少することになる。すると、私有化科学は十分に強大な公開情報インフラストラクチャなくしては、発展を大きく阻害されることになる。したがって公開を原則とするアカデミズム科学が、それらを維持するために不可欠になる。第二に、アカデミズム科学者の情報媒介機能を利用して外国のアカデミック研究を無料で入手して、自国につなげるためである。そのためには、自国のアカデミズム科学を育成しておく必要が有る。第三に、人材養成機能と、御用学者集団(=ニュートラルな意味)の養成のために大学という特殊な機関を維持するためである。最後に、アカデミズム科学への出資は、それ自体が官庁の縄張りとしての意味をもつからである。言い方を変えれば、アカデミズム科学への出資の削減は、出資官庁の縄張りの縮小を意味する。以上の理由により、先進国はアカデミズム科学への出資を続けるのだと分析される。

 さて、こうしたアカデミズム科学はラベッツに代表されるように、WW2以降、科学の産業化の進展につれて、学問的に頽落していったと考えられている。こうした「アカデミズム再生論」の問題を、吉岡はこう指摘する。すなわち、(1)アカデミズム科学は科学技術体制の周辺部にあるものであり、国策・コーポレート科学に対する批判論をどう構築するかが、現代科学技術批判の根本問題であるが、それを素通りしてアカデミズム科学の創造性・革命性を唱えても周辺部に対する批判に止まるということ、(2)アカデミズム科学の創造性・革命性が、全社会的に見て好ましい結果をもたらす保障はなく、むしろ、アカデミズム科学の創造性の高揚は、政治経済体制の指導者らが強く求めていることであり、アカデミズム科学再生論はそれと唱和するという指摘である。

 

 第3章では、現代科学技術の暴走メカニズムが明らかにされる。ここで、著者は、「科学技術のフィードバック・モデル」を提示する。それは、「政治経済ユニット(下部構造)は、研究開発ユニット(上部構造)に対して、不断の資源と情報のインプットを投入する。その結果生み出されるアウトプットとしての科学技術情報はただちに政治経済ユニットに還流し、その活動状態を変化させる」というモデルである。重要なことは、研究投資の充実が研究成果の増大をもたらし、それが親機関の維持・発展に大きく貢献し、それに味をしめた親機関が研究投資のさらなる充実を図るという正のフィードバックが形成されるという点だという。したがって、資本を同様、科学技術とは自己増殖する情報の運動体であり、研究開発システムは、情報の自己増殖を主たる目的因とする制度であることが主張される。そして、それを可能にしているのは、近代科学技術に特有な実験的・数量的な方法である。

 

 第4章の前半では、まず、体制構造に関して重要な二つの理想型が提示される。一つはアメリカン・モデルで、いまひとつはジャパニーズ・モデルである。前者は、国家本位、軍事中心、官産独立を特徴とする。最後の官産独立は、政府の営利追求への援助はタブー視されてきたことをいう。一方後者は、産業本位、経済中心、官産協調を特徴とする体制である。これは、自立的なものではなく、米ソ冷戦を基調とする戦後体制の特殊地帯にできた軍事的エアポケットの中で成長してきたものである。WW2終了までの日本の科学技術体制は「軍事中心」「官産協調」だった。それが、敗戦をきっかけに「相転移」した。

 しかし、と筆者は続ける。大事なことは、基本理念は戦中・戦後は本質的に地続きであるということ、すなわち「列強主義テクノナショナリズムイデオロギー」においては、戦後も連続しているのであり、戦後、自らの「浅学無知」を「反省」した日本の科学者らは敗戦とともに軍事技術から産業技術へと「転進」をはかり、そちらで米・英に対するもうひとつの「科学戦」を展開してきたと述べられる。

 さて、政治経済体制のテクノロジー化=科学技術の体制化は、日本においては、大戦勃発を契機に輸入資源が途絶えたことを背景に、1910年代後半に姿を現し始めた。1917年理研1921年東大航空研究所などの例がある。同時に、テクノミリタリズムも出現する。1915年海軍技術本部、1919年陸軍技術本部、陸軍科学研究所、1923年海軍技術研究所設立があげられ、軍事科学技術の研究体制が整備されていった。そして、1920s以降にあらわれた新しい流れとしては、「植民地科学」であり、台湾に研究機関・調査機関が次々と設置し始められる。1930sに入ると、日本の科学技術体制の画期的強化が図られ、1938年以降、体制の充実が急ピッチで進む。38年、企画院が国家総動員法を成立させることでひとつのピークを迎える。企画院は動員のイニシアチブをとっていたと言われるが、実際には陸海軍を始めとする多くの機関がそれぞれ自主的に科学技術動員を進めたと考えられるという。著者はこれらの動きに対し、全体としてのまとまりがなく、一貫したポリシーがなく場当たり的だったゆえ、著しく非効率なものになったと、指摘する。

 

 第5章 現代科学技術批判の哲学では、まず広重理論の意義と限界が考察される。広重科学史は、(1)近代物理学の学説史・思想史と(2)近代科学技術体制史に分かれるが、体制化された科学の異様なあり方を浮き彫りにするための対象枠として、旧アカデミズム科学の学説史・思想史の解明に精魂を傾けたのであり、体制化された現代科学への批判という問題意識を背景に持っていたという意味で、二つの研究は「統一」されていたと評価する。広重理論の問題点は、以下の4つであるという。(1)本格的な構造分析の欠如、(2)科学技術の反人間性に関する理論分析の欠如ならびに、それに起因する科学技術体制変革のビジョンの欠如、(3)近代日本の科学技術に対する敗戦前と敗戦後を串刺しにする統一的な批判の視点の欠如、(4)科学技術体制のライフサイクルへの洞察の欠如である。つまり、広重の主たる関心は、科学技術の発展が軍国主義帝国主義的な政治経済体制の強化過程の不可欠の一貫として進められたことを示すことで、啓蒙主義的な科学技術観を打破することだったのだという。 

 後半では、著者の現代科学技術の変革についてのアイデアが展開される。まず、オルタナティブな科学技術体制に関する構想を、科学技術体制論の枠内で展開することはほとんど無意味であるとする。それは、政治経済体制論の次元において展開されなければならないし、科学技術体制の新しいあり方に関するビジョンは、政治経済体制のビジョンからいわば「演繹」される形をとることになるだろうという。その上で、筆者は、オルタナティブな政治経済体制について体系的な青写真をもっていないが、「社会主義」ビジョンの再構築という発想法で、この問題にアプローチできるのではないかと考える。従来のマルクス主義者が生産力主義の立場をとり、生産力発展を社会主義の主要なメリットの一つとみなしてきたのに対し、筆者は反対に生産力の抑制をオルタナティブ社会主義の主要なメリットの一つであると捉えている。大事な点は、生産力抑制は必ずしも人間的欲求を抑圧するということを意味しないことである。

 

 とここまで途中省略しつつ、ざっくりと要約してみたが、未だ充分な理解に達したとは言えない。そして何より、この論考をどう自分に引きつけるかをしっかり考えなければならない。さしあたって、戦時動員に関して言えば、「日本の科学技術動員の全体像についての鳥瞰図を作成し、また同時に科学技術動員のパフォーマンスと効率性に関して体系的な評価枠組みを作成し、この両者に基づいて日本と諸外国の科学技術動員に関する本格的な比較研究を実施することなくしては、「失敗」を説得的に論証することはできない。」と述べられるが、この大きな観点は常に持ち続けたい。そして、吉岡氏が現代の科学技術体制をどう捉えて、どう変革しようとしていったのかを考えるべく、引き続き読み続けていきたい。

 

追記(9/15)

 

 僕自身が感じた『暴走過程』の限界点についても、少しメモしておきます。まず、開放系モデルについて、「生存と成長」こそが、科学研究の制度的な目標であって、「システムを定常的に維持するだけのためにも、研究費は不断の増額する(p22)」とあります。単位情報生産量あたりのコストは一般的に時とともに上昇するというのは、研究者や親機関の出資者からすれば当然のことかもしれませんが、実際どうなんでしょうか?自己増殖傾向を持ち、癌細胞のように振る舞う研究機関の具体的な姿が、実証的には示されていないので、抽象的なモデルを提示するレベルで終わっている点が一つ限界点としてあるように思いました。そもそも本書自体がやがて書かれるはずだった『資本論』の「基本的筋書き」を示したものである以上、実証的な分析にふみこまなかったのは当然といえば当然ですが、その点はのちに分析されるべきだと思います。歴史研究もそうですが、こうしたSTSの研究においても実証的な分析は重要だと思います。(どんな形でできるかは全くわかりませんが。)

 もう一つは、本書では、研究開発機関を資本とのアナロジーで捉えていると思いますが、本当に単なるアナロジーなのか疑問です。というもの、例えば原発に見られるように、資本制の中に科学技術が取り込まれているとするならば、それはアナロジーではなく、実際に資本主義と科学技術が協働していると見るべきだと思います。この辺りはまだ整理できていないのですが、いずれにせよ、資本主義と科学技術の関係については、もう少し踏み込んだ議論が必要だと感じました。

 

文献:吉岡斉『科学文明の暴走過程』(海鳴社、1991年)

 

科学文明の暴走過程 (叢書:技術文明を考える)

科学文明の暴走過程 (叢書:技術文明を考える)