中村真一郎『この百年の小説』を読みました。

 

 日本は明治以来、政治、経済、法律、科学、軍事などを西欧先進国の水準を目指して吸収することに努めてきた。それは小説もまた例外ではない。日本は西欧諸国の小説に約100年遅れて出発し、それらの成果を追うようにして展開してきた。しかし、西欧の小説と日本の小説との間の決定的な違いは、前者の場合、小説家が社会の中に入って、社会の鏡として小説を創作してきたのに対し、日本の小説家はむしろ社会から背をむけ、孤独者として小説を創作してきたという点だ。日本の「私小説」が独特の展開を示してきたという事態はそのことを象徴している。そもそも小説というのは、その時代の社会的現実と「直接取引」をしながら作られるものだから、西洋社会よりも「遅れた」日本の小説が異なった歴史を辿るというのは自然なことだろう。本書ではそうした日本の小説のおよそ100年の変遷を、青春・恋愛・老年・少年・心理・感覚・家庭・社会・歴史・滑稽・西洋という観点から、西洋との比較を交えつつ俯瞰的に捉えようとした作品である。したがって、これを日本近現代史史書として読むことも十分可能だろう。そして、西欧文学にも精通した記述で、かつ、百編ほどの国内作品を縦横無尽に行き来し、透徹した分析を施すことが可能にしたのは中村真一郎のおびただしい読書量と、学識によるところが大きいだろう。(作品のチョイスに関しては、未完の作品が多数含まれていることは特筆すべき点だと思う。作家の筆が途中で行き詰まるとき、彼の内部の問題がより先鋭に浮かび上がることがしばしばあるから、この選択はむしろ自然なのだが。) そしてなにより、文章が明快で美しく、知的興奮に満ちている。日本文学が好きな読者に自信をもってお勧めしたい本だ。

 夏目漱石の『三四郎』を冷静に判断すると、ある違和感に気がつく。それは、三四郎と美禰子というせいぜい二十代前後の未熟な男女の素朴な恋愛を、あたかも「成熟した二つの人格の衝突と絡み合い」として、「高級」なものとして描いている点だ。もちろん、この程度の単純な恋愛交渉を、微細に描いたのは漱石の力量に因るということができるが、しかしここには、社会的現実との「直接取引」さらには、西洋社会をそのまま日本の現実に当てはまめることができないことから生じた興味深い事情が隠されていると言う。漱石の念頭には、当時の西欧社交界での大人の恋愛を扱った「恋愛小説」を典型があった。しかし、明治の社会通念としては、そうした大人同士の恋愛を自由に描くことは危険な試みだった。明治でかろうじて許されるとしたら、それは未熟な未婚の男女の間だけだった(ここでは女子というよりも十代の小娘というべき年齢だ)。つまり漱石は大人の恋愛心理をこの二十代前後の男女に移し替えて小説化するしかなかったのであり、それがその違和感の由来であるというわけだ。なんと面白い分析だろう。

 

さて、別の観点らの感想も記しておく。僕の中には、物語作品は社会性を帯びてほしいという考えがある。(本来、小説は社会との交渉の結果書かれるものだという作者の前提に立てば、このような願いは敢えて生じないだろうが、しかし今日の作品を読むと、そうでないように思える作品が多くてこうした願望を抱かざる得ない事情がある。) つまり見たいものだけを見るような、現実離れした額縁の中の空想的な小説よりも、何か社会に横たわっている矛盾や巨大な社会構造などを示唆し、問題提起してほしいという考えがあって、そういった関心から「社会」の章を読んだとき、(必ずしもこの関心と一対一対応しているわけではないが、)興味深かった文があったので、以下に引用しておこう。

             

 「現実の社会というものは、いわば無数の物語のからみ合いから成立している。それを一つだけの物語を作ることによって、社会全体の幻影を浮かびあがらせるということは、無理なのではないか、という疑問が当然、出てくるだろう。

 しかし、物語の筋というものは、それが必然性をもって作り出される時、読者は想像力を刺戟されて、その筋の背後に大きな全体の姿を幻覚することができる。(pp.291-220)」

 

 この文で注目すべきは、「想像力を刺戟されて」という部分だろう。そして、その想像力を喚起するためには、ストーリー(=?筋)が「必然性」を備えていなければならないという。それは現代社会との類比ということは異なるメカニズムだろう。それがいかに虚構の世界を描いていても、「筋」が読者を支配するほど正確であれば、そこに「社会」全体なるものが幻覚されるということだろうか。こういう作用は目にしたことがないが、類比よりもさらに高度な手法であることは疑いない。ここでは、こうしたドラマの背後に巨大な社会を想像される作品の具体例として、野間宏さいころの空』と大岡昇平『酸素』が挙げられている。ぜひとも一度読んでみたいものだ。

 

 

 

文献:中村真一郎『この百年の小説』(講談社文芸文庫、2019年)

 

 

 

 

 

三浦瑠璃『孤独の意味も、女であることの味わいも』を読みました。

 

 本書の内容=エピソードに直接言及する箇所があるので、未読の方はご注意下さい。

 

 

 

 著者の初めての本が出たとき、嬉しくて丸の内の丸善まで見にいったという。そのとき記念にとった写真には次女と、まるで自分のことのように嬉しそうに笑う夫が写っていた。しかし、その本の元になった博士論文を執筆している間、著者はすでに妊娠していた。「持てる力と魂をすべて込めた」博論を提出した翌月、長女を死産した。娘を喪ってもなお自分のキャリアを続けるべきかどうかはわからず、あとがきには珠の名前を残すことだけが大事なことだったという。大学院に入学したばかりの僕にとって、どこか他人事でない気がして、博士課程という身分も、博論も、女性研究者についても、考えさせれることが多かった。

 妊娠と出産がどれだけ肉体的にも精神的にも大変なことかは本書を読めば少しはわかるだろう。だがそれでも男である僕は、その苦しみは一生わからないのかもしれない。夫は、著者の生活を、金銭面でも精神面でもサポートした(夫は本当に素晴らしい人だ)。結婚や出産などはまだずっと遠い未来の話のような気がしていて、あまり考えたこともなかったしイメージもわかないが、現時点でこうした本を読んだことで、何か一つの地平が見えた気がしなくもない。

 この本のテーマのもう一つは、「孤独」だと思われるが、僕は結局、著者が抱える孤独の意味を十分に理解することはできなかった。そもそも人というのは本来みんな孤独であって、その「孤独」というのは、人それぞれ別の意味を持つものだと思った。

 幼少時代から著者は防音室の中にこもって、カーテンを開いて差し込む光で百科事典を読み、図書室の本棚に背中をピタッとつけながら読書の楽しみを享受していた。読書は、究極的に孤独で主観的な行為だ。読書は、人とつながる営みというよりは、人と断絶する行為だと思っているので、本好きのメガネ少女が、「キモい」と言われてメガネをはたき落とされたエピソードには、一種「孤独」といえる姿が垣間見えなくもなかった。しかし、それは僕が感じている孤独とは違うものだった。僕が感じる孤独は、世間とうまく交渉できない感じ、周りの環境としっくりいかない感じ、自分の考えがうまく伝わらない感じだ。特に、「親友が欲しい」と思ってしまったとき、僕は一番孤独を感じるのだ。一方、「異性の親友」を持っていた著者は、僕にとっては羨望の的だ。その異性の親友は、結局現在の夫になった。

それでも、孤独に関して示唆を受けた部分もあった。

 「人びとはしばしば恋愛と信頼を混同しがちだけれど、恋愛とは、不確実性の中で自分の気持ちを相手に差し出している状況であって、信頼とはまた少し違うものなのだと私は思っている(p.128)」という文は、恋愛の只中にあっても人は孤独であり続けているということを意味しているように感じた。相手の気持ちは結局のところわからないから、そうした不確実な状況の中で相手への期待値が膨らみ、恋愛が進行する。そしてその先に、相手の愛情を確かめることができたとき、不安から解放され、霧散するという。僕はこのメカニズムを経験したことはないけれども、不確実な中で人は孤独であるはずだし、愛と孤独というのは一体であるというのは、福永武彦が『愛の試み』の中で言っていた(と記憶している)ことにも通じるような気がして、興味深かった。

 

孤独の意味も、女であることの味わいも

孤独の意味も、女であることの味わいも

 

 

 

 

NHK取材班編『太平洋戦争 日本の敗因3-電子兵器「カミカゼ」を制す』を読みました。

 

 平成が終わり、令和の時代が始まろうとしている。

 平成の日本には、戦争がない平和な時代だった。しかし、令和はどうか。

 この先、憲法9条を始めとして、日本の安全保障のスタンスについて国民的な議論が求められることは、かなりの可能性でありうるだろう。そしてこの先、誰もが平和を望んでいても、戦争が起こらないとは誰も断言できないだろう。そのとき、かつての戦争とは異なる新しい戦争であることは間違いないが、そこに科学技術が大きな役割を果たすことは確実だ。科学は戦争に大きく寄与してきた。また逆に、戦争は科学に様々な影響を与えてきた。科学と戦争の複雑な歴史をもう一度捉え直し、それらを現代的にどう受け止めるか、また、かつての過ちを繰り返さないようにはどう議論していけば良いのかを考えることは、ますます重要になっているに違いない。

           

 本書は、NHK取材班によって行われた研究成果をまとめたもので、豊富な資料とインタビュー調査に基づき、マリアナ沖海戦を対象に、日米両国の科学技術力の差がどのような局面で現れたかを検証した本である。さらに興味深いのは、両国の研究体制や、用兵思想の違いまで踏み込んで分析されている点だった。(ちなみに、原著である単行本の出版は1994年である。)

 マリアナ沖海戦に敗北しサイパン島が陥落したことは、B29の航続距離内に本土をおさめることになり、後の本土空襲へと繋がっていった。そして、このマリアナ沖海戦では、日本のアウト・レイジ戦法が、米国のエレクトロニクス兵器、すなわちレーダーとその情報を統括する通信システム、そしてVT信管といった科学技術の力に敗北した戦いでもあった。

 この戦いで日本側の立てた作戦は「あ号」作戦と呼ばれるもので、ゼロ戦の長い航続距離を生かした作戦だった。しかし、それを迎えるアメリカ旗艦「レキシントン」には、CICという防御体制が組まれていた。これは敵機の高度や水平距離などの情報をキャッチする数種類のレーダーを装備し、それらの情報を整理し、戦闘司令室に集めるという仕組みである。これにより200キロ前方から位置を特定され、米国の戦闘機を高い位置に待ち構えさせ、日本側は急降下攻撃を加えられ、戦闘経験のない未熟練パイロットを中心とした航空部隊は無残な迎撃を受けた。こうしたCICの仕組みを考案したのは、アメリカの海軍調査研究所(NRL)である。ワシントンに位置するこの海軍の兵器開発の中枢的施設は、驚くべきことにあのトーマス・エジソンの提案のものに1923年に創設されたという。(ちなみに日本の海軍技術研究所の設立も同年1923年である。) 財政的にはアメリカ海軍から予算が支給され、海軍の管轄下にあるが、科学者らは独自の主体性を確保しつつ、兵器開発に従事できたことが、日本の体制と大きく異なる点だった。開発スタッフはアメリカ議会の実力者に試作機を見せ、その重要性を説得させることで、議会を通じて開発資金を獲得することもあったという。また、科学者自らが戦艦に搭乗するなど、用兵側との連絡もうまくいっていた。対する日本は、軍部の科学技術への理解は乏しく、また、訓練を受けていない科学者が戦艦に搭乗することも認めがたいといった文化もあったようである。

 マリアナ沖海戦で重要な戦績を果たしたのは、VT信管である。これは、砲弾の先に搭載された電波をドーナツ状に発する装置であり、目的物を感知すると直接当たらなくても自動的に爆発し、その破片と爆風で敵機を撃ち落とすという恐ろしい兵器である。その兵器開発を効果的に進めることができたのには、アメリカの組織的な動員体制に理由があった。

 1904年にカーネギーによって設立されたカーネギー研究所は、兵器開発のみならず、その体制作りにも大きな役割を果たした。1940年、所長であったバニバー・ブッシュは、ナチス・ドイツの台頭を受けて、ルーズベルト大統領宛に科学技術のエキスパートを集めて、それを国防のために利用する体制をつくるべきだという提言を出した。その提言の作成にあたっては、ブッシュの他に、MIT所長のカール・コンプトン、ハーバード大学学長のジェームズ・コナント、ベル研究所のフランク・ジュエットが名を連ねていた。その結果、同年、ブッシュを議長として科学動員の中枢機関であるNDRC(国家防衛研究委員会)が設立された。NDRCは、軍が必要としている兵器の意向を受け、その開発に最も適した大学や研究機関、科学者を斡旋し、さらにその兵器を大量発注する企業の選定までを行うコンサルティングやエージェントといった性格の強い組織だった。NDRCは着実に成果を上げていったが、全国に広がる兵器開発研究を監督する必要性が生じた。そこで、ブッシュは再びルーズベルト大統領に新たな組織作りを提案し、1941年にはOSRD(科学研究開発局)が創設された。これは、NDRCや、NACA(国家航空諮問委員会)の上部に位置する組織で、国内で進行する兵器開発計画の全体を統率した。ところで、VT信管はNDRCの働きかけで、「セッションT」に担当が割り振られ、その規模が拡大する中で設立された1942年にジョンズ・ポプキンズ大学内の応用物理研究所を拠点に、研究開発が取り組まれた。VT信管の製造には、電気技術よりもむしろ、発射の衝撃に耐えれるだけの強い真空管を作ること、また、発射と同時に爆発してしまう誤作動を回避することがポイントになった。科学者の創意工夫により、また生産ラインでの女性の労働が大きく貢献し、この兵器の大量生産が可能になったのだった。

 対する日本では、陸軍と海軍の対立は著しく、また情報も過度に秘匿する傾向にあり、研究の連絡は希薄だった。さらに、海軍の内部でも艦政本部と航空本部の対立といったセクショナリズムが顕著であり、アメリカの組織的な動員体制とは大きく異なっていた。コンプトン調査の、「日本には有能な科学者が多数いたという証拠があり、彼らは適した組織があれば、戦時における研究活動にかなりの貢献をしていただろうと思われる」という診断は、科学者の能力の差というよりも、動員体制の組織作りの問題が大きかったということを表している。(もちろん生産力の違いも大きかっただろうが。)

 戦争と科学技術や科学研究との歴史的な関わりをどう受け止めるかということは、非常に難しい問題だ。日本はアメリカのように高度な動員体制を整えることはできなかったが、それでもある面では、現在の科学研究の基盤(例えば、科研費や共同研究の経験など)を築いたという遺産もある。それは戦争がもたらした科学自体にとっての成果とも言えるが、しかし一方で、同時に科学は戦争においては取り返しのつかない破壊力を持つようにもなっている。まず科学者は、国家との絶えざる緊張の中で科学研究を行わざるを得ないという自覚を持たなければならないだろう。しかし、もう一歩進んだ議論も必要だと思う。

 それは、科学技術が近代戦において発揮してきた巨大な破壊力についての省察だ。そこには、政治的な次元とは別に、科学技術が持つある種独特な暴力性についても考察も含まれるだろう。

 

文献:NHK取材班編『太平洋戦争 日本の敗因3-電子兵器「カミカゼ」を制す』(角川ソフィア文庫、1995年)

 

太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器「カミカゼ」を制す (角川文庫)

太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器「カミカゼ」を制す (角川文庫)

 

 

 

 

福永武彦「かにかくに」を読みました。

 福永武彦はやっぱり面白い。

 定期的に読みたくなる。(それも、ひっそりと…。)

「かにかくに」は、彼のデビュー作である「草の花」の元になったと言われるレアな中編小説だ。(福永武彦研究会による年譜によると、本作品は作家が18歳のころに発表されたという。作中の主人公と同い年だ。)しかし、本作品を読むと、その「草の花」の登場人物である藤木忍が登場人物するものの、基本的には全く別の小説であることが分かる。(草の花はずっと前に読んだので詳細は忘れてしまったが、草の花は2部構成である点で、少なくとも構成や物語プロットは異なるはずだ。) そして、最初期の作品でありながら、明晰でありつつも福永独特の音楽的な文体がすでに貫徹されており、さらに驚くべきことに、福永が本作品をフィクションとして、知的に構成されたストーリーを伴った創作として彫塑しようという靭い意思を認めることができる。好きなことを好きなように書いただけのエッセイ風の私小説とは全く異なるのだ。18歳でこうした作品を書いたということに、ただ驚かされるばかりだ。
 
 ところで、人は、他人の自分と似ている箇所に惹かれるのだろうか。あるいは、逆に、自分とは正反対のものを認めたときに惹かれるのだろうか。確かに、性格が瓜二つで趣味嗜好が似ていれば、話は合うにちがいない。しかし、僕は自分はもっていないもの、自分とは真逆のものをもっているからこそ、ある種の他人に惹かれるのだと思っている。でもそのちがいは同時に、お互いを引き裂いてしまう可能性も同時に秘めているのではないか。

 「僕が理科で、君が文科であるやうに、性格はあらゆる点で正反対です。そしてそれ等は相克し合つても打ち消し合ふことはないのです。二人は別々の道を歩むのが、お互いに幸せなしかただと思ふ……。」(219頁)
 
 自分では決してできないことが、あの人にはできたりする。自分が悩んでいた問題が、あの人にとっては何事もなかったかのように、無傷であったりする。あの人は、自分とは別種の人間なんだと思う。だからこそ、その人を尊敬してしまうし、自分より上手に見える。しかし、その自分との差異が、同時に齟齬の根源でもありうるという逆説。
 主人公である普も、自分とは正反対の藤木に恋をするが、藤木に拒まれ、煩悶する。普は、強烈に恋の味を確かめる。そうしてふられても諦めきれずに、もう一度会いにいこうとする。行き場を失った彼はある悪魔的な作戦に出る。そして、最後は予想さえしない、衝撃の結末となる。美しくも、悲しく、さらにはサスペンス要素さえ備えた青春小説である。

 

 

福永武彦 (未刊行著作集)

福永武彦 (未刊行著作集)

 

 

 

橋爪大三郎『戦争の社会学』を読みました。

 

 戦争を防ぐためには、戦争のことを知ることが必要だ。戦後日本には軍がいないこととし、軍について語ることをタブー視してきた。しかし、戦争はどのような仕組みのうえに成り立っているのかを理解することなしに平和を望んでも、その実現は空想に終わってしまうのではないか。説得力のある議論を積み上げるためには、軍事史や「戦争社会学」を学ぶことは有意義なことのはずだと著者はいう。(本書は「軍事社会学」の講義をまとめたものだが、軍事史との違いは、軍隊=テクノロジーと組織のうち、組織の法則性に着目し、そこに普遍的なパターンを読み解こうとする「科学」的な指向性が含まれていることではないかと思った。)

 

 序章は、「戦争とはなにか」についてのラフなスケッチである。クラウゼヴィッツ戦争論』(1832年)の有名な定義には、戦争とは「相手を我々の意思に従わせる暴力行為」であるとある。ここからわかるのは、まず戦争は意思をもった主体が起こすということだ。ただし、クラウゼヴィッツは、その戦争主体を個人の闘争と連続的に捉えているという。国家が戦争主体となるのは、あくまで近代以降の話である。また、暴力の行使に関しては、犯罪であれば違法になるが、戦争においては、同じように暴力の行使を伴っても犯罪になるとは限らない。(戦争犯罪というものがあるが、それは戦争自体を犯罪とするものではない。)戦争とは、相互に承認された交戦権をもった主体が決められたルールに従って暴力を行使する、一種の制度なのである。(そのルールの形成についてはのちに解説されることになる。)

 

 第2章は、古代の戦争についてだ。農業を営むようになるいわゆる「定住革命」に伴い、社会階層が分化し、農地をめぐる対立が生じた。紛争が深刻化すると、住居の周囲を城壁で囲む「都市国家」が形成された。それは、武器を作る職人、調達する商人、実際に戦う軍人、それらを指導する王を含んだいわば「戦争マシン」であったという。ところで、古代において、武器の発達は、石器→青銅器→鉄器という具合に進んだ。青銅器を使うようになるのは、紀元前3500年くらいで、融点が低く様々に加工できるので、盾や鎧などの武具を作れるようになった。そこへ、馬に引かせる戦車が加わり、武装した戦車が青銅器時代の標準的な戦闘装備となった。それから2000年くらいして、鉄器が用いられるようになる。鉄器は鍛造して鋼を作ることができる。さらに安価で大量供給することができた。そこから農民を武装させた歩兵が登場し、集団戦法が発達する。紀元前1000年ごろになると、馬に騎乗することができるようになったことから、騎兵も登場する。そこで、歩兵が騎兵に対抗する弩(いしゅみ)がつくられた。歩兵の武力が高まることに伴って、平民階級の発言権も高まることになった。

 

 第3章は中世の戦争についてだ。中世は戦争の規模も内容も、小ぶりで地味なものになったという。その大きな要因は、キリスト教だった。キリスト教が戦争の抑止の機能を果たしたのは、第一に、キリスト教は唯一であり、すべての領主権力を正当化できたこと、第二に領主権力に介入できたこと(破門など)、第三に奴隷制を否定したころが大きかった。自己武装した領主が騎士や貴族であったが、保守的な領主の支配に対して、都市は領主権力から自由であり、身分によらない武装集団を育てた。こうして、中世から近世にかけての軍事技術の革新の主役となっていった。

 

 第4章は、軍事史上では革命とされる火薬の発見とそれに伴う軍事技術の展開について述べられる。火薬は中国で発明されたといわれるが、いつのことかはよく分からない。ただし、13世紀半ばには、モンゴル軍が火薬を用いたという記録が残っているという。火薬を用いる軍事技術は、大砲と銃である。大砲は、15世紀ごろまでには可動式のものができた。大砲は要塞や城郭を破壊することができるため、封建制の基盤を崩すことにつながる兵器だった。一方銃はは、19世紀半ばにライフルが開発されるまでは、マスケット銃が用いられてきたが、これは銃身の中をらせん状に切ってある前者とはことなり、ただ筒のようになっているタイプの銃だった。マスケット銃の欠点は、射撃の準備に時間がかかることだった。そのため、パイク兵と呼ばれる長い槍をもった兵士が正方形状に囲み、その中で射撃の準備作業を行うことで、騎兵の突入を防いだ。その後17世紀にマスケット銃の先端に剣をつけた銃剣が発明されると、銃が白兵戦にも利用できるようになり、パイク兵は不要になった。マスケット銃や大砲は、使い方さえわかれば誰でも戦闘の主役になれた。騎士や領主に代わって、それらを操作でき、その費用を負担できる人々が、軍事力はさることながら政治力を手に入れるようになった。18世紀に入ると、軍隊の数も増え、組織的な問題などの軍限界が見られるようになり、作戦命令を作成し、指揮系統を握る参謀将校や、作戦単位である師団(division)を設けるといった改革がおこなわれた。しかし、軍事史上大きな革命を伴ったのは、ナポレオンの軍事革命だった。ナポレオンの革命の要点は、フランス共和国ナショナリズムを背景にした徴兵制による圧倒的な兵員の確保、横隊から縦隊への戦術の革新、容赦のない残滅戦の三つに集約される。

 

 第5章 グロチウス国際法では、1625年の『戦争と平和の法』において確立した戦時国際法の基礎について述べられる。グロチウスは、法を自然法、意思法、万民法に分け、戦争は自然法に反しないと主張する。自然法とは、神によって立法された法で、人間は理性によってそれを発見できるという。集団的自衛権を含めた自衛権は、この自然権に基づくものである。さらに、戦時法規に従って戦闘に銃時していれば刑事責任に問われないという兵士の免責や、捕虜を一つの身分とする規定が盛り込まれている。興味深いことは、グロチウスはこの中で毒を用いて戦争をすることを禁じていることだ。それは、「強力な軍隊をもつ国が覇権を握るという当然の秩序が、毒によって脅かされると人々がかんじるから」だという。『戦争と平和の法』を通じて、グロチウスは、戦争が不可避の出来事だったとしても、そこにはルール、人道、信義があるということだった。しかし、この時点では、まだ大量破壊兵器は現れていなかったことに留意する必要があるだろう。現代の兵器体系を知る我々から見ると、グロチウスの時代はまだ牧歌的であったとさえ言えるかもしれない。

 第6章では、再びクラウゼヴィッツの『戦争論』が取り上げられる。プロイセンの軍人であったクラウゼヴィッツはナポレオン軍の圧倒的な力に衝撃を受け、プロイセン陸軍の近代化を目指し、本書の執筆にとりかかった。1832年の書物だが、戦争に関して科学的・体系的に論じたほぼ唯一の書物であるという。戦争は、戦闘力、国土、敵の意思の三つを脅かし、講和条約に調印させることを目的としているという説明は、戦争についてのとても新鮮な定義だ。また、戦略と戦術を区別した点も興味深い。戦略は、戦闘それ自体において秩序立てて遂行することとし、これを指揮官が担うとした。一方、戦術とは、戦闘を連合させ、戦争に目的に結びつけることとし、これを参謀が担うとしたと考えた。

 第7章は、マハンの『海上権力史論』(1890年)が取り上げられる。クラウゼヴィッツ戦争論』が陸軍の古典であるとすれば、本書は海軍の古典である。軍艦の種類の説明等はわかりやすかったが、本書の要点はよく理解できなかった。とくに、シーパワー(海上権力)と制海権の違いも十分に理解できなかった。

 第8章は、政治家ビスマルクとタックを組んで、ドイツ帝国を誕生させた参謀のモルトケについての話だ。参謀(staff)とは、いわば軍のブレインで、軍令部のことを指すといってよいだろうか。稀有な軍事的才能を持ったナポレオンは、戦略や作戦の立案まで一人で行ったため、フランスには参謀の制度が育たなかった。一方、ドイツでは、シャルンホルストらによって参謀の仕組みが整備されていった。普仏戦争でのモルトケの参謀の名声は世界中に広がり、日本にも軍政を担う陸軍大臣に対し、軍令を担う参謀総長が生まれた。海軍では、参謀総長ではなく、軍令部長という。ちなみに戦時には参謀総長軍令部長とが大本営を構成する。

 第9章では、第一次世界大戦の特徴について述べられる。それは、(1)攻撃力を防御力が上回ったことから生じた持久戦、(2)経済と社会の全体が戦争に奉仕するように再構成させた総力戦、(3)戦車、飛行機、そして科学(化学・生物)兵器といった新兵器の利用、の三つに要約される。グロチウスが毒の使用を禁止していたことを思い出して欲しい。毒は古代から戦争で使わないことがルールだった。それはなぜかということを、本書では実証しているわけではないが、筆者の考えでは、毒が本質的に弱者の武器であったからだと推論する。つまり、毒は兵力を持たない人間が、容易に兵力をもつ人間を倒すことが可能であるため、職業的な戦闘員にとって受け入れがたいものだったというのだ。(ここには戦争を一種の「文化」とみなす眼差しがあるだろう。戦後の私にとっては理解に苦しむが、当時の歴史的文脈の中ではそれが真実だったのかもしれないとも思う。)しかし、戦争が膠着し、決着がつかないため、ルールを踏み越え、科学兵器を利用するしかなかったのが第一次世界大戦であったという。あまりにも凄惨な戦争であった第一次世界大戦は、近代文明に対し深刻な打撃を与え、科学と人類の進歩を無批判的に信じてきた素朴な価値観に揺さぶりをかけた。第一次世界大戦をきっかけに、1928年にはパリ不戦条約が結ばれるなど、平和主義が広がり、人々の考えは変わった。しかし、日本はこれを素通りした。

 第10章は第二次世界大戦についてだ。第二次世界大戦の特徴として、グデーリアンが編み出した電撃作戦と、空母を主体とする機動部隊の戦力化、航空機による無差別爆撃、そして原爆の利用などが挙げられる。無差別爆撃というのは、輸送施設や、軍需施設などを攻撃目標として破壊する戦略爆撃から結果として避けられない巻き添え被害(collateral damage)を承知の上で、都市部を絨毯攻撃することを指す。民間人を意図的に殺傷することは、戦時国際法に反するのではないか。本書では、相手国が先に行った場合には報復として同様の行為が許されるべきだという法理も存在するため、アメリカの日本本土空襲もそれによって正当化される可能性があると指摘される。しかし、これは本当なのだろうか。何に対する報復なのか、その法理はどのように導かれるのかといったことが示されていないので、このあたりの記述はとても曖昧である。

 第11章は、日本軍の「奇妙さ」について考察される。ここでは、資料として、将校のマニュアルである『歩兵操典』、『作戦要務令』、指揮官と参謀の作戦立案の基本となる考えが述べられた『統帥綱領』、『総帥参考』などが扱われる。『統帥綱領』に関して、著者は、第一次世界大戦後の戦略思想を全く取り入れておらず、物量における劣勢を、統帥と精神力で補おうとする非合理な精神主義が目立った書物であると述べる。さらに、そのギャップをうめるべく、毒ガスの使用も辞さないとされた。『統帥綱領』は戦後全て焼却された。それは、毒ガスが実際に使用され、その使用の責任は、最高統帥である天皇に及ぶと考えられたからであるという。

 最終章では、テロと未来の戦争について述べられるが、興味深かったのは、ロボット戦の倫理問題だった。生命を持たないただの機械である戦闘ロボットは、すでのアメリカのDARPAで研究開発されている(「ビッグドッグ」)。

 

 機械による一方的な殺人は、許しがたい倫理的な問題があるように思える。しかし、本来戦闘資格のないテロリストに対してならば、その利用の垣根は低くなるかもしれない。また、日本でも、自衛隊の代わりに戦闘ロボットを配備すれば、「自衛隊の命を守る」ことを保証しつつ、軍事的な安全保障の整備に寄与できるかもしれない。つまり、戦闘ロボットは、一面では導入されるべきだという素地もある。特に戦争はルールを伴った制度であるという見方だけでは、戦闘ロボットの導入を批判することは難しい。戦闘ロボットの導入に潜む倫理的な問題は、より深い次元で議論されなければならないと思った。

 僕は、それは「殺傷の感覚」にあると思う。これは仮説でしかないが、おそらく兵器の歴史は、徐々に「殺傷の感覚」が小さくなるように発展してきたのではないだろうか。(無論これを示すためには、軍事史や兵器の技術史を詳細に紐解く必要がある。) そして、戦闘ロボットに至って、殺傷の主体はネットワークの中に埋没し、殺傷が宙に浮いてしまうのではないだろうか。それは、単に兵器あたりの殺傷可能な人数が増えたということではない。確かに、科学兵器の本質は、大量破壊というところにあるのかもしれない。しかし、ここで問題にしているのはあくまで、主体と客体との関係の問題だ。戦争は国家レヴェルでなされるが、実際の人間が戦闘主体である限り、個人が他者(等)に暴力を行使し、場合によっては生命を奪う。そうした人間同士のやりとりが大量破壊兵器の使用によって変質し、無人戦闘ロボットにおいて、最終局面を迎えるのではないかと思う。

 

文献:橋爪大三郎『戦争の社会学-はじめての軍事・戦争入門』(光文社新書、2016年)

 

戦争の社会学 はじめての軍事・戦争入門 (光文社新書)
 

 

 

鳥海靖『もう一度読む日本近代史』を読みました。

  

 修論では、日本の近代科学史、とくに戦中・戦後あたりを対象とする予定なので、日本近代史の土台をつくらなければならないと思い、最初に本書を読んだ。

 政治史を中心とした、ベーシックな教科書といった印象だった。扱われている時期は、18世紀末の開国から終戦までである。僕は高校で世界史を履修していないので、「もう一度」ではなく「初めて」読む日本近代史の教科書スタイルの本だったが、本書を読めば、おそらく高校で習う必要最低限のエピソードを、網羅的におさえることができそうだった。政治史中心といったが、もちろん経済、文化、科学、など他の側面についても、ある程度のことはカバーされている。しかし、文化や科学については、軽く触れられる程度で、時代的背景とのつながりや、国際比較などの視点には欠け、岩波新書の『昭和史』などと比べて物足りなかった。

 序章「日本近代史をどうみるか」では、著者の歴史記述への考え方が表明されており、なかなか面白い。敗戦直後1960年代あたりまでは、マルクス主義の影響の元、西欧との比較の中で日本の「遅れ」「ゆがみ」「反封建的性格」などが説かれ、近代史の否定的評価が濃厚だったという。(このあたりは、科学論の文脈でしばしば言われる、敗戦=科学戦の敗北として、合理的な科学振興による戦後復興が目指されたという議論とシンクロするに思える。) しかし、著者はそうした見方に疑問を抱く。それは第一には、比較対象とする「西欧」の理解が観念化されていること、「遅れ・ゆがみ」論が制度上の運用という側面を軽視していること、さらには当時の時代状況を無視し、今日的な価値基準によって判断していることが問題であるという。そうではなく、「西欧の衝撃」に対して日本独自の条件の中で、自前の方法で異文化を吸収し、近代化を進めていった過程に注目するいわゆる「近代化論」が、その後日本人研究者の中にも浸透していき、著者も基本的にはこうしたスタンスに与していると思われる。

 

 文献:鳥海靖『もう一度読む日本近代史』(山川出版社、2013年)

 

もういちど読む山川日本近代史

もういちど読む山川日本近代史

 

 

丸山俊一『14歳からの資本主義』を読みました。

 

 自分が生きている社会はどんな仕組みのうえに成り立っているのかを俯瞰的に捉えたいという思いを、絶えず抱いている。聞き慣れた言葉や、なにげない生活のやり取りの中にも、無意識のうちに固定化された物の見方や価値観が、潜んでいるかもしれない。一度立ち止まってそれらを振り返ることは、暗黙のうちに前提にしていた条件付けに改めて注意を向け、これから何を考えていかなければならないのかという問いに、ヒントをあたえてくれるかもしれない…。そのとき、「資本主義」という現代社会の根本を形づくっている巨大なシステムについて、その本質をわかりやすく解説した本書はそうした試みにとって有益なサポートになるだろうと思った。

 

 資本から価値を生み出すことで、際限のない拡大を至上命題とする資本主義は、しかし、19世紀には見られなかった新たな状況を、21世紀の今日に生み出し、複雑化させている。本書では、それを、(1)グローバル化、(2)「共感」の商品化、(3)デジタル技術の進歩という三つの要因を挙げ、まとめている。僕が面白かったのは、(2)と(3)だった。

 

 物質的な豊かさが達成されると、物が欲しいという消費行動から、サービスや、心を動かされる感動体験などの「精神」にお金を払うようになる。言い換えればモノ消費からコト消費へと移る。そんな後者の状況を、ポスト産業資本主義という。ポスト産業資本主義では、「精神」や「心」という領域までにも商品が介入し、「『共感』が商品となる時代」ともいえる。確かに、自分の最近の消費行動を振り返ると、食費や移動費などを除くと、友達との交際費や、映画鑑賞、音楽のレンタルなど、やはり精神的な満足を得ようとするところにお金をかけていたように思う。たまに服を買ったりするが、モノというよりは、ほとんどがコトを消費することが中心になっている。ここで問題なのは、感動体験という商品は、主観的な価値観に大きく依存していることだ。しかし、そうした価値は、個人の主観によって決まるものだろうか?あるいは、決めることができるだろうか?筆者は、ここで、「すばらしいから◯万円の価値」という論理から、「◯万円もするからすばらしい」という論理にすり替わってしまうのだという。筆者は、「共感が商品化する」という言い方をしているが、僕はむしろ「共感」が商品の価値を決める大きな要因になっているように思った。特に、流行になっているものを見たり聞いたりして、「やっぱり良かった」と感じたとき、共感が商品になっていたことでもあるが、他の大勢の価値観に共感したことで商品を消費したという見方もできるだろう。あるいは、「推しメン」と言われた誰かに共感して、何かを消費するといったこともたくさんある。

 

 さらに現代の資本主義は、テクノロジーと切っても切れない関係にある。特に、デジタル技術は、「成長」というよりは格差などの「分断」をもたらしていることが問題になっているという。「世界標準」を握ったGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)という言葉ができる一方、特にアメリカではAIなどのテクノロジー中産階級から仕事を奪い、低スキルで低所得の仕事への転職を余儀なくされ、上位10%が残りの90%を逼迫し、二極化を進めたという。ここでは、テクノロジーの労働力の方が、市場において人間の労働力よりも価値をもつという、人間とテクノロジーの逆転した関係が見られる。

 そうすると、シンプルに、浮かび上がる疑問としては、テクノロジーが既存の職を奪うとき、新たな職は生じないか。二極化にあわせて、これまで以上に所得の高い層から低い層へお金を配分することはできるか。本書でも触れられるベーシックインカムは妥当性をもつか。あるいは、そもそも社会の中で人間の職を失うという方向はネガティブなことなのかどうか…といったことが浮かぶ。こういった問いは、他の関連書籍なども頼りにしながら考えていきたいと思った。

 また、個人的に興味深かったのは、インターネットが需要と供給をマッチさせる上で有効に機能し、その意味で資本主義の力を加速させているという論点だった。このようなネットワークメディアと、資本主義の関係性についても、面白そうなテーマだと思った。

 

文献:丸山俊一『14歳からの資本主義-君たちが大人になることの未来を変えるために』(大和書房、2019年)

 

 

14歳からの資本主義~君たちが大人になるころの未来を変えるために

14歳からの資本主義~君たちが大人になるころの未来を変えるために