立岩陽一郎・楊井人文『ファクトチェックとは何か』を読みました。

 

  本書は、日本で初めてファクトチェックについて、詳しく解説したもの。

  ファクトチェックとは、いわゆる「事実確認」とは異なる。Fact-checkingを、敢えて日本語に訳すならば、「真偽検証」などと訳すべき営みである。事実確認は、ファクトチェックが注目される以前からマスメディアなどでも行われてきた、対外的な発表に誤りがないように、取材や調査の過程で慎重に事実関係を調べる作業を指す。一方、ファクトチェックは、正確な事実関係を調べる点では、前者と共通しているが、調査の結果、「ある情報が不正確だったこと」が判明すれば、それを積極的に公表し、社会と共有する営みである。「ある情報が不正確だったこと」を積極的に公表しようとするところに、前者との大きな違いがある。例えば、首相が、「消費税率の2%引き上げにより、5兆円強の税収となります。」と発言したとき、事実確認においては、首相が発言したその内容通りに報道されているかが、問われることになる。しかしファクトチェックでは、その発言内容そのものは本当に正しいのかを問うことになる。したがって、ファクトチェックが対象とする言説は、あくまで、事実言明であり、意見や見解を述べただけの言説を評価するものではない。
 ところで、最近よく耳にすることファクトチェックは、「ポストトゥルース」と言われる昨今の時代、フェイクニュース等に対抗すべく新たに生まれた活動であると思っていたが、実際はそうではないらしい。それは、1920年代に米国の出版社が、印刷前に事実の誤りがないかをチェックする専門職「ファクトチェッカー」を置いたことに起源があり、90年代からは、様々な政治的言説を対象としたファクトチェックが、インターネット上で行われるようになったという。
 さて、何が真実かわからない時代において、ファクトチェックした調査結果そのものが、事実でないかもしれないという疑問が頭をもたげるのは、僕だけだろうか。
  ファクトチェックにおいては、それが正しいことを担保するために、いくつかの原則がある。2016年に、世界中のファクトチェッカーらが議論し、合意した「ファクトチェック綱領」(International Fact- Checking Network fact-checkers' code of principles)によると、1.非党派性・公正性、2.情報源の透明性、3.財源と組織の透明性、4.方法の透明性、5.訂正の公開性の5つの原則を守る必要があるという。ファクトチェックは、特定の政治的主張のために行うものではないという1の原則は重要だ。また、2では、その判断が妥当なものかが、第三者でも検証できるように、情報源を明らかにするという原則である。さらに一番大事だと思ったのは、5だ。これは、ファクトチェック自体にも誤りが生じることを前提した考え方で、間違っていた場合、真摯に訂正を読者に説明しなければならないという原則である。こういう態度は重要だと感じた。こうした原則から分かるように、ファクトチェックは、とても禁欲的な活動である。
  ファクトチェックは世界的な潮流の中にあり、米国のポリティファクトを始め、欧州では、ジャーナリスト以外の様々な経歴を持った人が参加したファースト・ドラフト・ニュースなどが有名だ。また近年アジアでも、様々な取り組みがなされ、フィリピンでは、ベラ・ファイルズという団体が、2016年の大統領選をきっかけに、注目を浴びた。
  さて、これは内田樹Twitterで言っていたことだか、ファクトチェックは、考えてみれば、とても非生産的な活動ではないだろうか。事実言明が正しいかどうかを確かめるだけで、それ自体政治的含意はなく、なにも主張していない。だから、社会全体の中で見たとき、とても非効率的というか、大きなロスだ。そもそもは、発言者が、正しい事実に基づいて、公正な言説を発信しなければいけないのだろう。だから、ファクトチェックは、フェイクニュースが流布する昨今、それでも事実を大事にしたい真摯な人々によって、自発的に行われている活動だと見ることができるかもしれない。その点、こうした取り組みに参加している方々には、敬服するし、こうした活動に注目したい。また、AIによるファクトチェックの取り組みにも、一部触れられるが、こうした分野こそ、AIが代替すべき仕事なのかもしれない。

ファクトチェックとは何か (岩波ブックレット)

ファクトチェックとは何か (岩波ブックレット)



  

一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義』を読みました。

 

 

 本書は、著者によって、埼玉大学教養学部で2017年度後期に行われた「近現代日本の政治と社会Ⅰ」の15回分の講義を書籍化したもの。ジブリ作品を素材にしながら、昭和期の戦争(1931年満州事変、37年日中戦争、41年太平洋戦争など)の歴史を、軍事はさることながら、政治、経済、文化、病や科学技術といった様々な側面から、解説される。扱われる作品は、ほとんどが『風立ちぬ』で、その他『火垂るの墓』、『紅の豚』や、最後に『平成狸合戦ぽんぽこ』、『となりのトトロ』、『コクリコ坂』にも触れられるが、メインは『風立ちぬ』といって良い。『風立ちぬ』は、厳密に史実に基づいた作品ではない。その点、『歴史ファンタジー』とも言える作品ジャンルである。例えば、関東大震災の描写で、映画の中の二郎は、東京帝大の学生となっているが、実在の二郎は、震災の翌年に入学している。しかし、本作品では、監督自身も言っているように、史実に忠実であるかどうかは重要ではない。むしろ、場合によっては、史実を捻じ曲げてでも描かなければならなかった理由は何か、という問いが成り立ち、そこに歴史的に重要な背景や、ポイントがあることが、本書では明らかにされていく。(もちろん、史実と重なる描写もたくさんあるが。) 関東大震災でうごめく人々の描写に力点が置かれているのはなぜか?カストルプとは何者か?二郎が渡したシベリアを、なぜ少女は拒むのか?二郎の結婚がさびしいのはなぜか?こうした問いに対して、最新の研究成果を用いながら、映画では直接描かれない背景を推測するという形で、講義が進められるのである。僕は、『風立ちぬ』が大好きで、四回ほど観たが、それでも全く気がつかなかった背景がたくさんあり、宮崎駿監督の才能と、著者の分析力に驚かされるばかりだった。その中でも、一番興味深かったトッピクを紹介したいと思う。

 

 もっとも興味深かったのは、二郎と菜穂子の結婚がなぜさびしいのか?に対する著者の分析だ。

 まず、菜穂子は結核のため、長野の富士見のサナトリウムで療養生活を送る。結核は、1929年の時点で死因の第3位、1935年に第1位となっている。この結核という病気から、当時の日本の何がわかるか?著者は、端的に言ってそれは「膨大な貧困層と劣悪な衛生環境」の存在であるという。当時の結核死者数を形成していた最大の集団は、製糸工女だった。そして彼女らは、生糸を輸出して軍艦を輸入する明治日本を、下から支える存在だった。しかし、工女の労働環境は劣悪なものだった。秦郁彦『病気の日本近代史』は、解雇された工女のうち、63%が死亡したこと、その約7割が結核患者だったこと、さらに発病して故郷に帰らされた彼女らにより、汚染されていなかった農村にまで菌がばらまかれ、「肺病やみ」は納屋に押し込まれ、死を待つしかなかったことなどを伝えているという。

 

 さて、そんな結核患者の菜穂子と二郎の結婚のシーンは、どこか悲しげなイメージがある。立会人は黒川夫妻だけというだけでなく、夜間に、人目を避けて、ひっそりと行なわれた式という感じもしなくもない。では、なぜ二人の結婚式はさみしく描かれているのか?著者は、それは、当時理想視されていた恋愛結婚は、健康と不可分であり、菜穂子は健康な体ではなかったからだという。結婚の際、相手の健康を意識することは、当時に限るものではなく、今だってそうだろう。しかし、当時、現在とは異なる背景があった。

  加藤秀一の研究によると、戦前の日本では、欧米由来の生物学や優生思想に基づき、恋愛結婚は、一夫一妻制のもと、選ばれた男女が思い合い、結婚まで純潔を保ち、優良な子孫を残すためのものと主張されていたという。昭和期に入ると、人口の質の確保が国家的な課題とされ、「優生結婚」が、恋愛の名の下に推奨されていたのだ。そして、それは、結婚し出産することが、国力増強や戦時国家への貢献となると考えられ、それができないものは国家や社会からはじかれてしかるべきということを意味してもいた。だからこそ、健康な子どもが産めそうにない菜穂子との結婚は、当時認められるべきものではなかった。(当時結核は遺伝性だと考えられており、かつ、菜穂子の母も結核で亡くなっていた。) 『風立ちぬ』では、菜穂子が「あの人(震災のとき、二人と一緒に逃げた女中のお絹)このまえ二人目の赤ちゃんを産んだんですよ。とてもかわいい赤ちゃん」と独り言のように語るシーンがある。著者は、菜穂子が病気の自分にはそれができないからだと内心で悟っていたからだと分析する。しかしなんといっても、そういったセリフをさりげなく入れていた宮崎駿の洞察力というか才能の凄さに、全く驚くばかりだ。

 

文献:一ノ瀬俊也『昭和戦争史講義-ジブリ作品から歴史を学ぶ』(人文書院、2018年)

 

昭和戦争史講義: ジブリ作品から歴史を学ぶ

昭和戦争史講義: ジブリ作品から歴史を学ぶ

 

 

 

 

 

金森修『ゴーレムの生命論』を読みました。

 

『ゴーレムの生命論」は、専門書ではない。しかし、(或いはそれ故に、)本当に面白い本だ。
  本当に面白い本を読むと、読書は、著者という<馬の背>に乗って、色々な土地に案内され、見たこともない風景を見せてくれるものだという感じを抱く。ときには、荒々しく急勾配な坂を登っていくと思うと、次の瞬間には、猛スピードで坂を駆け下りていったりする。或いは逆に、しばらく停滞して、歯がゆさのようなものを感じさせられることもある。もし、この荒い比喩を用いるなら、本書の著者である金森修は、幾分荒い馬と言えるかもしれない。馬の背にまたがる読書は、上下に揺れ動かされながら、縦横無尽に駆け回り、さまざまな場所へと案内されるだろう。そして、同時にその奔走の根底には、著者の学問と生命に対する深い敬意を感じることができると思う。
  以下、内容を十分に理解したとは言えないものの、ざっとポイントをまとめてみたい。

 

 

 ゴーレムとは、ユダヤ教におけるラビ(お坊さんのような人)が、土塊からつくる一種の人造人間である。その創造に成功したことは、啓典を読破したことの証左になる。また、それは、神が人間を創造することに準じるが、神のような完全な創造ではなく、不完全な創造である。だから、ゴーレムは話すことができず、意思も持たない、人間未満の亜人である。そして、いつでも土塊に戻る可能性がある。だが、ゴーレムは怪物的でありながら、どこか親しみをもっている。スマートとは言い難い、鈍臭さみたいなものを持っている。
著者は、そんなゴーレムを、「文化的アイコン」として捉え、映画や小説などのさまざまな文学作品から、ゴーレム的なものを抽出し、分析する。

 

 著者は、ゴーレムという表象から、怪物性と劣等人間いう性質を見てとる。取り上げられる作品は、モームの『魔術師』、映画『エイリアン』シリーズ、ホフマンの「砂男」、チャペックの『ロボット』と多岐にわたる。ゴーレムは、人間の意図によって造られる、不完全な醜悪さを湛えている。しかし、ゴーレムは単なる怪物ではなく、どこか間の抜けた、憎めない、物静かなイメージがつきまとう。その意味で、ゴーレムは、怪物のような、怪物でないような、「人間と亜人間の狭間」にいる存在であると言う。ゴーレムは、<人間圏の境界>の境界を行き来する、とぼけた重々しい存在である。

 さて、本題はここからで、著者は、この人造人間としての<亜人>の含意を、<人工生命の創造>という、現代科学の問題に繋げる。発生機構の解明が分子レベルで急速に進展しつつある今、すでに未分化な細胞から新しい細胞を作り出すことができるようになっている。ES細胞やIPS細胞は、まさに「途上の生命」そのもので、現代的ゴーレムを象徴する存在だとも言える。人工生命なるものの実現はまだなされていないが、近い未来、そのような<科学的ゴーレム>が出現するかもしれない。著者は、こうした現代において、魔術によってゴーレムができる伝説と、人工生命作成という現代科学のプロジェクトは、それぞれがお互いの違いを際立たせ、強化し合うのだという。われわれ人間の周囲環境は、すでにあまりに科学化されすぎているが、一方で<完全な科学的存在>というには、黒々とした情念や「無器官的」な想像力を引きずりすぎてもいる。科学的でもあり魔術的でもある人間にとって、ゴーレムは、その両方の圏内に現れ、互いの場面で微妙に異なる姿を見せる。ゴーレムは一筋縄ではいかないのだ。
 
 ゴーレムの生命論は、まだ続く。著者が本書の執筆に取り組む際に、根源的な問いかけがあったという。それは、ウィスニーウスキーの『土でできた大男ゴーレム』(2000年)で描かれる、少し特殊なゴーレムにまつわるものであった。ゴーレムの最も重要な特質は、話すことができないということだった。ところが、この作品上のゴーレムは、例外的に話すことができるのである。そして、ユダヤ人の安全を確保するという任務を果たした後、ラビがゴーレムを土に戻そうとするとき、最後に「生きていることは、わたしにとって、かけがえのないことです!」という言葉を吐き出す。ここで、著者は、なぜラビは命乞いをするゴーレムの願いを無視し、それを土に戻さねばならなかったのか、と問いかける。そしてそれは、作者が仕掛けた「話せる」という性質の付加があったからこそ、成立すると問いでもある。
 ここでは、或る機能的目的が充填されたとき、もう役目は終わったと見なさる命が描かれていと言える。しかし、それは、例えば、牛や豚がある程度成長したら殺して食べるということ、正確にいうと、牛や豚が「話せない」ということに人間は無慈悲に、何を感じているかなど知らないふりをして、それらを殺し続けていることに重ならないだろうか。ここで、金森は、人間はあらゆる生命形態に対して、<生命への畏敬>を持ち続けているわけではないという厳然とした事実に、思いを新たにする必要があるという。そして、本書は、こう締めくくられる。

 

「ゴーレムという存在は、命を大切にすること、命をもてあますこと、命を弄ぶこと、命を切り捨てることなど、われわれ人間が命に対してとりうる多様な態度のどれにおいても、土くれという異質な成分を混ぜ合わせることで、そこに一種混濁した感覚を浮上させ、<命の諸相>のどこにおいても、われわれがどこか安住しえない感覚をもたらすための契機になっているのではないだろうか。」(p206)
 

 

本書に続く亜人論『人形論』も、楽しみだ。

なお、本書には、戸谷洋志氏による、優れたレビューがあります。↓

[ビブリオバトル in 紀伊國屋] ゴ-レムの生命論 - YouTube

 

 

文献:金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年)

 

 

ゴーレムの生命論 (平凡社新書)

ゴーレムの生命論 (平凡社新書)

 

 

 

村田沙耶香『コンビニ人間』を読みました。

 

 

 コンビニ化する◯◯、コンビニ的な◯◯という言い方を、時々耳にします。日本に5,6万件もあるといわれるコンビニは、どの店舗もよく似ていて、そこには機械で作られた清潔な製品で溢れ、それも食品から日用品まで多種多様な製品を扱い、その名の通り生活上「便利」な存在です。ここでは、そうした画一的で、無機的で、とても便利な性質を「コンビニ」として表現しているのだと思います。いやそれはむしろ「便利」というよりも、不可欠なものでもあるかもしれません。コンビニは、社会の「歯車」として働く人々の生活を身近で支える店として、なくてはならない存在かもしれません。だからこそ、コンビニは機能的であるべきで、社会の歯車たる人々を支えるコンビニの店員は、もっと細かい歯車の一部で、取り替え可能なものと想起されがちだと思います。だから、コンビニとか、コンビニ店員という言葉には、どちらかというと、どこか負の意味をイメージしやすいのですが、この小説では、その負の意味を180度ひっくり返し、そうしたコンビニ店員として、社会の歯車として働くことでしか、「正常に」生きて行くことができない主人公が設定されます。そして、コンビニという存在を中心に物語を書くことで、社会が認める「普通」に揺さぶりをかけ、「社会の歯車として普通に生きていく」ことの意味を問うている作品であると読みました。

 

 コンビニ店員である主人公の小倉恵子(36歳の独身)は、小さい頃からアブノーマルな言動を繰り返し、周りから「異常」というレッテルを貼られてきました。死んだ鳥を、せっかく死んでいるのだから食べようと言って母親の度肝を抜かせたり、喧嘩を止めるためにスコップで相手を殴ってしまったり、ヒステリックな先生がパニックになった際に、スカートを降ろさせることで静まらせたり…と、周りが普通はしないようなことを、平然をやってしまい、しかも本人は、なぜそれがダメなのかという自覚が全くないのです。こうした主人公が18歳のとき、新しくできたコンビニのアルバイト募集を発見し、コンビニ店員に採用されるということろから、物語は始まります。

 

 僕が、本書に慧眼さを強烈に感じたのは、まず、著者の人間に対する認識です。「人間は環境に左右される生き物だ」という言ってしまえば少し大雑把ですが、著者は、人間は、はじめから確たる輪郭を持った不変の存在ではなく、周りにいる人の仕草や口調、食べているものなどによって絶えず入れ替わり続けている可変的な存在だという見方をしています。とりわけこの小説で強調されるのが、人間が話す口調です。コンビニで働く他の店員の口調が、主人公にも伝染し、本人もそのことを自覚するという記述が何箇所かありました。テクストからは、もちろん直接音は聞こえてきませんが、コンビニ店員の話し方が伝染した、ある意味では理路整然とした、無機的な話し方が、主人公の発話の特徴の一つであることは確かにわかると思います。話し方だけではなく、コンビニの売れ残りを主食にしている主人公は、それこそコンビニの成分でできあがった、まさに「コンビニ人間」というべき存在なのです。

 コンビニ人間である主人公は、どこにどんな商品を陳列すれば良いのかを把握し、ペットボトルがローラーをカラカラと流れる音で、反射的にレジへ向かい、爪を綺麗に切り、髪を整え、明日の仕事のためにしっかりと休息をとるようになります。主人公は、このように、「コンビニの声」を理解し、まさにコンビニのために生きることによって、ある種規則正しい、まともな生活を送るようになるのです。

 さらに、小倉は、彼女より一つ年上の泉という女性のバッグを真似るなどして、ファッションについて学び、次第に社会的に「正常な」人間に近づいていきます。社会的に「正常」に生きるということは、まず社会の中で多くの人が行っていることを真似することから始まるのだと思い、なるほどと思いました。

 

 さらに著者が慧眼あるのは、「正常」であるとは何かということを、性愛の問題にまで踏み込んで模索している点だと感じました。物語の後半は、新しくアルバイト店員に加わった、婚活中の白羽という独身男性との関係が描かれることになります。確かに、恋愛が円滑に進むためには、社会に中でできあがった通念に則り、適切な方法でアプローチし、デートをし、愛することが必要だと思います。それは、自己流ではあり得ず、僕らが聴いたり読んだりしたものの中で次第にできあがった恋愛のルールの中で、それを忠実に行わなければ、恋愛は成功しづらいとさえ言えるのではないでしょうか。(それらを無視した、自己流の究極的なケースが、性犯罪だと思います。) そして、さらに36歳女性で、独身で、処女であることは「問題」であり、結婚し、子供をつくるべきであることを、周りの人間から執拗に説かれます。さて、この白羽という男性も、主人公と同じく社会から逸脱し、社会を敵に回し、義妹からお金を借りてのらくら暮らす、まさに「底辺」にいる人物です。そんな2人にとって同棲するということは、お互いに「正常になれる」メリットがあるという認識から、小倉のアパートに白羽が住み着くようになります。二人の同棲が始まると、妹を始めとする周りの人々が主人公を「正常」な人間として認め始め、無性に喜ぶようになるのですが、そのあたりの描写がとても面白いです。特に、妹が勝手に空想を広げ、嬉々として盛り上がっている描写などはアイロニカルで、吹き出しそうになります。

 

 ところで、本書で一番感動した箇所が、店長と泉さんが、2人が同棲し始めたことを知り、嬉しそうになっている状況で、(主人公から見て)コンビニの空気が「異変」になり、新人のトゥアン君に、からあげ棒の売り上げを達成すべく、

 

「「皆で一丸となって、からあげ棒を売るんだよ。それが今、このお店で一番大切なことなんだよ」

 言いながらなぜか涙ぐみそうになっていまい、」(119頁)

 

というところです。コンビニで働くことでしか「正常」を保てない主人公と、同棲したことで「正常」に近づいたと確信して、業務どころではなく喜んでいる二人との関係の中で、自分の正常を訴えようとする姿は、皮肉たっぷりでもあり、またどこかかわいそうでもあり、なんとも言えない味わい深さがあると思いました。ここが一番好きな箇所かもしれません。

 

 文体はとても平易で、明快で、それゆえ、この小説の大きなテーマが誰にも伝わるようになっていると思います。また、どこかコメディー的でもあり、結構笑えます。そして、僕は技術的なことはあまりわかりませんが、中村文則が、解説の中で「感覚の濃淡」とかについて述べていて、そちらも面白いと思います。

 

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 

中川靖造『海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者たち』を読みました。

 旧海軍の技術開発に携わった海軍技術官は、戦後の技術復興に大きな役割を果たしたと言われている。中でも目立つのが、当時最先端技術であった電波、通信、磁気、音響といった電子関連兵器の開発に従事した技術官らである。日本のエレクトロニクス開発の源流は、海軍の電波兵器開発と深く関わっていると以前から言われていたものの、その全貌は未だ分からないことが多く、電波研究開発の中心であった海軍技術研究所についても、これまでほとんど触れられてこなかったという。本書は、技術研究所の伊藤庸二技術大佐に注目しながら、技術封鎖という環境下で取り組んだ海軍の研究開発方式が、今後の日本企業の研究開発を考える上で何か示唆を与えてくれるのではないかというモチーフのもと、エレクトロニクス分野に絞って、当時の技術開発の実態を描こうとしたノンフィクションだ。

     

 大正11年8月に成立したワシントン軍縮条約では、日本の艦船保有率が対米英比6割に制限されるなど、大幅な軍縮を余儀なくされた。そこで、海軍は「量から質へ」の転換を迫られ、兵器の質的向上を図るべく、大正12年春に、築地の海軍艦形試験所、航空機実験所、造兵廠を統合し、海軍技術研究所を発足させた。ところがその直後、関東大震災の被害を受け、同研究所は目黒に移転することになる。復興工事は昭和2年から始まり、昭和5年に漸く完了する。そんな中、昭和4年ドレスデン工科大学のバルクハウゼンのもとに留学した伊藤庸二が帰国し、技研電気研究部の技術官になる。彼は当時の電気研究部長の蓑原勉少将の斡旋で、各研究部門のいずれにも属さない、「電気研究部長研究室」に配属された。伊藤は、海軍委託生制度(明治30年に導入)により、東大工学部電気学科を卒業すると、大正13年4月に海軍中尉に任官していた。技研が再出発した昭和5年は、日米英の軍縮をより徹底させるための補助艦艇保有量を制限する「ロンドン軍縮条約」が成立した年だ。それゆえ、艦船用兵器や、装備品の開発競争は激化することとなり、その顕著な例が通信分野だった。技研に出仕するようになった伊藤が取り組んだテーマは、振極菅と電離層の研究であった。とりわけ後者は、短波が実用化されるに際して生じるフェイディング現象という欠陥を補うために取り組まれ、一連の観測研究は、軍事用短波通信の波長選択の図表を作成することに役立ったという。

 しかし、呉海軍工廠の歪な軍備拡大にひきかえ、無線機器に代表される電波兵器は、最後まで部内に理解者が少なく、陽のあたる場所に出られなかったらしい。一方欧米では、電波を索敵に利用する研究が始まり、昭和12年に伊藤自身がヨーロッパの出張についた際、ドイツが電波兵器の開発に成功したとの情報を手にいれた。帰国後、艦船本部や工廠の関係者に取り合うも、誰も相手にされなかったという。前年に谷恵吉郎造兵大佐が電波を用いた索敵機の開発を提案した際も、巨砲大鑑主義を重んじる海軍首脳部には、その重要性が理解されなかった。

 昭和12年に6ヶ月の出張を終え帰国した伊藤には、その公務以外に、バルクハウゼン博士の日本招聘が決まったという手土産もあった。早速、学術会議の長岡半太郎を訪ね、彼を委員長とする招聘委員会を作ってもらうことに成功し、昭和13年9月14日、博士は横浜に到着する。日本の弱電メーカーの視察を終えた博士は、国際競争力のない日本メーカーを鋭く批判する一方、理研仁科芳雄サイクロトロン研究に大きな関心を寄せたという。一方の伊藤は昭和12年の末頃、マグネトロンの最初の試作品の開発に取り組んでいた。研究陣は橘型と、菊型と呼ばれるマグネトロンの開発に成功した。そして、昭和14年初頭、橘型マグネトロンを利用した「暗中測距離装置」の開発に際して、それまで秘匿していたマグネトロン研究の一部を日本無線に公開し、その出力増加と、量産化を委ねることが決まる。

 昭和15年の春に、陸軍は技術系将校を中心とする視察団をドイツに派遣する計画を立てるが、それに刺激された海軍も同じように伊藤を含めた軍事視察団を派遣することになる。そして、昭和16年ドイツに視察へ行く。特筆すべきことは、「ウルツブルグレーダー」という世界初の対空射撃用測距離装置の見学を許されたことである。それは、衝撃波を発射し、跳ね返ってくる電波を捉えて、それが空間を通るのに要した時間を測定し、物体の所在を知ろうとする装置だった。同時期、米海軍も独自でこの種の兵器開発に力をいれていること、さらに1941年5月にドイツの「ビスマルク」がレーダーを駆使した激しい砲戦を展開したという外電報道があったことを受け、国内でもレーダー開発の開始の機運が高まる。伊藤がベルリンから送った「X装置」の報告や、ロンドン駐在の浜崎中佐の一連の情報を検討していた軍令部と艦政本部は、ついに英国見張り用レーダーと同じものを試作して、作動させるという命令を下し、昭和16年に電探の研究実験に着手する大臣訓令を通達した。

 難航したのは、センチ波電探の実用化のための改良であった。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃をもって戦闘状態に入ると、電気研究部は緊迫の度合いを高めていった。軍令部がミッドウェイ攻略作戦を認めると、戦艦「伊勢」「日向」に装備する見張り用電探の開発に着手する。試作を終えた103号電探(通称マグロ)と、2号1型電探は装備実験に移され、結果、103号は撤去すべきとの結論が出るものの、伊藤は反対した。

 17年8月から始まったソロモン海戦では、英米の共同開発で完成したマグネトロンを用いた射撃レーダーが威力を発揮し、夜戦を得意とする海軍が惨敗した。これを受け、射撃用レーダーの重要性がだんだん認識され始め、17年の秋には再びセンチ波レーダーの開発が認められた。そして日本無線と「二号二型」を作り上げるものの、資材の割り当てがなく、日本無線が闇ルートから供給するといった始末だった。一応かなりの数が作られたが、真空管の不良が原因で、故障が多く、信頼性に乏しかった。一方、二号二型は、キスカ撤退で一定の役割を果たし、艦政本部は技研に電探の改良と増産を指令する。そして、18年7月に技研電気研究部は改組され、電波研究部が発足し、名和少将が完成本部第3部長から「格下げ人事」により、同研究部部長に就任した。名和は東大工学部電気出身で、潜水艦用の蓄電池開発の権威であった。これと並行して、東北大の渡辺寧、放送技研の高柳健次郎理研の菊池正士を海軍技師として迎え、研究陣を発足させる。ここでは電探の開発・改良に加え、協力マグネトロンを使った「殺人光線」の研究も行われた。これは伊藤が、前代未聞の兵器を実用化する以外に道はないと悩んでおり、異常な関心を寄せていたことに起因していた。

 艦船用とともに、航空機用レーダーの開発も遅れていた。レーダーの研究水準では技研が上回っていたが、航空機用に関しては、空技廠でその開発が行われていた。これも海軍のセクショナリズムの表れだった。空技廠が開発した航空機用レーダーは「空6号」(H6)と言われるタイプだった。しかし高度を高くとると、2000mくらいまでは海面の反射が現れ、他の目標物と区別できず、それ以上高い目標でないと探知できないという不便な機器であったという。この電探は終戦まで2000台ほど生産された。一方の米国は、4種類の航空機用レーダーを2万数千台生産しており、またB29のパノラマレーダーのために2キロワットの電力を割いていた(空六号は500ワット程度)。これは、圧倒的な技術力の差や、用兵者の電探への認識の違いを如実に示していた。原材料の入手難から、関連部品の質の低下を招いていたことも、新兵器の開発を遅らせていた。

 レーダーの優劣が命運を分けた戦いが、いわゆるマリアナ海戦だった。攻撃隊は、レーダーと無線電話を活用し待ち構えていた米戦闘機軍に襲われ苦戦した。(さらに機動部隊にたどり着いたと思ったら、電波を発しながら至近距離で自動爆破するVT信管を浴び、次々と撃ち落とされるという悲惨な戦いを演じた。)

 開発陣の重苦しい状況に一筋の光をもたらしたのは、鉱石検波器の活用だった。黄鉄鉱とシリコンがマイクロ波に適した特性を持っていたことを利用したものだった。二号二型の性能不安定で調整の難しいM60に局部発振器と第一検波器の両方の役割を持たせていたことを変え、M60には発振器の役割だけにし、鉱石検波器に受信検波を任せるという原則し、改良を施した。しかしこうしたレーダーも活躍することなく、レイテ海戦で惨敗する。

 1943年7月に技研電波研究部が新設されたのに続き、44年には、電波、磁気、音響兵器の開発を促進するために、電波研究部を発展解消し、大臣直属の電波本部を発足させる。これで、艦政本部、航空本部と同格の組織に格上げされた。しかし、ここでは開発と改修がメインで、装備や量産は艦政、航空本部の管轄下にあったため、運営上不便だった。そこで、電波本部を解消し、45年2月には三種の兵器の研究、試作、修理を担当する部署を統合し、第二海軍技術廠を発足させた。一方、1944年6月に開設した技研島田研究所では、強力なマグネトロンを使った新兵器の開発が行われていた。初期研究では、5メートル距離にあるウサギを殺すところまで進んだという。しかし、本来の殺人光線、飛行機迎撃用の強力電波の開発は進展しなかった。

 敗戦後、連合軍はぞくぞく軍事施設の接収を始めた。MIT総長のK.T.コンプトン博士を団長とする科学情使節団は、技研の研究組織、電波技術の現状、研究成果の報告といった資料の提出を求め、さらに多くの技師らが事情聴衆に応じた。しかし、療養中の伊藤はそれに応じることはできなかった。戦後、伊藤が勢力的に取り組んだのは、海軍関係の資料の収集と保存だった。伊藤が協力した、海軍関連資料の保存を目的とした史実調査部は、1946年年に文部省認可の財政法人「史料調査会」に生まれ変わり、本格的な活動をはじめた。その資金づくりのために「光電製作所」を立ち上げ、漁船用の方向探知機を生産、販売もしたという。1955年、防衛庁が技研を発足することになり、その初代所長に伊藤が推薦されるも、同年5月9日、光電製作所の会議室で、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 興味深いのは、伊藤が構想していた技術復興のプランだ。資源に乏しい日本が生き残るためには、米軍の委託研究を受け、同盟国として国防に寄与し、同時にその成果を日本の技術復興に役立たせるというものだった。

 

 

文献:中川靖造『海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者たち』(光人社NF文庫、2010年)

 

 

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

 

 

遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史[新版]』を読みました。

 

 本書は、昭和の歴史を、政治・経済・文化の諸分野の動きを統一的に把握しながら、14年間の戦争に重点を置いて叙述した史書である。

 第1章「第一次世界大戦後の日本」では、戦争がなぜ起こり、なぜ国民の力が勝利しなかったのかを捉えるべく、大正期まで遡り、当時の国際的/国内的条件が模索される。

 1926年に「昭和」と改元した近代日本は、大きな転換点にさしかかっていた。第一次世界大戦は戦場における軍事力のみならず、それを支える国民総力の供給=「銃後」が勝敗を決める「総力戦」であったが、それゆえに、多くの犠牲を強いられた民衆の不満と反抗を蓄積させ、革命の機運を高めた。一方、日本は、ヨーロッパ諸国がアジア市場から撤退した隙に日本商品を進出させ、戦争を契機とした独占資本主義体制を形成することに成功した。また、1919年ヴェルサイユ講和会議では、中国やアメリカの反対を押し切って山東省の旧ドイツ権益を獲得した。これらのことは、第一に、英・米との政治経済的対立を深めることにつながった。1921年からのワシントン会議では、日本側が防備制限の6割で譲歩したが、国内では節約した費用で戦車・航空隊の整備を進めていた。第二に、中国の民族解放運動と直面することになった。1919年には北京の学生らが山東省に対する日本の要求受け入れに反対する五・四運動が起こった。憲政護憲運動の指導者や民本主義の思想家らは、こうした革命運動に共感を示す一方で、21カ条の要求の際には、列強が争っている状態ではやむを得ない措置だとし、総じて現実と妥協してしまったと述べられる。第三に、大衆の民主主義的要求につながった。1918年のシベリア出兵の後に起きた米騒動は、民衆の力を示すことに成功し、平民宰相の政友会原内閣を出現させたと述べられる。

 第2章「政党政治の危機」では、戦争とファシズムの時代に入るまでの、民政党内閣の政策が破綻する過程が描かれる。中国の国民革命軍の勢力へ抗するためのイギリスとの共同出兵を断った「幣原外交」は、革命軍側の陣営の分裂を生むことに成功した一方、国内では、震災後の金融恐慌の激化と台湾銀行の破産を受け、倒閣を策動する動きが強くなった。幣原外交の軟弱さ故に、中国にある権益が踏みにじられ恐慌を招いたとして、その責任が追及されたのである。そして枢密院を根城にする官僚政治家らを中心に、台湾救済緊急勅令を否決し、若槻内閣を総辞職に追い込んだ。代わる政友会の田中内閣も、革命軍の満州に及ぶ事態を収束すべく、二度にわたる山東出兵に踏み込んだ。しかし、中国の民族運動が持つ底力を認識できておらず、張作霖の爆破事件の背後に軍閥があるのではという疑念は世界に広まった。この事件の後始末や、続くパリ不戦条約における各隊と憲法違反をめぐる問題から、1929年浜口内閣が誕生するが、ロンドン条約天皇統帥権を干犯したとして、首相は右翼少年に狙撃される。また本章では、こうした政治の動きに対応して、民衆側の抵抗の諸相も丹念に描かれる。恐慌のもと大資本の結成が進む一方、労働者への負担は蓄積し、29から30年に渡り相次ぐストライキが起こった。加えて生産力の低い農村への影響も甚大で、小作争議も年々拡大していった。

 第3章では、14年間に渡る大戦争の第一歩となる満州事変と、その後の幾つかの事件の問題が扱われる。ロンドン条約問題等で政府との溝を深めた陸軍は、すでに満州問題の武力解決を図る「満州問題解決方針の大綱」を決定していた。そして1931年関東軍の陰謀により、柳条溝で満鉄の爆破事件が引き起こされ、以後満州占領計画が進行する。32年には関東軍の内面指導下に置かれた傀儡国家である「満州国」が作られた。さらに33年には国際連盟を脱退し、満州事変によって醸し出された国民的興奮の中で、国際的孤立に向かって歩みを始めた。こうした中、国内で軍国主義化の先頭に立ったのは青年将校らであった。しかし、二・二六事件をもって、既存秩序の破壊を通じて蜂起するという形でのファシズム運動は終わり、以後、軍幕僚層を推進力とし、軍部による組織的なファッショ化が推進されると分析される。

 第4章では、日中戦争前後に、軍備が拡張していく様が描かれる。とりわけ1937年に発動された軍需工業動員法を皮切りに国家総動員体制が整備されていく過程は、言論統制や抵抗組織の解体などを伴い、日本のファッショ化が急ピッチで進んでいく歩みを表していた。

 第5章では、第二次近衛内閣が日独伊三国同盟を結んだ1940年から、1945年ポツダム宣言を受諾するまでの、太平洋戦争の歴史が描かれる。「情勢にたいする客観的判断と希望的観測とをとりちがえる常套的な過ち」であった南部仏印への進駐をもって日米交渉は亀裂し、41年12月8日の真珠湾攻撃を行った。また、マレー半島における陸軍の上陸も成功し、イギリス艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈するなど、緒戦は予想外の成功を果たした。しかし、政府・統制部はこの勝利に酔い、戦力の正しい評価を見失い、ミッドウェー作戦での大敗、ガダルカナル島撤退等により、日本軍は態勢を立て直すのが困難になっていった。一方、植民地支配に苦しめられていた東南アジアの諸民族は、各地でゲリラ活動を活発に展開した。また軍隊への動員、軍需工場への流出による農業労働力不足は、深刻な食糧危機をもたらした。初めて「特攻隊」を使ったレイテ戦の敗戦は、太平洋戦線を完全に崩壊させ、44年からは米軍機による無差別都市攻撃が始まり、45年8月には広島と長崎に原爆が投下された。加えて、ソ連の参戦は日本にポツダム宣言受諾へ踏み切らせることになったが、「国体護持」を巡って紛糾し、その間にも空襲の被害は増えていった。

 最終章で特筆すべき点は、まずその前半で、第二次世界大戦の性格を分析している点である。筆者によれば、それは第一に、双方からの反帝国主義戦争だったこと、第二にファシスト諸国の侵略に抵抗する反ファッショ戦争だったこと、最後に被抑圧民族の解放戦争という性格である。この三つの条件が絡み合い、その時々によって流動していたのが先の大戦だったという。

 本書の優れた点の一つは、「はしがき」でも示されているように、戦争へ突入する時代を、政治のみならず、経済や文化の側面にも注目して叙述している点である。とりわけ経済に関して、金融恐慌の裏でカルテル・トラストの結成を通じて大資本の産業支配が進行した様子、また文化に関して、第一次世界大戦後に世界で芽生えた新カント派の理想主義哲学やコスモポリタニズムが、戦争の惨禍を直接経験しなかった日本で、のちに厳しい試練を受けることになるといった指摘は、戦争へ向かうリアルな姿を浮き彫りにしている。さらに、歴史のアクターとして、為政者だけでなく民衆にも焦点を当て、両者がどのように課題を乗り越えていったか描いている点も優れた点だ。一方、最大の限界点は、政治・経済・文化に漏れて「科学」というモメントが欠落している点だろう。日本の敗戦は、科学戦の敗戦でもあったこと、戦時中の科学動員の経験が戦後の高度経済成長を支える人員を要請していたことなどはよく知られている。あるいは、2011年の福島の原発事故は科学技術と資本制が生んだ悲劇であった。昭和史は、現代における科学と社会をめぐる諸問題のルーツを示せる可能性があるが、それらを本書に見いだすことは困難だろう。

 

文献:遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史[新版]』(岩波新書、1959年)

 

昭和史 新版 (岩波新書)

昭和史 新版 (岩波新書)

 

 

佐々木隆治『カール・マルクス』を読みました。

 

 卒研等でなかなか読書が進まず、18日ぶりの更新となりました。

 

 さて、これからマルクスの『資本論』を読んでいこうと思っていて、そのための予習として本書を読みました。知人に良いと勧められて読んだのですが、予想以上に読み応えのあるたいへん濃密な内容の本でした。僕も含めてこれからマルクスを読んでいこうと思っている読者に対して本書は以下の点で優れた入門書であると言えると思います。

 第一に、本書がマルクスの最新の研究の成果を取り入れているということです。筆者はMEGAという新しいマルクス全集の編集にも携わっており、特にこの全集に収録されるマルクスの抜粋ノートに基づき、晩年のエコロジー、共同体論、ジェンダーといった多彩な研究志向を持っていたことなども明らかにされます。

 第二に、これが『資本論』の解説書に止まらず、マルクスの評伝的な要素も含んでいるということです。とりわけ第1章では、初期の若きマルクスの姿が、文献のみならず、父親や友人らとの書簡などの多彩な資料に基づき、彼の思想や私生活の一面を鮮やかに描き出しています。特に、イェニーとの結婚ややエンゲルスとの交流などはマルクスの素顔に迫る上で重要なトピックスでした。

 第三に、『資本論』を読解する上でのキーワードを、段階的に整理し、コンパクトにまとめているという点です。もちろん『資本論』の内容をこの一冊で理解できるはずはなく、実際僕も半分くらいしかわからなかったのですが、何が重要なキーワードなのかといったポイントはざっくりと抑えることができました。それに加えて本書では、『資本論』をいくつかのステップを踏んで順に解説を進めているので、自分はどこまで理解して、今後どこから理解を進めれば良いのかの見通しもつきやすかったです。ちなみに著者の佐々木隆治による『マルクス 資本論』という角川選書の文献も近年出版され、次にそちらに当たってさらに理解を深めようと思っています。

 

 改めて本書の構成をまとめると、第1章では、初期マルクスが文学、哲学から社会科学へと移行していく過程が忠実に辿られ、第2章では、『資本論』を、商品、貨幣、資本、恐慌、資本主義の起源と運命というアングルから、コンパクトにかつ正確に読み説かれていきます。(しかし結構難しい。) そして第3章では、晩年のマルクスの「物質代謝」という思想に注目し、彼がエコロジーや共同体論、そしてジェンダーまで広大な範囲までおよぶ思想を展開していた様が語られます。以下にそれぞれの内容を簡潔にまとめておきます。

 

 第1章を一言で言うと、マルクスの文学、哲学から社会科学への移行ということになると思います。初期マルクスは、「否定の契機」というダイナミックな理性を以って、近代社会=立憲君主制を変革するというヘーゲル哲学のラディカルな側面に注目した青年ヘーゲル派の一人であるブルーノ・バウアーと、現実に生きる感性的人間としての人間から哲学を構築しようとした「ヒューマニズムの哲学」のフォイエルバッハという二人の人物から多大な影響を受けますが、彼らはともに「意識の変革」という啓蒙主義の枠組みにあり、マルクスは次第にそれらを否定的に乗り越えようとしていきます。1843年から『独仏年誌』において発表された二つの論文においては、市民社会における利害衝突と近代国家の二元主義というヘーゲルの枠組みを民主制によって打開するのではなく、市民社会それ自体の分析によって克服されなければならないというビジョンに到達します。さらにその変革の担い手はプロレタリアートであるとし、理念による社会変革という青年ヘーゲル派から脱却していったと言います。その後、『経済学・哲学草稿』で、「疎外された労働」という市民社会における疎外を理論的に把握するベースを確立し、「なぜ、いかにして」疎外が生じているのか、現実的諸関係を分析し、その変革の可能性や条件を明らかにする「社会科学」の方向へと向かっていき、フォイエルバッハの哲学からも離れていきました。

 第2章では、いよいよ『資本論』の解説に入ります。マルクスは資本主義を分析するときに、最初に「商品」に注目しました。商品は資本主義においてこそ全面化するものだからです。商品には使用価値と交換価値という二つの価値がありますが、後者は需要と供給の関係から説明されます。しかし、需供関係が一致している場合の価格の乖離は、より多くの労働が費やされている商品ほど自然価格は大きくなるという「労働価値説」によって説明されます。労働価値説はマルクスが最初に考えた概念ではありませんが、彼は社会の物質的な再生産というシステムから客観的にその「価値」を分析しようとしたところに新規性があるといいます。(労働価値説の自然価格をマルクスは「価値」と呼び、この価値は価格変動の中心点であると説明されるのですが、分かったような分からないようなといった感じです。) 社会の物質的な再生産とは、適切な労働の配分と、生産物の配分がありますが、私的利害に基づいて自由に交換するだけの市場システムがどうしてこの再生産の仕組みを維持できるのかという問いが出てきます。そこで、マルクスは労働を有用労働と抽象的人間的労働という二面性を持つものとして捉え、それぞれの社会的意義を各々商品の使用価値と、商品の「価値」に表すことで、労働の社会的配分を可能にしていると説明されます。ここまではなんとか分かったつもりなのですが、この後の物象化や価値形態論から先は、十分に理解できませんでした。キーワードはなんとなく抑えることができたので、それらをじっくり時間をかけて理解していきたいです。

 第3章は個人的に一番興味深く読んだ章です。マルクスが化学者のリービッヒからインスピレーションを得た「新陳代謝」という概念を、「人間と自然との物質的な循環」という意味で捉え、経済社会の循環活動を説明するアナロジーとして利用したと言います。マルクスは、人間が自然の一部であることを前提に考え、人間が自然との物質代謝を自分の意識的な行為によって媒介し、規制し、制御することこそが労働であると考えていました。これは『経済学・哲学草稿』の疎外された労働とも深くつながるものだと感じました。

 

 と、ここまで長々と書いてきましたが、正直理解は50%くらいです。結論を繰り返すと、本書はマルクス入門として最適な一冊です。内容はそれなりに歯ごたえがありますが、本書から徐々に勉強を深めていくことも容易だと思います。おすすめです。