yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

鴻池留衣『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』を読みました。

 

 何かすごいことが書かれていたという漠とした余韻を残しつつも、結局何が言いたいのかよくわからない作品だった。

 単行本の帯に書かれているように、本作は「ポスト真実」の時代をテーマにした作品のようにも思える。というのも、登場するのは、架空のバンド「ダンチュラ・デオ」をコピーした偽バンドであり、その「ダンチュラ・デオ」についてのWikipediaページの項目に沿って、物語が進行していくのだ。

  ある時、慶大のバンドサークル「キエンギ」内で、主人公の僕がふとしたことから、喜三郎が言及した「ダンチュラ・デオ」の名前を聞いたことがあると言ってしまったことを発端に、その架空バンドをコピーする活動が始まり、奇想天外なストーリーが開始する。

 「ダンチュラ・デオ」とは何のか?喜三郎とは誰なのか?有森とは誰なのか?アルルは何者か?ありとあらゆる登場人物の正体が謎に包まれ、何が真実なのか、読者は混乱の海の中に飲み込まれていく。ハードボイルドな描写や、めまぐるしいストーリー展開。僕らにできることは、ただただ作者を信用して、末尾まで読み進めるだけである。

 

 しかし、これが「ポスト真実」か、、、といった唸るような衝撃や感動は起こらず、全体としてOO7のようなスパイが活躍するアクション映画のような、陳腐な物語といった読後感が残ってしまった。

 とはいえ、これは今まで読んだことのない、斬新な小説であることは間違いなかった。

 Wikipediaの体裁を取りながら物語を進行させるアイデアは興味深い発想だった。が、それも一種のレトリックとして用いているだけで、実際のWikipediaのページ本文のようにはなっていないという点も、残念に思われた。これを仮に、本物のWikipediaのページを模したように書かれていると、より面白いと感じた。

 ロックバンドという素材も、本作のハードボイルドな文体によくフィットしていると感じたが、もし「ポスト真実」をテーマに小説を書くのだとしたら、別のアプローチもあり得ただろう。

 

 

ジャップ・ン・ロール・ヒーロー

ジャップ・ン・ロール・ヒーロー

 

 

坪井大輔『WHY BLOCK CHAIN』を読みました。

 

中田敦彦YouTube大学を見て購入した。

 

www.youtube.com

 

 先日、佐藤靖『科学技術の現代史』で、中央集権型から自律分散型への移行という歴史観が示されているということを書いたが、ブロックチェーンこそ、まさにその自立分散型の技術に該当するのではないか。

 

前提として、本書はビジネスの本だ。したがって、主眼はブロックチェーン技術をビジネスの場面でどのように実装できるか/できないかを論じる点にある。ただ、我々はどんな世界に向かおうとしているのかを考える際に、有意義な示唆を与えてくれる、興味深い本だ。

 

 過去10年間に、IT業界において「四種の神器」と呼ばれるものが、「IoT」、「クラウド」、「ブロックチェーン」、「AI」である。IoTでデータを集め、クラウドに保存し、ブロックチェーンで仕分けをし、セキュリティー対策を施し、ATで分析・活用する。特に2020年からは5Gの運用が始まり、「人の常時オンライン化」から派生するサービスやビジネスは一気に加速する。しかし、この「四種の神器」のうち、ブロックチェーン以外の分野では、すでにGAFAの寡占状態にある。ブロックチェーンだけが、GAFA-killerとして、注目されているのだ。

 

 ところでブロックチェーンとはなんだろうか?本書では、それを(1)暗号化技術、(2)コンセンサスアルゴリズム、(3)P2P、(4)DLTの四つのキーワードのよって説明される。正直に言ってよくわからなかったので、他の本で補おうと思う。ちなみに、このブロックチェーンを運用した最大の例がビットコインである。だから、ブロックチェーンビットコインという関係ではない。

 

 ブロックチェーンには、適するパターンと、適さないパターンとがあるという。適さないものとしては、(1)一件あたりのデータが大きい場合、(2)特定のデータのみを検索してすぐに取り出したい場合、(3)管理対象が、固体管理に向かない場合、である。

 

 ブロックチェーン技術の本質は、自立分散型のネットワークを形成することだ。ビットコインは、ある企業が運営している訳ではない。それはむしろ、ビットコインというシステムが、人間を自動的に使う世界なのである。ブロックチェーンの可能性を理解するためには、この視点に立たなければならない。

 

 

WHY BLOCKCHAIN なぜ、ブロックチェーンなのか?

WHY BLOCKCHAIN なぜ、ブロックチェーンなのか?

 

 

大淀昇一『技術官僚の政治参画-日本科学技術行政の幕開き』

 情報量が膨大で、非常に難解な書物だった。

   最低3回は読まないと、理解できないと思った。

 ここでは、どんな本だったかということだけを、大まかにスケッチしておく。

 

 本書で、著者は、政府の中の技術者=技術官僚が、明治以来の歴史の中で、いかに自らの地位を高め、科学技術の立場を政策決定・行政過程の中に反映させようとしたか、その苦悩の歴史を描く。戦後の技術官僚は、戦前とは比較にならないほどの高い地位を保持し、場合によっては、自らの専門的判断や欲求を暴走させてしまう契機の増大ということにもつながったなどとも言われる。にも関わらず、今の国家社会は高度に発達した科学技術に支えられており、行政における科学技術的判断の重要性は、いささかも揺らぐことはない。しかし、意外なことに、元来、技術官僚はポスト御雇外国人的立場に置かれ、法科系の官僚に比べれば低い地位にとどまっていたのである。

 

 明治以来、日本が近代化をとげるために形成しなければならなったのは、社会資本(=「国民経済や社会全体の基礎としてその円滑な運営のために必要とされる施設」)であった。とりわけ重要だったのは、鉄道と電信というが、もちろん当時の日本にはこれらを建設する技術者は皆無だった。そこでイギリスのcivil engineerであるE・モレルをはじめとする御雇外国人を来日させることで、社会資本の形成の指導に当たらせた。その後、1871年に工部省が設置され、イギリス人技術者と代替できる日本人技術者の要請を目指して、工学寮という教育機関も発足された。工学寮は明治10年に工部大学校となり、工部省の直轄となる。(内務省農商務省の話は十分にフォローできていない。)技術官僚になりうる人材が出るのは、明治12年あたりからであるが、日本人技術官僚はお雇い外国人のあくまで「代替者」という位置付けであり、助言者、脇役という地位に留め置かれた。そのことを制度的に保証していたのが、文官任用令であり、文官任用令だった。技術官僚らは、こうした制度と戦っていかなければならなかった。

 青年期の宮本武之輔は、「行政官に対する戦争」、「一部に対するengineer、全部に対するmanager」、「技術の対外的独立および対内的独立」といったスローガンで特徴付けられる決意を固めた。第一次大戦以降、彼らは様々な運動を展開する。その中に、興亜院技術部の設置や、企画院科学部の設置といた成果が位置付けられる。ちなみに、「科学技術」という日本語も、商工行政や文部行政と抵触しない行政領域をくくり出すべく、発明された。それは、科学技術新体制確立要綱になどに結実することになる。

 

 

技術官僚の政治参画―日本の科学技術行政の幕開き (中公新書)

技術官僚の政治参画―日本の科学技術行政の幕開き (中公新書)

 

 

ヘリガ・カーオ『20世紀物理学史(下)』19、20章

以下、勉強会で担当になった章のレジュメです。

核物理学は門外漢なので、あくまで大まかな議論の流れを抑えたものになります。

 

 

第19章 核にまつわる問題

1 原子核の物理学

・戦前は、陽子と中性子原子核内に保持している力についてはほぼ何も知られておらず、核子(陽子と中性子)の間で中間子が交換されるという湯川の理論が、核力の理論として最良の試みとみなされていた。

・戦中も、強い力(核力?) について満足いく説明ができなかった。

∵(1)湯川中間子(パイオン)やそれの核子と相互作用についてあまり知られていなかった。

(2)中間子は一種類しか想定されていなかった。

・1950年ごろまでには、核についての2つの主たる理論が唱えられていた。

(1)液滴モデル:原子核は高密度で圧縮不可能な小滴であり、核子は水滴中の分子にも似て、ほかの核子と強力にかつ集団的に結びついている。

←1930年代後半に好まれ、ボーアとホイーラによって展開された理論。

=核を集団的な系とみなす。

(2)殻モデル:1933年に、ヴァルター・エルザッサーによって提案。1948年になると、殻の配置についての実在性がはっきりしてくる。

←マーリア・ゲッパート=マイアーは、2個、8個、20個、20個、82個、126個の陽子、中性子をもつ核は安定しており、これらの「魔法数」は核内の閉殻を表していることを論じた。

←殻モデルでは、それぞれの核子が他の核子と独立に、核の場の中でほとんど乱れることのない軌道を運動していると考える。

=核を独立の粒子とみなす。

→1950年に、コロンビア大学のジェイムズ・レインウォーターは、核の形状が球型ではなく、回転楕円型に歪んでいるという示唆を得る。

同じ時期、オーア・ボーア(ニールスの息子)とベル・モッテルソンは、ニールスボーア研究所(コペンハーゲン)で、回転楕円体系の回転する原子核に基づくモデルを開発。

→表面振動(液滴の特徴)と、単一粒子の励起(殻モデルの特徴)とが結びつけられていた。

→三人は1957年に「原子核の内部構造に関する彼らの研究」に対してノーベル賞を受賞。

・ロバート・ホフスタッター:巨大な特別仕様の分光計で散乱された電子を検討し、そのデータから、核の電荷密度が中心からの距離に伴ってどのように変化するかを推論した。

→陽子と中性子が同じ粒子の異なる側面であること、この核子は有限の大きさであること、核子電荷密度は中心からの距離とともに滑らかに減少することなどが分かった。

 

2 現代の錬金術

・1941年、ネプツニウム[93番]とプルトニウム[94番]の発見とともに、超ウラン元素(=ウラン[92番]より重い元素)の製造という新たな領域が開かれた。

←グレン・シーボーグ(1961年に原子力委員会の委員長に任命)がこの領域の巨匠に。

・1944年にはアメリシウム[95番]とキュリウム[96番]が発見。

→戦後にはさらに97から101までの元素が発見・命名される。(表19.1)

バークリウムカリホルニウムメンデレビウムは、サイクロトロンで加速されたα粒子を用いて製造された。アインスタイニウムフェルミニウムは、1952年のエニウェトク環礁での熱核爆発実験後に集められた残留物から同定された。

・101番元素までの同定は、アメリカが独占していたが、完全にというわけではなかった。スウェーデンフーゴ・アッテリングらは、1954年に100番元素の生成を報告した。

→また、1957年にはアメリカ・スウェーデン・イギリスの物理学者グループがストックホルムサイクロトロンを用いて102番元素を同定し、ノーベリウム命名

・現代の「錬金術」実験の後半期における主要プレーヤーは、ローレンス・バークリー研究所、ドゥブナ合同原子核研究所、ダルムシュタットの重イオン研究所。

 

3 核エネルギーの希望と不安

・1942年シカゴのパイル=最初期の原子炉

アメリカ:核爆弾>原子力

企業は核テクノロジーが大きな市場になることは予想していなかった。

→世界初の商業用原子力発電所は、1956年に運用を開始したイギリスのコルダーホール。

→1966年時点では、イギリスが核エネルギー産出では世界最大だった。(表19.3)

アメリカの原子力→軍事的応用=海軍の原子力潜水艦

1953年原子炉マークⅠが稼働、1955年世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」が進水。

→海軍が好んだ炉の対タイプは通常型か軽水型

→非軍事分野でも軽水炉型が支配的に。

・平時における各研究の組織、新しい組織における軍の役割、国際的責任を国家防衛という目的とどのように両立させるべきかについての議論に、科学者が積極的に関わり、「科学者運動」を形成した。→『原子力科学者会報』が重要な雑誌

→物理学者の中でコンセンサスは得られず、軍事力に対する統一戦線もできなかった。

→コンプトンやオッペンハイマーといった物理学者らは、AECの設立を支持した。

→AECは非軍事的な組織に見えたが実際には初期の研究の大部分は軍に委ねられていた。物理学者らにとって軍事的支援と非軍事的支援が混交していたということに関心は寄せられなかった。

・1949年にソ連の核実験を受けて、熱核「超爆弾」というテラーのアイデアが真剣に取り上げられるようになった。

←1949年にはAECの科学に関する一般諮問委員会は、水爆の開発を進めないように勧告。

コンプトン「この開発を手がけるべきではありません。その理由は主として、そのしようを断行してもたらされるであろう人間への甚大な厄災と引き換えに勝利するようにも、戦争に破れる方を選ぶべきだからです。」

→1950年にトルーマン大統領は、開発を承認。

基本的なアイデアは、「核分裂反応によって生み出されるすざまじい熱によって多量の重水素三重水素を融合させる」ということ。

→1951年にテラーとスタニスワフ・ウラムは、放射カップリング方式という解決策を発見。

核分裂爆弾からの放射圧で核融合燃料が圧縮・加熱されるようにして、放射圧集中させる方法。

→1952年11月に「マイク」のエニウェトク環礁で爆破実験が成功

→1954年に飛行機投下用の「ブラボー」の爆破実験に成功

ソ連も、1953年に熱核反応の試験装置を開発、1955年には飛行機投下用の水爆を手にした。

→世界政治にとって、アメリカが勝利したわけではなかった。

 

4 制御核融合エネルギー

・1951年「シャーウッド計画」→8回の会議

(ロスアラモス、プリンストン大学、カリフォルニア大学放射計研究所、オークリッジ国立研究所が中心)=ビッグ・サイエンス

ルイス・ストロース(AECの委員長)は、制御核融合の擁護者

→1954年-58年にかけて、資金援助を180万ドルから、2920万ドルまで増やした。

・ライマン・スピッツァー=プラズマ物理学のパイオニア

初期の問題:

(1)プラズマを熱すること

(2)核融合安納を維持すること

(3)プラズマを安定な状態に閉じ込めておく

スピッツァーは、重水素三重水素反応の利用を提案。

・ステラレーター←1951年にプリンストン大学で着手

モデルD →モデルC

→1960年代後半まで続けられるも、計画は頓挫

→1970年以降は、ロシアの研究らによって研究されていたトカマク計画への変更

核融合研究におけるパラダイム・シフト

核融合反応に関心が寄せられた理由は、安価なエネルギー(海洋中の重水素)を実際に無尽蔵に供給することが約束されていたこと。

→当初は、中性子源が軍事的に重要だったことから研究は機密にされていたが、1957年以降秘匿する政治的軍事的理由はないと判断され、1958年の第二回のジュネーブ会議までにアメリカはその大部分を秘密解除にし、ステラータその他のコンセプトの情報を公開した。

・ZETA装置

:イギリスで1949年から研究が始まり、1957年に初めて稼働

→1958年に中性子の大部分は核融合反応によるものではないことが明らかになり、計画は頓挫。

・1958年以降は、機密解除と米英ソ感の自由な情報交換が、プラズマ物理学のコミュニティーの条件を整えた。

→研究者は、普通の物理学の雑誌に成果を公表できるようになり、大学にも学部や大学院にプログラムができた。また、アメリ物理学会にプラズマ物理学部門ができた。

→課題探求型の秘密計画から通常科学分野への変化は、工学的なアプローチから、より体系的で厳格な方法論へと変化した。

 

第20章 軍事化と巨大潮流

1 物理学-軍事の一部門?

・戦後のアメリカでは、連邦政府からの資金の増大を背景に、科学研究の規模と構造が変化した。

:民間財団による支援→連邦政府による支援が中心に

(連邦政府からの資金は、戦前は約100万ドルだったのが、1953年には4200万ドルのうち2100万ドルが基礎物理学へ振り向けられた。=20倍の増加。)

図20.1

・1950s-1960sまでは、連邦資金=国防総省(DOD)+原子力委員会(AEC)と考えて良い。

→注意すべきは、軍事研究の規模と政府資金に占める割合の大きさ

→1950年ごろには大学の物理学者全体のうち70%ほどが、DODかAECからの支援を受けた研究に費やされていた。また、連邦政府が学術的な物理学の研究に拠出した資金2200万ドルのうち、98%はDODかAECからだった。

(ex:固体物理学 

1953年:310万ドル(うち1万ドルがNSF)

1955年:450万ドル(うち380万ドルが軍(DODか?)、60万ドルがAEC、10万ドルがNSF)

→物理学者の中には、(例えばフィリップ・モリソンのように)物理学が軍事の一部門になりかけていることについての危惧を示し、非軍事部門であるNSFが主たる支援者に成り代わるべきだと主張する者もいた。

NSF(全米科学財団)←ブッシュの報告書『科学−終わりなきフロンティア』

→1972年にマンスフィールド改正が議会を通過

→軍は、軍事関係のプロジェクトのみに参画し、基礎研究の関与から手を引かなければならないことが定められた。

Ex 空軍の航空研究所:1956年に一般相対論の大規模な研究支援プロジェクトを開始。マンスフィールド改正までの16年間、「物理学における重力の役割」に関するチェペル・ヒル会議を支援(参加者を軍用輸送機で移動するといった仕事も含まれていた)したり、多くの会議を企画し、大学と多くの契約を結んだ。ここから生まれた成果は科学上重要なものだったが、軍事上の関わりはほとんどなかった。(ex 共変動理論の量子化、一般相対論の現実的問題への寄与)

・1957年スプートニク・ショック後、軍事と防衛産業と物理学者との繋がりは密接になった。

→1957年に大統領科学指諮問委員会が、1958年にNASAが設立。

→物理学者らは、軍事(DOD)、非軍事(NSFNASA)、準軍事(AEC)の中から資金援助を選択できた。

・1960年代には物理学者は経済的・社会的・科学的に世界のトップになった。

(ex 1958年:物理学者 12702人(うち核物理学2622人、固体物理学1926人)/一人当たりの研究費11000ドル

化学者 35805人/一人当たりの研究費1900ドル

生物学者 18015人/一人当たりの研究費 4900ドル)

・初期の軍事的科学資金援助機関のうち、最も重要だったのは海軍研究局(ONR)だった。

1949年には「海軍省の大規模な大学研究プログラムは、学術界と政府との、平時における史上最大の協力事業」と誇ることができた。

←初期の防衛計画にとって重要だったのは、著名な物理学者を巻き込むことで、防衛計画には科学的に大きな価値があり、学術的寄与として重要だということを、物理学のコミュニティーに広く伝えることだった。

(1950年以降、合衆国の30人以上のノーベル賞受賞者DODから直接の支援を受けていた。)

ソ連の学術誌の翻訳プロジェクト

アメリカの大規模な軍事的パトロネージの影響は?

:(1)基礎科学の真の成長をもたらした。

(2)研究される物理学の種類、科学者の態度に変化をもたらした。

→工学的、応用物理学的分野への偏りや実用主義的・道具主義的な態度

・ヨーロッパの物理学がアメリカに対して相対的に遅れをとった理由

(1)お金がなかった

(2)メンタリティ、文化的伝統、教育制度の違い

→非専門家嗜好(インフォーマルで暖かみのある雰囲気)


2 巨大機械

・ビッグ・サイエンスの原型となる装置や研究所が科学のたどる道筋に影響し始めたのは20世紀前半になってから。

1930sローレンスのサイクロトロン=戦後のビッグサイエンスの先駆け

サイクロトロンは研究者の新しい組織と、新しい研究精神を必要とした。

・戦後初期に極めて重要だった加速器

(1)ブルックヘイヴン国立研究所(BNL):最も強力なものがコスモトロン

(2)ローレンス放射権研究所(LRL):ヘヴァトロン

コスモトロンとヘヴァと論は、1953年ストレンジ粒子の対生成や1955年の反陽子の対生成といった重要な成果を生んだ。

・従来型のシンクロトロンの新しい型のものが作られる。

1960年ブルックヘイヴンのAGS(交番勾配シンクロトロン)

1959年陽子シンクロトロン(PS)→ロシアのセルポホフ・センターでも建造された。

・1957年にはスタンフォードの物理学者らがAECとDODNSFに対して新しい線型電子加速器建設を提案した。=すでにスタンフォードで稼働していた線型加速器(ライナック)の改良版

スプートニクショック

アイゼンハワー「科学—自由の小間使い」1959年:アメリカの科学力の証明

スタンフォード線型加速器センター(SLAC)は、この建設は市民の生活水準をあげることにはならないと回答したにも関わらず、議会は1961年に予算を組み、翌年にはスタンフォードとAECの間で契約が結ばれる。

・1967年ジョンソン大統領はフェルミ研究所の法案に署名

・衝突型加速器が、1972年にSLACに、1989年にはCERNに建造された。

・1959年ごろからは「世界平和のための世界加速器」というアイデアが、アメリカ、ソ連、ヨーロッパの物理学者の間で議論された。

→このロマンティックなアイデアが議論の段階を通過することはなく、非現実的だった。

・1983年 超電導大型加速器(SSC)の建造案←ヨーロッパに主導権を奪われることへの危機

その費用は1990年には100億ドルと見積もられ、かつてない高価な設備になる予定

↔科学の他の領域にもっと多くの資金を配分すれば、大きな見返りが得られるであろうという主張が科学者から出された。

→1992年、財政難と冷戦崩壊とを契機に、プロジェクトは打ち切りに。

・ビッグ・サイエンスがもたらした影響

(1)個々の独立した研究者から共同研究に協力する小さな歯車へ

↔パーシー・ブリッジマン:新しいスタイルの物理学は創造的なアイデアと知的な自由にとって有害だと主張。

「個人の主導権をいかなる程度においてもまったく行使したことがなく、その喜びやその可能性を経験する機会も持たず、大きなチームでの研究協力を普通のことだと考えるような物理学者の世代が成長してきているのだ」

(2)高価な機器に従属する科学者

「皆さんがあれほど大きな情熱をもって調べている粒子やイベントを創り出しているのは、結局のところ、皆さんではなく機械である」サミュエル・ハウトスミット

 

3 ヨーロッパのビッグ・サイエンスへの冒険

・1952年 CERN(欧州合同原子核研究機構)が暫定的に設立→1954年に永続的組織体制が確立

←イギリスは消極的だったが、54年に参画。西ドイツは、ドイツ物理学を戦後に再生させ、ナチスの過去を忘れるべく参画。(単なる科学的なプロジェクトではなく、政治的なプロジェクト)

→1956年までの加盟国は、ベルギー、デンマーク、西ドイツ、フランス、ギリシア、イタリア、アランダ、ノルウェースウェーデン、スイス、意義知る、ユーゴスラビア

拠出金の多い国は、フランス、イギリス(共に約24%)、ドイツ、イタリア(共に約18%)。

CERNの目標=「純粋に科学的かつ基礎的な性格を持った核研究と、それに本質的に関係した研究において、ヨーロッパ諸国間でのコラボレーションを提供すること」

非軍事的な性格←ヨーロッパ軍というものが存在しない。

→非軍事的な、政治とは無関係なイメージを強調するため、ジュネーヴ近郊に置くことに決める。

CERNの最初の中心的なプロジェクトである陽子サイクロトロンの建造は、1954年に約39GeVのエネルギーを持つように計画され、コストは約1600万ドルと概算。

→1960年代を通じて新型のさらに大きな加速器を得て、研究所は拡大

:1955年 予算6400万スイスフラン、スタッフ144人、客員科学者21人

  1965年 予算2億7500万スイスフラン、スタッフ2251人、客員科学者315人

  1975年 予算81億4400万スイスフラン、スタッフ3788人、客員科学者1289人

アメリカのリーダーシップを脅かすことはできなかった。多くの場合、アメリカで重要な発見を最初に行い、その後ヨーロッパで確証されるというのが典型だった。

∵ヨーロッパはアメリカ式ビッグ・サイエンス的な実験を行うことに不慣れだった。

アメリカは1930年代から、実験家・理論家・管理者と産業の間の密接な関係があり、戦時中の軍事プロジェクトでおおきに強化された。

・1970年代後半にはパワーバランスが変化し、ヨーロッパが主導権を握りしめる。

・1997年(SSC計画の頓挫から4年後)、アメリカは5億3100万ドルを拠出することでCERNとの合意に達し、大型ハドロン衝突加速器(LHC)とそれに付随した粒子検出器の使用に参加することになった。

LHCは2008年に完成し、2010年より本格的な実験が開始、2012年にはヒッグス粒子を発見。

→高エネルギー物理学の中心がヨーロッパへ移行したこと、また強大な国際的な素粒子物理学がSSC計画とともに死んでしまわなかったことを示している。

CERN=「世界加速器」の実現

 

 

20世紀物理学史【下巻】―理論・実験・社会―

20世紀物理学史【下巻】―理論・実験・社会―

 

 

北条裕子『美しい顔』を読みました。

 

 本作品は、主人公である高校生のサナエの震災体験をテーマにした物語であり、2018年に第61回群像新人文学賞を受賞した。

 

 著者は震災を体験していなので、参考文献等に基づいた、あくまで実体験をベースにしないフィクションだということになる。(参考文献未記載問題については、記事の末尾に萩上氏による興味深い分析を見つけたので、リンクを掲載させていただきます。)

 

  実体験がないにも関わらず、文学的な想像/創造力によって、被災者に寄り添い、震災の問題を探求しようとしたところに、僕はまず作家として、あるいはそもそも人間として、著者に敬意を表したいと思った。

 

 自分の経験を超えたところに、言葉によって新しい世界を創ることができるというのが、文学の大きな力であると思っているが、本作品は、そうした文学の力を最大限に生かした力作だと思うからだ。

 

  それでは早速、一読者として、本書を読んだ感想を記したいと思う。

 

 

 タイトルの「美しい顔」という言葉には、2つの意味が込められていると思う。

 

 一つは、主人公のサナエが、高校の準ミスグランプリを獲得したことを「利用」して、メディアの前で「お金になる」、「お涙頂戴」的な、「ザ・震災地」的な、つまりメディア向けに脚色された被災地の様子を伝えるときの彼女の顔。

 

 そしてもう一つが、母親の死顔である。

 

 共に「美しい顔」という言葉で表されても、この二つの顔は対照的でもある。

 

 では、最初のサナエの「美しい顔」とは何だろうか??

「鏡の中には久しぶりに完成された顔があった。(p.48)」とか、「私は今、おそらく美しい顔をしているだろうと思った。(p.48)」と言うときの顔とは、どんな顔なのだろうか??

 

 本作の大きなテーマの一つが、震災とメディア報道の問題だ。

 

 被災地の現場を伝えること。

 そのとき、情報の取捨選択が行われる。 

 報道できるものと報道できないものの線引きが行われるのだ。

 

 捨象されるものの一つは、屍体だ。

そして取り上げられるものは、被災者の頑張りぶりとか、悲劇に打ち勝とうとする勇気とか、その類の「物語」だ。

 サナエと母親の二つの美しい顔。

 それは、一方では報道される顔であり、他方では報道されない顔である。

 

 被災者の内部から、告白体で語られるサナエの内面は、被災地の現状と、それが物語かされた報道とのギャップに生じる違和感を、余すところなく吐露していく。

 しかし、彼女はその「ひねくれた」見方を通り越して、あるときからその報道する側の物語に自らを合わせて仕立て上げた語りをするようになる。

 「私は私を売らなければならなかった。」という文章もある。

そんな自らの語りを売り物化したときの彼女の顔が美しかったと、著者は書くのだ。

 この点を少し考えたい。

 

 まずこのとき、文字通り、サナエの顔は震災直後に比べて美しくなっていたはずだ。

なぜなら、このとき彼女は支援物資として化粧などを手に入れることができ、身なりを整え、被災地の現状を伝えているという威信を持ち、精神的にも何か充足しうつあったからだ。

 しかし、物語の後半で、その美しい顔の正体に自ら気がつくようになるのだ。

 

「勇気がないから受け入れられないんじゃない。あなたに、意思がないからよ。受け入れるには怒ったり悲しんだり嘆いたりしなければならない。でもそれをするには意思がいるの、思う存分泣いて、大いに苦しんでとことん暴れて転げ回るには、それができるだけの場所を自分に用意してやらなければならないの。」(p.114)

 

 彼女がメディアの前で「物語」を語るのは母親の死を受け入れる意思がなかったからだという事実を、奥さんに突きつけられる。

 なぜ彼女はメディアに迎合するようになっていたのか?

 それは、死を受け入れる意思を持つことから逃げていたからだ。

 彼女の美しい顔は、そうした不安が反転したところの表現だった。

 この時以来、「美しい顔」の内実について、彼女自身も気付き始める。

 

 ところで、この小説で巧みだと思ったのは、この奥さんとサナエの関係に加えて、弟というもう一人サナエの下に登場人物を設定していることだ。

 奥さんの前では、子どもだったサナエは、弟の前では今度は大人になる。

 奥さんの叱咤で新しい気づきを得たサナエは、弟にそれまで隠していた母親の死顔を見せにいくことになる。その描写は直接描かれてはいない。弟がどのような反応をしたのか、それは読者の想像に委ねられている。

 

 しかし、その代わりに姉から弟への印象的なセリフが語られる。

 

「あんたはまだ小さいからよくわかんないかもしれないけど、あんたがいずれ、あらゆることを自分で決めるんだよ。海の近くにいたひとだってちゃんと避難して助かったのにどうしてあの病院にいた母さんは駄目だったのか、どうして友達のお母さんは生き残ってうちの母さんは死んだのか、そうして母さんは自分を置いて逝ったのか。いずれ、なにもかもあんたが一人で決めるんだよ。一人で決めて生きていくんだよ。」(p.134)

 

 物語のラストで姉弟は二人で沼津の海岸でかけっこをする。

サナエの本当の美しい顔は、フライングをした弟の後ろ姿を見ている、最後の顔だったと思った。

 

文献:北条裕子『美しい顔』(講談社、2019年)

 

miyearnzzlabo.com

 

美しい顔

美しい顔

 

 

 

 

 

 

 

 

ダーウィンルーム 読書会を終えて

 

 昨日(9月4日)に開いた読書会には、様々な方面でご活躍をされている11人の方に参加していただき、活発で刺激的な議論をすることができました。

 

 参加者の方々にはもちろん、宣伝等に協力していただき、慣れないキュレーターをサポートしてくださった方々に感謝するのみです。本当にありがとうございました。

 

 読書会を通じて、僕自身、様々な気づきや発見がありました。

 

 議論全体を通じて出てきた問題の一つは、やはり、「科学の資本主義化」と、その弊害ということだったように思います。そのことは、特にエンジニアとして仕事をしていらっしゃる方からも、直接の実感として発言がありました。

 そして、科学それ自体はさることながら、研究システムも含めて、これまでの冷戦型科学技術(国威発揚につながる原子力や宇宙開発、そしてコンピューター(※1))に象徴されるような中央集権型から、自律分散型へとそのあり方が変わっているという認識のもと、従来のように国家(政府)が科学技術を統制することは厳しくなってきているという著者の主張も、おおよそ会場でコンセンサスが得られたように思いました。(そのことは科学の不確実性が増しているという診断ともシンクロしています。)

  

 ところで、僕は、こうした歴史像に賛同しつつも、やはり依然として、政府の科学技術に対する役割は、当面はなくなることはないだろうと思います。しかし、それは今のままでは良いということではなくて、著者が結論部で書いているように、その際新たな体制の変化が求められると思います。

 

 そもそも、「科学の資本主義化」という現象は、20世紀の初頭のアメリカなどでもすでに見られていたものだと考えます。GEやデュポン社といった電気・化学工業系の企業は自社の研究所をつくり、その中で研究に従事する科学者のメンタリティーも、単に好奇心に基づく真理探究型から、企業の儲けにどれだけつながるかというミッション達成型のものへと変化しつつあったということが言われたりするからです。このときすでに、企業というセクターにおいては、もともと「科学の資本主義化」という現象は起きていたはずです。 

 それに対して、今日問題になるのは、政府や学セクターまでのは、資本の論理で研究への投資や、研究テーマの選択、研究成果のアウトプットをするようになっているという事態だと思います。

 

 資本の論理に支配された科学技術の研究開発は、必ずしも社会全体の利益ばかりを生むとは限らない。市場にとってよいものであることは、市民にとってよいものであることとは別のことだからです。また、そこには大きな情報の非対称性が存在します。ある科学技術に関して万が一事故が起きた場合でも、一般市民にはその中身がわからないことが多いのです。さらには、倫理の問題もあります。特に生命科学の領域では、遺伝子組み換えやゲノム編集など、技術的に可能なことがますます増えていきますが、生命倫理の問題を置き去りにしてはいけません。(軍事の領域においても、同じく倫理的な問いは重要になると思います。)

 

 だとしたら、政府の科学技術政策は、資本主義の論理とは別の基準でなされる必要があります。しかし、問題は、今の所、どうしても成果の見込みがない研究に対して政府が資金を出すというインセンティブが見えづらいという点です。

 「体制の変革」というのは、この辺りに関わるものだと思いました。

 「科学技術」という言葉は、あまり知られていませんが、戦時中に生まれた言葉です。初めて公の場で用いられたのは、1940年の全日本科学技術連合会及び、第二次近衛内閣のもとで閣議決定された科学技術新体制確立要綱というものでした。この背景には、技術官僚(自然科学の専門的な知識を有しながら、国の政策立案に参画する官僚)らの地位向上運動があったと言われています。彼らは、ポスト御雇外国人教師のポジションとして、つまり、法科系の官僚に準じる、あくまでも二次的な(縁の下の力持ち的な)地位にとどまっていた状態から、科学が重要になった20世紀の戦争を通じて、自らの行政領域を文部省らの科学や基礎科学という概念から差別化し可視化すべく「科学技術」という政策的な概念を切り取ったのです。そうした意味では、科学技術という語は、当初から政策と結びついていた伝統的な言葉とも言えると思います。

 今後も、科学技術政策の重要性は依然として残ると思いますが、そのあり方には、変革が求められると考えます。

 

 一方で、興味深いこととして、最近では、企業内の研究で失敗した(つまり儲けにつながらなかった)研究成果をオープンにして、他の企業と共有するよいう動きが出始めているということがありました。それは、将来的には、巡り巡って企業の利益につながるだろうという判断があることは事実だと思いますが、自立分散型社会を予感させるような、新しい発想だと感じました。

 

 最後になりますが、個人的にこの本が出て一番嬉しかったのは、これだけのスケールの大きさを持った議論が出てきたということでした。現代史全体を俯瞰する歴史像を提出してくださったというところにあったのです。しかし、「人類史全体」を思考の単位にしていらしゃる所長にとってはむしろ、この80年は逆に「短く」感じられるという話を伺い、とてもおもしろかったです。

 

※1 コンピュータが冷戦型科学技術に含まれるかどうかは議論の余地があるという意見もあった。

 

ダーウィンルーム 読書会のお知らせ

 読書会のお知らせをさせていただきます。

 

 9月4日に、下北沢にあるダーウィンルームというお店で、佐藤靖『科学技術の現代史』の読書会の開催を予定しています!↓

 

 

www.kokuchpro.com

DARWIN ROOMでは、月に数回程度「読書会」を開催し、参加者で対象の文献について一言ずつ感想を述べた上で、自由に議論をかわします。

 

僕も何度も参加させていただいていますが、なんといっても、一人で考えることのできる範囲はすごく限られているので、こうした読書会を通じて、読書をより深めることができると思います。

 

また、いろんな分野で活動されている様々なバックグランドをお持ちの方と交流できる場でもあります。

 

本書に関心があり、お時間のある方は、ぜひとも参加していただけると幸いです。

 

今のところ、参加者があまり集まっていないそうなので、

濃密な議論ができることを期待しております。

 

それでは、どうぞよろしくお願いいたします。