マイケル・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由』を読みました。

Michael J. Sandel『The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering 』の邦訳です。

きっかけ:エンハンスメントに対して、自分の立場を明確にしたい。

良い点:とても面白い。緻密な論理、慎重な言葉の選択など、優れた議論を展開している。訳、解説も素晴らしい。

悪い点:(個人的には)少し難しいところがあった。(悪い点ではない。)

評価:A

その他メモ:本書は、エンハンスメントに対する「慎重派」の代表的な著作。

 

サンデルの議論の要点

:エンハンスメントに対して、根拠を持って批判することは難しい。エンハンスメントの倫理に取り組むには、ほとんど見失われてしまった問題である、自然の道徳的地位や、所与の世界に対する人間の適切な姿勢にかんする問題へと立ち返る必要がある。それは、「生の被贈与性(giftedness of life)」を承認することである。それは、一種の宗教的な性格を持つが、謙虚・責任・連帯といった宗教を超えた共感を持つ。

 

 第1章では、筋肉増強、記憶力増強、身長アップ、性選択という四つの事例を通じて、各々のエンハンスメントに対する一般的な反論をさらに反論することで、問題の本質を明らかにしている。

 IOCやスポーツリーグは、遺伝子増強に伴うリスクが無視できるほど小さくなった場合、エンハンスメントされたアスリートを、どのような根拠に基づいて禁止すべきだろうか。それには、不公平な仕方で優位を得ていることが不正であるという反論が考えられる。しかし、一部のスポーツ選手は、他のアスリートよりも才能に恵まれており、かつそれは遺伝的にそうであるということは、珍しいことではない。にもかかわらず、それはスポーツの公平性を台無しにするとは考えられない。

 「cognitive enhancer」といった認知能力を高める薬は、アルツハイマー認知症に苦しむ人々をターゲットにして開発されたが、同時に、医療外の目的で利用することもできる。例えば、記憶の詰め込み作業に追われた弁護士もこの薬を利用することができる。記憶のエンハンスメントには、人間には忘れた方が良い記憶もたくさんあるのでは、といった反論が考えられる。しかし、逆に、記憶が刻み込まれずにすむ薬が使えるようになるのも時間の問題である。第二に、(記憶に限らず)エンハンスメントにアクセスできる人と、できない人とで二つの社会階層に分かれてしまうことが問題だという批判がある。しかし、アクセス権にかんする危惧は、エンハンスメントそれ自体の道徳的な地位をめぐる問題から目をそらすことになる。根本的な問題は、エンハンスメントへの平等なアクセス権をどう保障するかということではなく、そもそも私たちはエンハンスメントを追い求めるべきかどうかということである。 

 人成長ホルモンを注入することで身長をアップさせる技術は、ホルモン欠乏症の子どもに限定していれば治療だが、それは一種の美容内科として、治療外の目的でも使用される。身長のエンハンスメントに対しては、それがホルモンの軍拡競争を導くことが問題だという批判がある。しかし、そこでは人々を身長アップの衝動へと駆り立てる態度や性向が不問に付されたままである。公的資金を用いた身長アップが提供されれば、そうした不公平が是正されてしまう。

 遺伝的奇形を発見すべく開発された医療技術は、性選択の方法として用いることができる。着床前遺伝子診断(PGO)では、中絶をすることなく、親の望ましくない遺伝的形質を持った胚をより分けるために、利用されるかもしれない。性選択に対しては、生命尊重派による批判、すなわち、ペトリ皿で育った八細胞期の胚は、成長した人間と同等の道徳的地位が認められるのであり、胚を破棄することは中絶をすることと同じくらい悪いという主張がある。しかしこの反論はあらゆる形態の胚の選択に該当し、その矛先は遺伝性性疾患の選択を目的にしたPGDの利用にまで向けられる。つまり、性選択(という治療外の目的とした利用)それ自体に、何か不正な事柄が見出されるかという問題は残ってしまう。また、性選択は性差別装置に他ならないとする反論がある。ならば、家庭内の男女比の不均等を是正するために、子どもの性選択を望むカップルに対してのみ提供されるとしたらどうだろうか。

 以上より、問題は、遺伝子工学が人間の尊厳をどのようにしてすり減らそうとしているのかを明確に述べることだと、筆者は主張する。

 

 第2章では、スポーツゲームという枠組みにおける、エンハンスメントされたサイボーグ選手の例を通じて、その倫理的問題が考察される。またこの章では、重要な概念が提示されている。

 エンハンスメントが人間性を脅かすのは、それが人間らしい主体性を脅かすからである。つまり、サイボーグ選手の達成は彼の達成ではなく、彼を作り出した人間の達成となる。さらに深刻な問題は、それらが一種の超行為主体性(hyperagency)、すなわち、「人間本性も含めた自然を作り出し、われわれの用途に役立て、われわれの欲求を満たしたいという、プロメテウス的な熱情の現われとなっていることにある」という。そうした支配への欲望は、「生の被贈与性(giftedness of life)」を破壊する。生の被贈与性を承認するということは、我々が自らの才能や能力の発達や行使のために、どれだけ労力を払ったとしても、それは完全には我々自身の行いに由来していなければ、完全に我々自身のものでもないことを承認することである。それは部分的には宗教的性格を持つ。しかしそれは宗教を超えたところに到達し、共感を呼ぶものだと述べる。

 

 第3章では、子どもの形質の選択という切り口から議論される。我々は配偶者や友を選ぶときには、魅力的な性質に基づいて選択が行われるという側面も少なくない。しかし、子どもの性質は予測不可能であり、親がどれほど周到に事を進めても、どんな子どもなのかについて、完全に責任を取ることはできない。だからこそ、子どもの親であることは、他のどのような人間関係よりも「招からざるものへの寛大さ(openness to the unbidden)」(神学者メイの言葉)を教えてくれる。この言葉が意味しているのは、支配や制御への衝動を抑制し、贈られものとしての生という感覚を呼び覚ますような、人柄や心持ちである。エンハンスメントの問題の所在は、設計をおこなう親の傲慢さ、生誕の神秘を支配しようとする親の衝動のうちに認められる。しかし、筆者は、そのことは病気や疾患を起こるがままに受け入れることとは異なるとし、治療とエンハンスメントの違いを明確にしようと試みる。

 何が健康とみなされるのかについては、様々な議論がある。(聾は病気なのか、アイデンティティーなのかなど。) しかし、医療の要点は、健康の増進や疾病の治療にあるという前提を出発点にしていることで、その実践は目的によって制約され、方向付けられる。一方子どもの病気を治療するという親の義務の中には、人生の成功の可能性が最大限に高めるように、健康な子どもをエンハンスメントする義務も含まれるという見方がある。しかし、その場合、健康を「道具的な価値」とみなし、他のものを最大化する資源とみなしている。だが健康は本来、人間として開花するための一つの構成要素である。そして、健康は最大化できるものではない。だからこそ子どもの健康を追い求めることは、際限なき軍拡競争へと巻き込まれることはない。確かに、歯の美容矯正など、治療とエンハンスメントの境界に位置する曖昧なケースも存在する。しかしだからといってそのことは、線引きが重要である理由までが曖昧になることを意味しない。

 また、子どもを教育や訓練によって支援することと、遺伝子増強をもちいて支援することの間には、どのような違いがあるかについて考察される。結論からいうと、道徳的な観点からは、両者に見かけほどの重要な違いはない。今日巷に溢れている親の過干渉が表しているのは、贈られものとしての生という感覚を見失った支配の統御の、過剰さである。

 

 第4章では、「リベラル優生学」への批判が展開される。エンハンスメントの擁護者は、デザイナーチルドレンの探求は「自由市場」優生学で、強制されていない自由な遺伝子の選択は優生学とは別物であり、それは旧来の優生学とは異なると主張する。サンデルはそうしたリベラルな優生学に対しても批判を加える。(が、その論拠はいまいち理解できなかった。)

 

 第5章では、生の被贈与性が、具体的にどのような宗教を超えた共感性を持つのかについて論じられる。宗教的観点からは、才能や能力が完全に自分自身の行いに由来しているという考えは、天地創造の中の人間の立ち位置を誤解し、人間の役割と神の役割を混合しているという批判が成り立つ。しかし、生の被贈与性に対する謝意が蝕まれることは、それ以上に、道徳の輪郭を形作る謙虚、責任、連帯に変容がもたらされると、筆者は述べる。

 まず親は、望み通りの子を選ぶことができないが故に、招かれざるものへの寛容さを教えられるのだが、それはより広範な場面で、不測の事態や不和を耐え忍び、制御への抑制を抑え込む謙虚さを学ぶことができる。そして次に、エンハンスメントが拡大すると、多くの物事を偶然のせいではなく選択のせいにするようになることで、選ぶ/選ばないということに対して責任を負うようになる。自らに備わるパフォーマンスや才能を支配することができればできるほど、それへの責任が増大する。例えば、興奮剤などを摂らないでプレーする選手は、「丸腰でプレーしている」として非難の対象になる。さらに出生前診断においては、例えばダウン症などの遺伝的障害を持つ子どもを産むか産まないかという責任が生じ、仮に生んだ親には周囲からの批判や、自責の念を感じるようになるだろう。サンデルはさらに、そのことは連帯の感覚をも蝕んでいくと指摘している。結局のところ、成功者はなぜ社会の最も恵まれない人に対して何らかの責任を負わなければならないのかに対する答えは、成功は完全に自分の行いではなく、遺伝上の巡り合わせという偶然性に依拠しているからである。人々はいつ病気に襲われるからわからないからこそ、保険に加入しリスクを負担し合う。結果としてみれば、そこには相互扶助がなりなっている。しかし、遺伝子診断が進歩し、各人の病気の予測や余命を正確に弾き出すことができるようになれば、健康に自身のある人はリスク相互扶助から降りるという選択をし、残りの人の保険料は飛躍的に上がる。実際、保険会社がリスク査定のために遺伝情報を利用するのではないかとい懸念から、健康保険上の遺伝子差別を禁止する法案が、アメリカで可決された。 

 エピローグでは、幹細胞論争を取り上げ、胚の倫理について議論されるが、エンハンスメントとは少し論点がずれるので、ここでは取り上げない。

 

【議論】  

 

 さてここからは、サンデルの議論をうけて、私自身がエンハンスメントに対してどう考えるかについて論じてみたい。

 まず、私は本書を読む前から、エンハンスメントに対して違和感を感じるし、不安も感じていた。エンハンスメントを推進すべきだとは思わない。しかし、サンデルも指摘しているように、その違和感や不安を明確にすることは難しく、またエンハンスメントに根拠をもって批判することはさらに難しい。サンデルの行き着いた、贈り物としての生という感覚、生の被贈与性の感覚を蝕むという問題は、とても大きいし、それ自体は素晴らしい考えだ。しかし、それは根本的であると同時に抽象的でもあり、それだけでは完全にエンハンスメントを批判することができるのかどうか疑問で、限界点もあると思う。結論を先にいうと、エンハンスメントにも様々なレベルがあり、生の被贈与性の感覚を必ずしも蝕むとは考えられないタイプについて、批判できないケースもあると私は思う。以下、順にそれを論じる。

 まず、「エンハンスメント」は、かなり広い概念なので、最初に大きく(1)自分に対して施す場合と(2)自分の子どもなどの他人に施す場合(他人とは多くの場合、子どもだと思われる)に分けて考えると良いと思う。(2)の他人施す場合について、違和感を明確にすることができる。つまり、自分の子どもの形質に対して何らかの選択をすることは、こうあってほしいという親の願いを子どもに託し、子どもに強いられた道を歩ませることにもなりかねないという点が、問題である。仮に、自分は男に生まれたのは、両親が何らかの理由で(例えば自営の後継に必要であるから)男が良くて、性選択したということを知ったとき、何か自分の人生が特定の方向に強いられているという感じは否定できないと思う。これは出生前に限らず、生まれた後においてのエンハンスメントでも同様に当てはまると思う。自分の人生の選択する権利を侵害するという点で、大きな問題がある。

 しかし、この「自由」による批判は(1)にはあたらない。そこで、(1)については、まず、何かルールや規範が与えられた競争やゲームといった枠内におけるエンハンスメントと、そうでない一般的なエンハンスメントに分けて考えると良いと思う。ゲームや試験については、やみくもに「公平性」に訴えるのではなく、(第2章で議論されるように)それがゲームや競争の要点や本質を損なうかどうかに注目する必要がある。例えば、スポーツの場合、観戦者はパフォーマンスの卓越性を楽しむだけではなく、やはりアスリートの努力の発揮や、苦難を乗り越えたドラマ、あるいは人間的なプレーなどを味わうという側面もある。エンハンスメントによると、こうしたスポーツの本質が損なわれると思う。あるいは、入試という「競争」の枠を考えた場合、入試の要点は、受験者の本当の能力を測るということと、公平な場で各々の努力の成果を発揮すること、などが考えられるが、これらもエンハンスメントによって損なわれるだろう。問題は(2)の、特定の競争やゲームの枠外でのエンハンスメントの事例だと思う。例えばアイドルを夢見ている少女が、その自己実現のために美容整形をすることは認められるだろうか。また、背が低いことをコンプレックスに感じている男性が、慎重アップの成長ホルモンを注入することは認められるだろうか。そして、これらはサンデルのいう「生の被贈与性」の感覚を蝕んでいるだろうか。ここで、問題になるのは、どの程度のエンハンスメントであれば、「生の被贈与性」の感覚を蝕み、謙虚・責任・連帯といったモラルが変容するかが曖昧であるという点であると思う。それは(1)についても言え、例えば、試験前にコーヒーを飲んで集中力を高めることはエンハンスメントになり、認められないことなのだろうか。

 

【感想】 

 ・デザイナーベビーなど、科学的な知見から、将来本当に可能なのかどうかそれ自体を明確にすることも大事だと思った。

 ・エンハンスメントではないが、出征前診断で、仮にダウン症などの遺伝的奇形を持っていることが判明した場合、その胎児を破棄することと、「生の被贈与性」との関係はどうなるのかなどについては、本書ではあまり議論されていなかったと思う。

 ・許容派の著作も読んでみたい。

 

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

 

 

 

The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering

The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering

 

 

 

横山輝雄『生物学の歴史-進化論の形成と展開』を読みました。

 

きっかけ:生物学史が知りたい。

良い点:コンパクトで読み易い。また科学と宗教(キリスト教)が、単純な対立関係にあるのではなく、両者が絡み合ってきたという点について、理解できる。

悪い点:生物学史のテキストだが、進化論を中心とした歴史で、解剖学、生理学、分類の問題、生気論、博物学的伝統といったほかのトピックについてはあまり扱われていない。また初版が97年とやや古い。

評価:B

その他メモ:「聖俗革命」論のスタンスから、本当の科学は「科学革命」期ではなく、19世紀に成立したとすることで、見通しの良い生物学史ができていると感じた。

 

本書の読解は、進化思想と、その背景にある宗教観、自然観との関係を正確に抑えることが大事になると思うので、その点を意識しながら、(部分的に省略しつつ)以下にまとめたい。

 

【概要】

 

古代-中世

 古代、中世には後の進化論との関係で問題とされる重要な概念が提出されている。アナクシマンドロスは、水中動物が陸に上がり、しだいに形態が変化し、最後に人間が誕生したと思弁し、エンペドクレスは宇宙の初めに動物の様々な器官が組み合わさり、その中から生存に炊きしたものが生き残ったと思弁した。また『荘子』には、循環論的な進化観が見て取れる。しかし最も重要な人物は、アリストテレスである。彼の生物学のポイントは霊魂論階層論である。すなわち、生物界は植物、動物、人間という三つの階層上の秩序をもち、それぞれが霊魂=アニマを持っているとされた。植物は栄養を蓄えるアニマが、動物はそれに加えて運動するアニマが、人間はさらに加えて思考するアニマを持っている。そして植物-動物-人間は低次から高次への秩序を作っている。これは中世では「存在の階段」と言われるようになった。存在の階段では順序的秩序がさらに細かく区分され、それらは隙間なく徐々に変化する、つまり「自然は飛躍しない」と考えられ、それは「存在の連鎖」ともいった。

 

近代(16-18世紀)

 バターフィールドは16-17世紀の「科学革命The Scientific Revolution」によって近代科学(modern science)が成立し、それは宗教革命やルネサンス以上の意義をもつ歴史的事件だと位置付けた。確かに、動物機械論や血液循環論の発見は高く評価される。しかし、機械論は哲学理論ではあっても具体的な生物研究に役立つものではなかったし、ハーヴィはアリストテレスの信奉者であった。またこの時代の知的探求は神学と結びついており、職業的な科学者もいなかった。

 近代には実証研究が進んだ故に、生物は変化せず、同一性を保つことが確信され、進化の考えを否定する静的固定的な自然観が誕生した。まず「」概念の成立がある。種は17-18世紀にかけてジョン・レイらによって先駆的に考えられていたが、リンネによる二名法よる分類法は現在まで続いている。種概念の成立は、神が創造したのと同じ数だけ種が存在するという創造説が背景にあり、進化を否定する根拠となった。またレディは、ウジが湧いて見えるのは自然発生ではなく、親バエが卵を産みつけた結果であることを、対照実験の方法によって示すことで、自然発生説を否定した。それは静的固定的自然観の根拠とされた。さらに、個体発生をめぐる前成説(成体の各器官は、前もってできあがっており、それが発生の過程で拡大する)と後世説(発生の各段階において、器官は新たに形成される)の論争では、始めは前成説の方が有利であり、これは種の固定不変説や、静的固定的自然観を支持する証拠とみなされた。こうした自然観は、当時のキリスト教的な神学の考えとあうものとして統合された。それは人間のもつ理性によって神の存在論証を行う「自然神学」であった。

 

18世紀後半

 17-18世紀は、種は固定不変で、神の創造によるもの(静的自然観)という考えが広まって、進化につながる考えは否定されるようになった。しかし、18世紀後半に入ると、自然発生の可能性をめぐる論争が再発した。その背景にはレーウェンフックによる顕微鏡による微生物の観察があり、以降微生物の領域において自然発生はありそうに思われた。ビュフォンとニーダムは羊の肉汁をフラスコにいれ、煮沸し、密閉したまま数日間放置すると、顕微鏡下で微生物が確認されたことから、自然発生を実証したと考えた。一方スパランツァーニは加熱時間が弱く、コルク栓から空気が通過していることを指摘し、長時間煮沸し、ガラスを溶かして密閉し、再実験を行い、自然発生が認められないことを示した。それに対して、ビュフォンとニーダムは、加熱時間が長いと自然発生の必要な栄養が破壊され、かつ大気の状態も空気中とは異なることから、生命の材料が、空気が十分に存在している通常の状態でも自然発生が起こらないことの証明にはなっていないと反論した。この論争は19世紀のパスツールの実験まで持ち越された。また、トレンブレーがヒドラ再生現象を発見したことで、自然それ自体の中に秩序を形成する力が存在していることの証拠だとし、全成説へ反論をした。つまり、発生が胚珠としての成体のミニチュアの量的拡大だとすると、どうしていったん消えた器官が再生するのかが疑問に思われた。このような自然の中に秩序を形成する力があるとする動的自然観は、キリスト教を否定する無神論唯物論的な考えと結びつきやすく、その考えの延長に進化論が現れることになる。

 

19世紀

 ダーウィンの『種の起源』(1859年)に先立って、ラマルクは進化論を提出している。しかしキュビエの反進化論の前に、彼の考えは受け入れられなかった。ラマルク進化論の核は、「前進的発達」、すなわち物質を含めた宇宙全体に秩序を形成する力が内在し、それ自体において高度化・複雑化する傾向があるという考えであった。無機物から自然発生によって単純な生命が誕生し、高次の形態は徐々に進化してきたと考えた。また「用不用説」、「獲得形質の遺伝」などもラマルク進化論の特徴だが、それは副次的なものにすぎない。ラマルク進化論とダーウィン進化論との違いは、ラマルクは、生物種は一つの共通する祖先に由来するものではないと考えていた点にある。それに対してダーウィン進化論の研究面の特徴は、まず生物進化の事実を、膨大な量のデータに基づいて実証しようとしたこと(19世紀の帰納主義を背景とする)である。そして理論面での特徴は、(1)自然選択説、(2)共通の祖先から分岐してきたという図式の提唱、(3)偶然性の重視、(4)連続主義である。(1)は前もって特定の方向が定まっているのではなく、ランダムな変異の中から環境に適したものが結果として残っていくという考えである。また(2)によっては、一直線上に下等なものから高等なものが序列化される「存在の連鎖」を否定された。(3)はのちの集団遺伝学に発展し、(4)はごくわずかな変化が長い時間累積することで、最終的に種が変化するというもので、突然変異と対立した。ダーウィンを支持した人は、内部には意見の対立があったが、ゆるい意味での「ダーウィニズム」で一致していた。

 

19世紀後半-20世紀

 スペンサーは進化論を当時の自由競争を正当化するイデオロギーとともに「社会進化論」として展開した。彼は「適者生存」という語も作った。ダーウィン進化論自体は非目的論だが、社会進化論「進化」=「進歩」の過程が、道徳的に良いものとされた。そこでは競争によって人々の能力が開発され、社会が進歩していくと考えられた。またF・ゴルトンは「優生学」を提唱し、遺伝決定論的立場から、人間の「品種改良」を考えた。20世紀に入るとナチスのように、それを実現する「優生学運動」が起こった。日本でも進化論のうち、社会進化論の本が多く刊行され。加藤弘之は国権論を社会進化論で基礎付けようとした。しかし、社会進化論第二次世界大戦以後、ナチス政策と関係していたことから、否定的に評価されるようになった。しかし筆者はここで、「科学的進化論ダーウィンVS通俗的進化論スペンサー」という図式は単純すぎると指摘する。19世紀の時点では社会進化論と自然科学的進化論とを区別することは困難で、またダーウィン自身も「白人優位」の考えをもっていた。

 さて、「科学と宗教の闘争史」という図式は、19世紀に初めて誕生した。進化論をはっきりと無神論唯物論と結びつける「科学的唯物論」が成立した時点で、科学と宗教が闘争してきたという歴史観が提示された。コペルニクスガリレオなどの例は、広い意味でのキリスト教内部の争い、キリスト教の再解釈で、彼らは本当にキリスト教を支持していた。19世紀後半になって科学的世界像が宗教から離れて自立しうる状況になってきたのである。

 ダーウィン自身は、遺伝については「パンジェネシス」という仮説を唱えていた。これは、生物の体の各々の部分にそれぞれの特徴を決定する遺伝に関わる粒子が存在し、それは生殖細胞を通じて次の世代に伝わる(生殖質の連続)とされた。また、ワイズマンは、体細胞と生殖細胞を区別し、遺伝に関わるのは生殖細胞だけであり、獲得形質の遺伝を否定していた。彼は自然選択説のみによる進化論を唱えた。しかし、1900年にド・フリースと、コレンスがメンデルの法則を再発見した。また20世紀初頭にかけて、特に古生物学の領域で定向進化説(化石が示す証拠は自然選択によっては説明できない方向性を示す)などの議論が支持を得るようになり、自然選択説は低迷していた。ウォーレス、フッカーらは同じ種の生物が互いに交渉できないように隔てられ、それにより新種が成立する「地理的隔離」の問題に取り組んだ。そして地理的隔離のない場合には新しい種の形成は飛躍を通じて、同所的種分化が起こるのだと考え、進化において自然選択は消極的な役割しか果たしていないと考えられた。メンデリズムは1910年ごろからヨハンセンらによって遺伝子、表現型、突然変異といった概念が定式化され、、1920年代にメンデルの法則が確立する。不連続説を中心とするメンデリズムと連続説を中心とするダーウィニズムは対立するように思われた。しかし、1930年にfフィッシャー、ホールデン、ライトによって集団遺伝学が成立し、40年代には両者が矛盾するものではないことが証明され、「進化総合説」が成立した。これは1970年代まで進化論を支配することになる。それ以降はエルドリッジ、グールドらの「断続平衡説」や木村資生の「中立説」などが唱えられた。

 

現代の諸問題

 現代の理論的諸問題として、社会生物学(sociobiology)論争と、創造説(creationism)があげられる。まず、社会生物学は1975年ウィルソンが唱え、人間以外の研究成果が人間の理解についても示唆するところがあると述べられた。これはかつての社会進化論や社会ダーウィニズムを連想させる名前であり、その今日的復活ではないかと危惧する人々がいた。彼らは「人民のための科学-社会生物学研究集団」というグループを結成し(グールドも所属)、社会生物学は人種差別や男女差別を正当化するものであると批判した。社会生物学論争は、科学の小息を越えた思想上、イデオロギー上の含意を持っていたがゆえに生じたといえる。1983年ウィルソンらは、反対論を認めた上で、逆の行き過ぎがあってもならないと述べた。つまり、科学上の議論を、その政治的帰結によって判定する誤りをおかしてはならず、それは場合によっては「学問の自由」を侵害すると指摘した。さらに、遺伝的要素の存在という事実を無視する形で正義・平等の議論をしていると、遺伝子がなんらかの役割を果たしていることが科学的に示された場合に、科学の議論とは無関係に差別を主張している人に対する批判ができなくなりという点も指摘した。これはグールド側に、今度新たに科学研究が進展した結果、道徳的倫理的観点からみて好ましくない理論が科学的に立証される可能性を一般的には排除できないという「道徳的ジレンマ」という新たな問題を投げかけた。一方創造説論争のきっかけは、1920年代にテネシー州の高校理科教員が進化論を学校で教えたことが当時の学校で進化論を教えることを禁じる州法に違反するとして裁判にかけられ、有罪判決が下されたことにある。後この州法はなくなったが、これを契機に「授業時間均等(equal-time)、つまり進化論と創造説を同じ時間教えるべきであるという要求がなされるようになった。Equal-timeを認めた法律はアーカンソー州ルイジアナ州で可決された。これに対しては公教育に対する宗教の介入で、政教分離を定めた憲法に違反し無効であるとする訴訟が起こされ、1987年連邦最高裁は、equal-timeを定めた法律を無効とする判決を下した。ここから(1)創造説は科学なのか、宗教なのか、現在の時点でどこまで宗教が正当化の根拠をもっているのか、(2)進化論は仮説にすぎず、絶対的真理ではないのか、(3)equal-timeは「寛容」や「多元主義」に合致しているのか、科学と民主主義の関係はどうあるべきかといった重要な問題が導かれる。

 

文献:横山輝雄『生物学の歴史-進化論の形成と展開』(放送大学教材、1997年)

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生物学の歴史―進化論の形成と展開 (放送大学教材)

生物学の歴史―進化論の形成と展開 (放送大学教材)

 

 

ウィリアム・バイナム『医学の歴史』を読みました。

 本書は、『The History of Medicine: A Very Short Introduction』の邦訳です。

きっかけ:医学史が知りたい。

良い点:構成が工夫されている。具体的には、臨床、書物、病院、共同体、実験室という5つ類型に分けて、それらが歴史的に重層していく様を記し、最後の章で現代における重要性とつなげるという構成になっている。ゆえに、ただの学説史ではなく、患者というもう一人の主人公や、患者と医者の間の倫理、同時代の社会や文との関係も含めた歴史の記述に成功している。

悪い点:中国や日本の事例は皆無。

評価:A-

その他メモ:4章までは鈴木晃仁氏、5,6章は鈴木実佳氏が担当(?)(予想)

 

【概要】

臨床の医学

 紀元前460年から370年に生きたヒポクラテスに代表される古代ギリシアの医学の構造の特徴は、まず患者の全てを知るという全体感的な医学で、これは現代のプライマリ・ケアの原型であると言える。社会的、経済的状況や家庭環境なども考慮されて、医療が施された。また、神聖病の源泉を、自然主義的な用語で説明できる枠組みで表現したことも大きな特徴である。例えば、てんかんは脳の内部の閉塞によっておき、粘液の排出が停止し、脳の機能不全が生じるなどと説明された。ここでは、意識の座を脳であると考えていること、また黄胆汁、黒胆汁、血液、粘液の4つの体液で生説明する医学である四体液説をベースにしていることが特徴である。またそれぞれの体液は、肝臓、膵臓、心臓、脳の臓器でつくられ、火、土、空気、水の四つの元素と結びついていると考えられた。ここから、体液のバランスを保つことが健康であること、自然治癒力を用いた治療を行う必要があることが言える。ヒポクラテス派の医学は、のちにガレノスのよって西洋に伝わり、1000年以上にわたって医学思想を支配した。ガレノス医学の特徴は、肝臓、心臓、脳の三つの臓器に三種のプネウマ=(自然、生命、霊魂)が分配されるという精気論だった。

 

書物の医学

 455年のローマ滅亡から、ルネサンスの15世紀までの、ギリシア医学の保持と追加、そして、病院、医療従事者の階層の出現、大学という3つの遺産を残した時代を「書物の医学」と分類している。多くのギリシア医学は、ギリシャ語からアラビア語ペルシャ語、シリア語へと翻訳され、中世イスラム医学へと繋がった。そしてイスラム世界では、病院の規模が大きくなり、重要性を獲得した。特にペストやハンセン病の隔離機能を果たした。また11世紀にサレルノの医学校がつくられ、その後12-13世紀にかけて、ボローニャで医学教育が始まり、パリ、サラマンカへと続いた。そして15世紀までにヨーロッパに50の大学がつくられ、医学部は創設当初から組み込まれていた。ここで書物の医学の完成形を見ることができる。大学教育を受けたものは内科医という階層を作った。その内科医はラテン語が読め、ガレノスやアビケンナの細かい差異を論じることができる「紳士的」地位にあった。一方で外科医や薬種商は単純な手仕事を行う身分だと考えられ、主にそれらは徒弟制後によって伝達され、年長の職人から技量を非公式に習っていた。当初キリスト教は人体解剖を禁止していたが、14世紀になると大学が公開解剖を始めた。そこでは教授はガレノスなどの医学書を読み上げ、身分の低いものがその該当箇所を解剖するといったやり方で行われた。そうした中、ヴェサリウスは自らも解剖を行い、ガレノスが描いた通りではないことに気づき始めた。そして、1543年『人体の構造について』で、ガレノスへの批判を図版で表現した。例えば心臓に骨がないこと、肝臓に4−5枚の葉は実際には存在しないことなどを示した。しかし、心臓の左右の心室の間に小孔はないと観察しておきながら、「目に見えない小孔がある」と述べている点は、ガレノス医学から完全には抜けきれなかったことを示している。1439年にグーテンベルク活版印刷術が発明されていたこともあって、医学書が大量に印刷されるようになり、さらに木版と版画で図版を載せることもできるようになり、医者でも数冊を所有するといった状況がみられるようになった。次第に内科医自身も解剖を行うようになり、そうした人物の一人として、血液循環論の発見者であるウィリアム・ハーヴィもいた。また15-16世紀にかけて「科学革命」といわれる時期に、化学と物理が医学に影響した。医化学派を代表するパラケルススは、医学を近代人によって基礎から作り直そうとした。また、サントリオらの医物理学派は、人間の生理を数学的に捉えようとし、筋肉の動きを分析し、収縮による力を計算した。しかし、この時代でも患者への治療という点では、瀉血や体液説関連の治療法が主たる医療であり続けていた。

 

病院の医学

 パリで1789年と1848年の二つの革命にはさまれた時代に医療界で盛んになった価値観を端的に表すのが「病院医学」である。フランス病院医学の3つの柱として、身体の診断、病理的臨床的相関作用、症例の利用が挙げられる。医者は患者の症状の説明に頼るのではなく、視診、触診、打診、聴診を用いて病気の客観的兆候を探すことを求められた。打診はアウエンブルッガーが1761年に発表しており、胸部の叩打によって、内部に隠れた病気の特徴を見つける診断方法である。聴診はラエネックの「聴診器」の発明がきっかけになって始まり、音のパターンの違いで肺結核などの病気を診断した。病理と臨床の相互作用とは、モルガーニの病理解剖学を念頭に置いた言い方で、彼は、病気は臓器に特徴的な変化が起きることで生じることを明らかにし、病気現象を客体化し、見て触れることができるモノとして捉えた。診断の対象は、体液から臓器へと移行した。また、組織学の父といわれるクサビエ・ビシャは、身体の部分は違っていても、病理的過程は同種の組織で起こっていることを認識していた。パリ学派の臨床医たちは、病理解剖を生前の身体の検査と同じ精神で行った。

 

共同体の医学

 公衆衛生とは、国家と個人の間にあり、健康を維持し病気を予防したり、封じ込めたする。14世紀半ばから17世紀半ばにかけて、ペストが流行した。それは共同体の健康問題についての意識を高め、病気を予防するための方法が数多く生んだ。それには例えば、隔離、国境管理、強制入院、人や物の移動の管理、医学的検査などがあげられる。また17世紀末からドイツで「医事行政」という概念が発達した。重要な著作は、ペーター・フランクの『完全な医事行政のための組織』である。またその時期は、天然痘予防が牛痘法に変わった時期でもあった。1796年乳搾り女セアラ・ネムルズの牛痘病変部からとったものを、天然痘未罹患の男子フィリップスに腕に注射すると、天然痘の免疫が形成されることを発見し、ワクチン接種が確立した。しかしそれは高価で、政治家と医師との意思疎通の問題、教育不足などで、直ちに浸透することはなかった。

 

実験室の医学

 仮に、ガレノス医学やヒポクラテス派を「科学的」であるというとき、それらが「経験」に基づくものだったということが一つの要素としてあげられるが、近代初期から、その「経験」には、実験室で行われる実験を組み入れるようになった。その際重要な役割を果たしたのは顕微鏡であり、顕微鏡の使用で、19世紀半ばには細胞が生物を理解するための基本単位であるという「細胞説」が確立していた。1838年にシュライデンは植物が、シュヴァンは動物がそれぞれ細胞から成り立っていることを明らかにした。そしてその後、ウィルヒョーは、生物は細胞分裂の結果、「すべての細胞は、母細胞から生まれる」という説を唱え、自然発生説を否定した。また彼は『細胞病理学』の中で、細胞説を医学に応用し、急性/慢性の炎症、がんの増殖や転移、外的刺激に対する体の反応などの事項を細胞で概念化するとうまく説明できることを示した。一方細菌学という領域がルイ・パスツールによって開拓され始めていた。彼は始め高等師範学校での結晶の実験を通じて、微生物に興味を抱くようになった。彼は有名な白鳥首フラスコを用いた「自然発生説の否定」の実験のほか、発酵は生物が進める過程であることや、炭疽病のワクチンの公開実験、さらに狂牛病の治療など様々な業績を残した。またロベルト・コッホは、顕微鏡写真法を導入し、客観的データを用い、結核菌やコレラ菌などの病原菌を次々と発見していった。コッホは、(1)その疾病で病原体が見出されること(2)病原菌を培養できること(3)培養した病原菌を摂取すれば、その疾病が起こることという「コッホの三原則」を唱えた。細菌学は、まず理論面では、病気の原因と患者の身体とを切り離すことで、診断のための客観的基準を発展しやすくしたこと、および、疾病の特異性が強調されるという正当性がある。さらに実践面の正当性は、まず、殺菌手術を結びついた点があげられる。1840年代にはすでに化学研究の産物として、クロロホルムエーテルといった麻酔剤が使用できるようになっており、その結果、長時間の手術が可能になり傷ついた組織を長時間保存できるようになった一方、それが空気に触れる時間も長くなり、細菌感染の危険性が増した。パスツールの実験に刺激を受けたジャセフ・リスターは、彼の洞察と、石炭酸を使って汚水を消毒できるという知識を組み合わせて、殺菌法を確立し、複雑骨折の手術でそれが有効であることを示した。実践面でももう一つの有効性は、感染症や流行病の発生源とパターンを理解し、適切に対処する能力を養い、公衆衛生に基礎を与えたことである。さらに身体の機能を明らかにする生理学の発展もみられた。19世紀の突出した生理学者グロード・ベルナールは、『実験医学序説』を記し、実験室でのみ変数を一定に保ち、変化を明確にすることができ、その生のデータから病気のメカニズムと原因を明らかにした。また彼は生理的機構がともに機能して全体としての動物を作り出しているという「内部環境」という概念を考え、これはのちにウォルター・キャノンにより「homeostasis」と命名された。

 

 

文献:ウィリアム・バイナム『医学の歴史』鈴木晃仁・鈴木実佳訳(丸善出版、2015年)

 

医学の歴史 (サイエンス・パレット)

医学の歴史 (サイエンス・パレット)

 

 

 

The History of Medicine: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The History of Medicine: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

医学史の入門書は、茨城保『まんが医学の歴史』がベストだと思われるので、そちらである程度人物を抑えてから本書を読むと、より理解し易い。

 

まんが医学の歴史

まんが医学の歴史

 

 

史料としての図像-「画像に潜む知られざる医学史」(於:慶応大学 6/28)

 

 ハーバード大学の医学史研究者の栗山茂久先生の発表を拝聴いたしました。とても刺激的で、興味深く、含蓄のあるプレゼンテーションでした。プレゼンテーションの魅了は、図像を並列(juxtaposition)し互いを比較すること、抽象的な概念をアニメーションを伴った具体的なイメージで表現すること(美しいアニメーションへのこだわりは半端なかったです)、スライドを読ませないこと、ときには音楽もつけること、会場を巻き込んだ参加型のシナリオを含んでいたこと、そして何よりも話者がワクワクして豊富なジャスチャーを用いて楽しそうに話すこと、といったことがミソだったように感じました。全部を理解しきれなかったことは残念ですが、わかった範囲内で、以下にメモをしておきます。


 医学史研究においては文献の他に、画像も重要な史料になる。画像とは、直接的には、「モノを見せる」機能を持つ。しかし、もう一つ重要な働きとして、「モノの見方(=認識のスタイル) 」を教えるということがある。ここでは、 画像に見えるものではなく、見えないものに注意をむけることが重要になる。

  人間は二つ以上のものを同時に見ることはできない。実際に見たものは現実の一部でありながら、見た者にはそれが全てであると思ってしまう。この意味で、見方とは「見落とし方」である。一方で、人間は見ていないものの中に何かを見たと錯覚することがある。これは「補完」であり、認識のスタイルとしては、見落とすことと併せて「見方の過不足」が、その特徴を表す言葉になる。

 例えば、中国の「気」の身体感を表した図像には、風になびかれた体が描かれている。ここでは身体は周りの空気とセットである。空気の中にある体は透明であり、透明である体に対しては、そもそも解剖という動機は生まれなかった。
 また、古典解剖学のヴェサリウス『人体の構造について』(1543年)の表紙の図像には、中央にヴェサリウス本人と思われる人物の指先の方向には、骸骨が吊るされている。しかし、取り囲む人物は誰一人として骸骨に目をむける者はいない。中には本を読んでいる人もいる。ヴェサリウスにとって、解剖学とは、単に人体を切り開いて構造を明らかにするといったことではなく、「死にゆく者としての人間」を明らかにすること、それを創造した神の威光を讃えることだった。
 さらに、「飲食養生鑑」(1850年)に描かれた身体観は、「社会的身体」というべきものである。身体の機能を絶え間ない労働として表現している。また、その労働とは排泄物の処理を中心としている。こうした穢れた身体観に西洋医学の影響の表れを見ることができる。せっせと働く人々の周りに書き込めれた文字は全て口語体、すなわち「会話」であって、会話のやりとりを通じて社会を描くというのも、非常にユニークなものの見方である。

https://waraie.com/jp/wp-content/uploads/2016/10/161020_big.jpg

https://waraie.com/jp/inside-the-body/より


 このように見てくると、画像の歴史とは、見方を刷新し、新しい見方を提示してきた歴史だと言える。

 

 

関連文献:ガブリエル・ダルド『模倣の法則』、Scott McCloud『Understanding Comics』

 

模倣の法則

模倣の法則

 

 

 

Understanding Comics

Understanding Comics

 

 

古川安「化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学」(科学史学校 於:日本大学)

 

 

 日本大学で行われた科学史学校での古川先生の講演を拝聴いたしましたので、私が理解した範囲で、第1章の部分を中心に、以下に内容をまとめてみます。

 

概要

 『化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学』は、化学史研究の第一人者である著者が、「喜多源逸の人と学に関する総合的かつ科学史的論述」を目指して、喜多源逸の生涯と業績、また化学の京都学派の展開を描いた本である。講演は、本書の重要なポイントをピックアップして説明するというスタイルで行われた。

 本書の特徴は、オーラルヒストリーという手段を有効に活用している点である。現代科学史研究にとっては、この手段は重要で、それは限られた文書資料を補完する働きを持つ。本書では計48人への聞き取り調査を行っている。そのうち13人はすでに故人となられており、時期が遅ければ、この本は生まれなかったかもしれない。オーラルヒストリーの他に、情報手段の方法としては、手紙・写真等の遺品を探すこと、関連機関が所蔵する文書を調査すること、当時の新聞記事を利用することがある。喜多源逸に関する資料は非常に少ないが、こうして得られた断片的な情報をつなぎ合わせて全体像を構築することで、本書が書かれた。

 喜多源逸は、1883年奈良県の現在の大和郡山市に生まれた。1900年に郡山中学校を、1903年第三高等学校を卒業したのち、1906年に東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業し、1908年には東大の助教授となった。そこで喜多は河喜多能達(みちただ)との教育観の齟齬で鬱屈とした日々をおくることになる。喜多の教育観は、模倣だけでは日本の工業は自立できないこと、応用をやるにかしっかりとした基礎が必須だといったものだった。現在ではこうした発想は普通だが、当時としては珍しかったようである。河喜多との確執の中、京都帝大では澤柳事件という、製造化学科の不適格教授がパージされるという事件が起こり、1916年、喜多の中学からの親友である中澤良夫が喜多を京大に招へいし、助教授として着任させた。その後、文部省から命じられ、最初の一年間はMITへ留学した。そこではオストヴァルトに学んだアーサー・ノイズに師事した。後半はパリのパスツール研究所で、ガブリエル・ベルトランのもとで研究に従事した。この留学で喜多は、研究そのものよりも、教育や研究の姿勢にかかわる部分を多く学んだ。

 1921年に帰国した喜多は、教授に昇格し、京都に「理研精神」と共通する学風をもたらした。理研は1917年に設立され、22年より大河内正敏は主任研究員制度を設け、喜多もそのうちの一人に任命された。喜多は、理研の科学主義工業、コンツェルン、異分野の科学者との交流といった「理研精神」を、京大化学研究所に導入した。喜多の学風は、工業化学における基礎研究(基礎のための基礎ではなく、応用のための基礎)の重視、基礎研究の成果を工業化につなげ、産業界からの要求を把握し、連携するといったものだった。喜多の新聞のインタビュー記事によると、飾らない性格で、指導者としてのカリスマ性を備えた人物で、産業界からの絶大な信頼を得ていたという。喜多はのち、当時の我が国の状況を鑑みて、自給自足経済のための研究を行うことが工業化学者としての使命と考えるようになった。繊維、人造石油、合成ゴム、人造石油といった研究プロジェクトは、戦前・戦中を通じて、国防上重要な物資であり、戦時体制化の「国策科学」の路線に沿っていた。しかし、それらは本格的な工業生産に入る前に終戦を迎えた。しかし、基礎から応用への研究体験は戦後にも継承された。

 

参考文献:古川安『化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学』(京都大学学術出版会、2017年)

 

化学者たちの京都学派: 喜多源逸と日本の化学

化学者たちの京都学派: 喜多源逸と日本の化学

 

 

中山茂『天の科学史』を読みました。

 

 天文学の通史を学びたくて、『天の科学史』を読んだ。著者の中山茂は、大学で天文学を、大学院でアメリカに留学して、トマス・クーンに会い、科学史を学んだ。中山茂氏のよく知られた仕事の一つはクーンの『科学革命の構造』の邦訳である。実際、本書ではパラダイム論を背景にした天文学史の叙述が何度も見られ、それは一つの特徴と言って良いかもしれない。しかし、この本の魅力は、古代から20世紀にかけての「天文学」の歴史を、一般向けに圧倒的な分かりやすさで語った点にある。天文学の理論をたどったものには、プトレマイオスの天動説の理論から始まることが多いが、『天の科学史』は古代ギリシアや中国の星座から占星術、暦といった、近代科学以前のトピックが充実している。

天文学の歴史的変遷は、
「(1)位置天文学:位置の動かない恒星と、それらを連ねて作った星座を考え、座標軸を設定し、天体を天球上に位置付ける作業を行う。

(2)天文誌・占星術:彗星や流星といった天球上を動いている天体を記録する。またそのような「天変」が、地上にどういう影響を及ぼすかを論じるのが占星術である。

(3)編暦・暦算天文学:太陽の位置や高さ、月の運行の規則性から暦を作り、人間生活を律しようとする。

(4)軌道論:惑星の運動の法則を数学的な形で見出し、その運行を予測する。

(5)太陽系宇宙論:太陽、月、惑星の運行の理論を組み合わせて、太陽系を中心とした宇宙論をつくる。ギリシャから始まるその伝統の中に、プトレマイオスの天動説もコペルニクスの地動説も含まれる。16,17世紀までの西洋天文学の中心的なテーマ。

(6)天体力学:17世紀後半に、ニュートンによって太陽系の運行の中に力学的法則を見出され、それにより天体の運行を研究する。

(7)恒星天文学:18世紀になると、天体望遠鏡が発達し、今まで肉眼で見えなかった恒星まで調べることができるようになると、それまでの太陽系宇宙論を超えた、はるか恒星の世界の宇宙論を広げることができるようになった。

(8)天体物理学:19世紀後半から天体に分光器を向け、天体そのものの中にどんな元素があるかといった天体の物理学的性質の究明が始まった。さらに20世紀に入ると、原子物理学や量子論の成果を背景として、天体物理学はどんどん推し進められた。

(9)宇宙論・宇宙進化論:銀河系やさらにその外に広がる宇宙全体の像や、宇宙の起源や進化を考える学問。」

の順に進んだとされ、本書ではほぼこの順番に話が進む。

 

 私が興味深いと感じた点は二つある。第一に、著者が、科学史哲学史など異なり、観測器具の発展によって、人間の考え方が転換するということがしばしば起こり、それと切り離して描くことはできないと述べている点である。顕微鏡や望遠鏡といった器具の発明と科学史と切り離すことはできない。天文学では、特に望遠鏡の歴史と軌を一にして進んだといえる面がある。それは第7章「望遠鏡の話」で詳しく述べられている。

 望遠鏡を初めて天体に向けたのはガリレオだとされている。彼は木星を観察することで、その周りに衛星が回っていることを発見し、太陽の周りも地球を始めとする衛星が回っていることと同じだと考え、地動説への確信を深めていった。ガリレオが用いていた望遠鏡は凹レンズのもとで、正立像が得られるタイプのものだった。一方、ケプラーが用いた顕微鏡は凸レンズの倒立像のタイプで、これは焦点が接眼レンズの前にできるため、天体の位置の正確な測定が可能になった。ガリレオケプラーが使っていた望遠鏡は、レンズの屈折を用いた屈折望遠鏡であるが、一方でニュートンが用いたのは、レンズを使わず放物鏡を使った反射望遠鏡だった。収差(色収差、球面収差、コマ収差)の問題から両者を比較すると、屈折望遠鏡ではこれら全てが問題となるが、反射望遠鏡では斜めからの光によるコマ収差だけが問題になる。しかし、反射望遠鏡では斜めか光に弱い分、視野は狭いというデメリットがある。また、分解能と明るさという観点から両者を比較すると、まず分解能は口径に反比例するので、口径を大きくできない屈折望遠鏡では分解能に優れる。分解能に優れるということは、シャープな像が結べるということで、これは位置天文学にとって都合が良い。一方、明るさは、口径の二乗に比例するが、口径を技術的に大きくしやすい反射望遠鏡では、明るさに優れ、はるか遠くの光を取り込むことができる。よって、スペクトル分析によって天体の物理学的性質を調べる天体物理学に適する。このことは、19世紀までは天体力学中心で、屈折望遠鏡が主流だったこと、また20世紀に入ると天体物理学がさかんになり反射望遠鏡が主流になったことを説明している。

 

 第二に、天文学が軍事と密接に関わってきたこと、特に戦後の甚だしい天文学研究は米ソの軍拡競争に便乗して行われたものだと断言している点である。例えば、ガリレオが用いた正立像ができる凹レンズの望遠鏡は、すぐに敵を捜索するための軍事に利用された。また、第二次世界大戦を通じて発達した電波技術が、終戦で解禁され、余ったレーダーを天体に向けたときに、電波天文学が出発した。惑星に電波を送り、それが跳ね返ってきたのを捉えるという技術は、戦争中に敵機を捉えるために用いた方法を応用したものだった。さらに、スペース・シャトルは宇宙ステーションの確立、スペース・テレスコープの達成に不可欠なものだが、レーガン大統領がはっきり宣言したように、それらは軍事優先で、人工衛星上の宇宙天文台は、地上に向ければ軍事用のものとして使える。つまり、スペース・アストロノミーの進行と軍との縁は切れないのである。

 最後に、筆者は広重の「体制化」論を背景に、専門家のためのアカデミズム科学に対して、巨大天文学は、国威発揚を目的とする政府のための科学=体制化科学となり、ますます一般人とは程遠いものになったと述べる。そして、現在は一般人のための天文学が主張されている。専門家や政府のために論文を書くのではなく、一般の人たちに参加を呼びかけるような天文学がない限り、将来にかけて天文学の健全な発展は保障されないと主張している。そう考えたとき、特定の専門家、アマチュアのためではなく、特に一般の人向けに天文学の話を語りかけた本書は、そうした一般人のための科学の活動をまさに体現しているといえる。

 

 中山茂『天の科学史』(講談社学術文庫、2011年)

 

天の科学史 (講談社学術文庫)

天の科学史 (講談社学術文庫)

 

 

Review:水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業ー犬丸秀雄関係文書を基に」

 

 本論文では、第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業と翻訳事業を分析することで、文部省の「科学研究の戦力化」とは異なった、科学動員の実相をより多面的に描くことを目的としている。青木、河村らの先行研究では、1943年の「科学研究の緊急整備方策要綱」を契機に、文部省の科学動員が一般的な科学振興から応用的な側面を重視した科学の戦力化へと変化したことを指摘している。しかし一方で、科学研究の戦力化という方針でまとめきれない施策が多く実行されてきたことも事実である。本稿ではそうした施策に注目し、日本の科学動員の特徴が探られる。第2節で科学論文題目速報事業が、第3節では翻訳事業について分析される。なお、一次史料は国立国会図書館憲政資料室所蔵の『犬丸秀雄関係文書』を用いている。

 

【要約】

 1941年後半以降、対日封鎖の拡大によって、日本国内では海外学術雑誌の入手がほぼ途絶することになった。そうした中、第二次世界対戦に勃発によって帰国できなくなった科学者や技術者から、国家のために何らかの貢献がしたいとの申し出が文部省と企画院にあり、論文の速報事業が実現することになった。1942年度第一四半期における速報事業の予算額は合計79,135円で、主な支出は、外国電信費37,500円、海外での雑誌購入のための図書費20,000円、論文題目及び抄録の印刷費14,520円などだった。当初の速報対象雑誌は、ドイツにおける理学、工学、医学、農学分野の約100冊で、各分野の推薦に基づいて選ばれた。4ヶ月ほどの準備期間を経て、1942年8月に研究機関への速報配布が始まった。配布物には『論文題目』、『論文抄録』、これらとは別に郵送を受けた資料をまとめた『論文別報』の三つがあった。当初の印刷部数は、1942年11月ごろの発行の理学関係の『論文別報』第1号、医学関係の『論文別報』第2号で、ともに1500部だった。配布先は、帝国大学が583、官立大学が175、公私立大学が136、官公私立高等学校65、官立実業専門学校247、高等師範学校が44、官公私立専門学校106、研究所そのた94、保存用が50だった。その後、大学等からの要望を受けて、当初よりも印刷部数は拡大していった。『論文題目』の配布を始めると、研究者から抄録を求める要請があり、文部省は予定どおり抄録作成を行った。1943年に入ると、日本で業務を管轄していた犬丸自身がドイツに赴任しすることで、速報事業はさらに拡大していった。犬丸就任後の1943年後半以降、主要な情報伝達手段が電信から雑誌郵送へと様変わりした。1944年1月の到着雑誌リストによると、理学関係が24、工学関係が32、医学関係が28、農学関係が5、その他2だった。郵送が一般的になったのにともない、研究者向けの情報提供のあり方も変わり、44年3月に科学局は速報資料を雑誌に掲載する際の手続き、速報資料の原本の閲覧、複写の際の手続きを定めた。また44年には人文科学系の文献も収集の対象となり、民俗学関係及び心理学関係の雑誌も購入が促された。分野別の発行実績と、到着雑誌のリストから、幅広い分野を対象にした速報が行われていたことがわかり、事業は、軍事上の目的から特定の分野の情報を速報するのではなく、幅広い分野の情報を速報することで、国内の科学研究全般を振興しようとするものであったと、著者は指摘する。

 一方の翻訳事業は、文部省の事業として、「海外学術文化の摂取を容易にし、日本学術文化の進展に資すること」を目的に、海外の自然科学分野の書籍を翻訳しようとするもので、1943年7月に着手された。背景には、高等学校と大学の修業年数の短縮によって、学生の学力が低下し、教育・研究面で困難が生じ、それに対処しようとしたという事情があった。翻訳に関する事項を決めたのは科学局長を委員長とする翻訳審議委員会の任務だった。1943年12月に選定された翻訳文献は、「科学一般」という分野があり、1/3を占めていた。それは、国内研究機関が所蔵していた当時の海外学術書籍と比較すると大きく異なっていた点である。また、工学関係の割合が少なく、理学関係の割合が多い。ここから、幅広い分野の基盤となる領域が重視されていたことがわかるという。第二回と第三回では、第一回に比べて「科学一般」は大きく減少したが、理学関係の割合はほとんど変化しなかった。翻訳事業が一般的な科学振興を目的にしていたことは、終戦を挟んで、事業が継続されたことからもわかるという。

 

文献:水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業ー犬丸秀雄関係文書を基に」『科学史研究』第52巻(2013年) 、70-79頁。

 

科学史研究 2013年 06月号 [雑誌]

科学史研究 2013年 06月号 [雑誌]