yokoken001’s diary

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宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』を観て—新しい「戦前」を生きる僕たちへ

 

 宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』の二回目を観終えたところで,感想を記しておきたい.

 

 

 本作品で,吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が登場するのは,主人公が弓矢を製作する最中に偶然落とした本の中から本書を見つけ出す場面である.そこでは,母親から眞人に宛てられた手書きのメッセージが書かれている.「昭和12年秋,大人になった眞人へ」といった内容だったかと思う.日本が長い戦争に突入していく,その最初の時期のことだ.

 そして,この映画は,宮崎監督から新しい戦前を生きる我々に送られた物語=「現代版」の『君たちはどう生きるか』ということになるのだろう.

 

 大叔父がこれまで作り上げてきた世界の平和と秩序はまもなく崩壊し,世界は「火の海」に包み込まれる.宮崎監督が生きてきた「戦後」日本は,かろうじて「平和」を維持していたかのように見えた.しかし,もう時間がない.

 最後のシーンで,眞人は大叔父に頭の傷は自分でつけたものであることを正直に告白し,この世界の人間の悪から目を背けることなく生きていかなければならないことを自覚する.ここには,徹底的なリアリズムと絶望があると思った.宮崎駿は,美しい平和な世界を単に希求するだけの,楽観的な平和主義者ではなかった.そして,この憎しみと悪に満ちた世界を,青サギやキリコ,ヒミといった素晴らしい仲間とともに生きていかなければならない.ラストの場面では,かなり明確なメッセージが示されていたと思う.

 

 それでもなお,僕は宮崎監督の絶望を,そのまま受け取ることはできなかった.僕らは,この世界が「火の海」になるのを,今が新しい「戦前」になることを,ただ何もせずに指を咥えて見ているだけで良いのだろうか?

 僕はそうではないと思う.「火の海」にならないように,そして,もし仮にそうなってしまったときの,preparationをしなければならない.そしてそのために,僕は今考えるべきことがあるように思う.

 

 本作品は,『千と千尋の神隠し』で見られるような,横溢する勢いや,流れるような物語の推進力はなかった.その代わり,構想から膨大な時間と労力をかけて,長く熟成・洗練された,密度の濃い重みと味わいがあった.

 奇しくも,『千と千尋の神隠し』が公開された2001年は,日本はまだまだ横溢するエネルギーに満ちていて,物語自体も,久石譲の音楽も,木村弓の主題歌も,「日本の奇跡」であるかのような凄みがあった.アカデミー賞の受賞は,それを象徴していたかもしれない.

 あれから20年以上経って,時代はすっかり変わってしまった.でも,『君たちはどう生きるか』は(例えば)『千と千尋の神隠し』よりも劣っているとは全く思わないし,ま「地球儀」も「いつも何度でも」に負けているとは全く思わない.米津玄師のインタビューによれば,完成までに4–5年かかり,もともとは6分くらいの長い曲を削ぎ落として今の形になったという.

 さらに『君たちはどう生きるか』は,ちゃんと2023年の現代性を帯びている.特に,前半部分の眞人の鬱っぽい感じ,「死の匂い」がする感じというのは,これまでの宮崎作品にはなく,極めて現代的で新しい要素だと思った.

 

 僕は,今回の作品を通じて,これからの日本で何か創造をしていく上での,一つの方向と可能性を見出すことができた.横溢するエネルギー,流れるような勢い,勇敢さ,といった方向性ではない,別の可能性があると思った.

そして,それは希望でもあると思う.

Mizuno (2009), Chapter 2

Chapter 2 Technocracy for a Scientific Japan

2-1 The Colonial Landscape of Technocracy (pp. 44–52)

  • 1920sにおける技術官僚の地位の変わらない低さ,統合の失敗によって,工人倶楽部の主導者らは技術官僚の政治にとっての国内の地勢は良くないことを証明し,次第に満州に注目するようになっていく.
  • 日本と満州の関係は,1905年に関東に駐在地を置いたことに始まる.それは1919年に関東軍となり,日露戦争後の1906年に満鉄が設立された.→中国のナショナリズムの勃興によって緊張は高まり1931年に満州事変→傀儡国家「満州国」を建国するにいたった.
  • 工人倶楽部の技術官僚を含めて,ほとんどの日本人は満州事変の性質について疑問視するよりもむしろ「戦時熱war fever」=ユートピア満州という誇大広告に参与していった.1932年に『工人』は満州を特集し,特に宮本武之輔は,満州を法科官僚の優位から自由であり,技術者が地位を向上させ,新しい技術的文化を構築することができる未開拓の土地として認識した.
  • 中には「日支親善」は中国を怒らせ,英米をナーバスにさせるものとして批判しする声はあった.が,それは稀であり,1932年3月『工人』は,満州の植民地化を祝福した.小池も,労働者階級の生き残りにとって満州での経済の自由は必須であり,軍とブルジョワの独占が問題であると主張した.
  • 宮本武之輔も満州の熱心な支持者であった.彼の,中国の長い歴史の傲慢な否定は,天然資源が開拓されていない土地として中国を認識する見解から生じていた.彼は,日本が中国に「組織」と「技術」を提供し,中国が日本に資源を提供するといった互恵的関係が創造できればベストであると主張した.技術官僚にとって満州は,その政治システムの柔軟さ・天然資源ゆえいに,特に魅力的だったのである.
  • 実際,天然資源は日本の「アキレス腱」だった.日本の成長する重化学工業は,天然資源の輸入に依存していた.資源開発は重要な事項だったので,「資源科学(化学)」といった新分野も登場した.満州事変の前は,日本=「持たざる国」であったが,いまや「資源が我々の前に開かれた」のである.
  • 豊かな天然資源と,緩やかな政治システムゆえに,満州は技術官僚にとって「創造」の場所であった.国内での技術者運動の失敗の後,彼らは満州に理想的な場所を見出した.工人倶楽部の技術官僚らは,この創造の目的と手段として技術を主張し,中国の天然資源は創造にとっての材料であった.
  • 「工人」という名さえ,この視点のもと新しい意味を帯びた.元々は「技術をコントロールする人」という意味だったが,満州が創造の場所として出現した後は,より壮大で帝国主義的な役割を意味するようになる.つまり,「工」という字は,上の棒:中国の天然資源=宇宙・自然を意味し,下の棒は人間界:日本人を意味し,それを巧みにつなぐものとして中央の技術者が存在するという説明である.
  • 西洋の帝国主義等同様に,植民地には様々な研究施設が作られた.例えば,満鉄調査部,上海自然科学研究所,大陸科学院などである.そしてここでの研究者の中には,法科系のスタッフよりも高い地位を得て,高い給料をもらっている人もいた.
  • 大陸科学院は,意図的に内地の欠点を繰り返さないようにして設立された.その欠とはつまり,(1)科学・技術の専門知の欠如,(2)科学・技術全体の発展を監督する中央行政の欠如である.同院の設立は,1934年に星野直樹が中央研究機関の必要性を認識したときに始まる.彼の要請で,大河内正敏(理研),藤沢健夫(資源局)が,起草のために満州に招聘された.内地では,680の研究機関が様々な行政に散らばっており,それが交流・柔軟性・効率性を妨げているので,満州では大陸科学院に統合する形でこの欠点を克服しようとした.このスムーズな過程は,戦時中に技術官僚が直面した障害と著しい対照をなしている.
  • 大陸科学院の初代所長=鈴木梅太郎:宮本武之輔と同様,日本の植民地政策が成功するための基本的な要素として科学を強調する.満州の科学・技術は,本家である日本を支えるべく強く・独立していなければならない.=相補的関係.
  • 研究者・テクノクラートは,満州国=開発されるのを待つ「未開の土地」であった.350000人の日本人が移住したが,朝鮮人・中国人の敵対心とぶつかった.実際のところ,「オープン」ではなかったのである.
  • 工人倶楽部のメンバーらも,満州は20年前に移住した技術者らによって,すでに人口過剰であることをまもなく理解した.
  • 彼らはとくに,科学的なバックグラウンドがないまま満州にやってきたビジネスマン・官僚らに苛立ちを覚えた.文系の人々は,資源を効率よく利用する青写真を描けないと思われたからである.
  • 次第に「工人」という名は不適切ではないかと思われるようになった.中国では,工人とは日雇い労働者の意味である.1935年に工人倶楽部は,日本技術協会(NGK)に改組された.そして雑誌も『技術日本』(1936~)へと改名された.

:技術を通じて,国家を主導するというスローガンを打ち立てる.労組組合から国家主義(ナショナリズム)への転向は明白である.(エンジニアの利益から国益へ)

  • しかし,技術官僚の運動は成長しなかった.1920年代末に,すでに会員の4/5近くが失われていた.NGKは,若手エンジニアに働きかけた.若手は,NGKといった組織や,法科官僚の問題に感心がなかった.NGKの存在さえ知らない人もいた.それらによって,シニア世代は「退陣の感覚」さえ抱いた.若手は,技術者の社会的責任は,よりより地位や政治権力を追求するといったことに完全に興味がなかったことは明白だった.
  • こうした感心の低下は,民間部門での変化を反映していたかもしれなかった.1930s初頭において,エンジニアは最終的にビジネスの世界で認められるということに気づかれていた.それは,新興コンテルン(鮎川の日産,日本窒素,理研財閥など)といった企業の台頭を参照していた.
  • 新興財閥:技術によって会社をまとめる.日本の重化学工業化の利点を生かす.資本の94%を重化学へと投資する.

旧財閥:家システムによってまとめる.

→新財閥は,満州における日本の植民地政策の重要な装置になった.

  • このように,民間セクターでは,技術者リーダーの地位は改善されつつあった.しかし,技術官僚は不満が残る状況が続いていた.一つには,文官任用令が技術官僚の政治権力へのアクセスを拒んでいた.工人倶楽部のメンバーらは,本国における大陸科学院の相似形を創設することを夢見ていた.彼らの分析によれば,日本の科学・技術は,専門的なリーダーシップ,一貫した計画,科学者・技術者の間のコミュニケーションが欠如していることが問題だった.そして,技術官僚によって主導される新たな行政ユニットが必要である.(そこには,法科系官僚によって支配される様々な大臣から独立した排他的権利があり,科学・技術の戦略的重要な分野を統率することができる能力がある.)
  • 新しい名前とスローガンをもって,技術官僚らは彼らの運動を復活させ,科学・技術の政策に特化した行政ユニットを作る野望を実現することを望んだ.しかし,既存の階級に加え,若手を動員することに失敗することによってブロックされた.そして,次節でみるように,中国との戦争は,技術官僚の運動に,切実に必要とされていた勢いをもたらしたのである.

 

2-2 Technological Patriotism and a “Uniquely Japanese” Technology (pp. 52–60)

  • 1937年7月7日:盧溝橋事件=技術官僚の地位向上運動の新しい段階の始まり.
  • 3ヶ月後に,NGKは技術者の雇用機会の均等を訴えるべく,様々な大臣や東京市に嘆願書を提出.近衛内閣に対しても技術を扱う部門により多くの技術者を雇用するように意見書を送った:(1)大陸の発展と戦勝に技術は決定的に重要であること,(2)政府は技術者をもっと登用すべきである
  • これらの主張は,「技術報国」というスローガンのもとで唱えられた.技術報国は,法科系官僚の衰微を要求することと同義になっていった.ただし,技術報国の要求の高まりは,宮本武之輔の懸念するところでもあった.というのも,それが利己的な要求で,真面目に受け止められなくなる可能性があったからである.しかし,科学的な日本を作るという過程として,(1)国家的重要性を得た技術,(2)政治権力を持った技術官僚を要求していた点では,宮本武之輔も同じだった.1939年に『技術日本』は,『技術評論』と改名し,戦時期を通じて「技術報国」の要求を継続した.
  • 技術報国は,世界における日本の位置の特定の歴史的理解を含んでいた.それに基づいて技術の発展を計画・統率することが求められたからである.技術官僚らは,資本主義経済のシステムから,新しい統制経済のシステムへと世界は移行しているといった歴史的語りを唱える傾向にある.

資本主義:リベラリズム,自由市場,科学

統制経済:コーポラティズム(corporatism),統制経済技術

Ex 松岡久雄:今や「科学の時代」から「技術の時代」に移行している.ただし,そこでいう技術とは,「科学的」技術である.そしてその先頭にたつのは,技術者である.

  • このような資本主義から新システムへの移行という語りは,大河内正敏の「科学技術工業」においても最も明白に表現されている.1937年から『科学主義工業』の刊行が開始.科学的産業とは,科学と技術を産業に結びつけるアプローチと実践を指している.

:科学主義工業における「科学」=(1)技術のイノベーティブな(革新的な)利用,(2)科学研究の成果の産業化

  • 大河内の科学的産業や,技術官僚によって主張されたテクノクラシーは,ともに知識それ自体の追求ではなく,技術的・実践的な応用の目的のための科学の発展と,そのプロセスを計画・統制する必要性を強調していた.
  • 軍によって要求された国防予算をいかにしてやりくりし拡張するか?1932年恐慌から1936年には概ね回復.しかし1937年の予算は前年比25%増で,そのうち40%が軍事予算.抜本的な方策が取られないかぎり,この予算を満たすことはできない状態.

→経済の国家統制と,様々な物資の計画された配分に基づいた「準戦時体制」を採用することを宣言.

  • 準戦時体制:天然/人間資源を統制的に配分すること,計画経済をより一層強調

→戦時体制のために中央機関=企画院が1937年10月に設立.

→人的資源の動員:国家総動員法(1938年),国民精神総動員運動(1937年)

→近衛内閣:「大東亜新秩序」(「東亜新秩序?」)(1938年,11月):アジアの中心として西洋に変わる地位を日本が占める.最終的には世界の中心になる.

  • 戦争は,技術官僚らを行動に駆り立てた.WW1以来初めて,彼らは技術報国のもとで,一体になり始めた.その運動の中心は,宮本武之輔である.彼らは,松前重義や梶井隆(逓信省),みうらよしお(鉄道省),などと協力し,技術者運動を拡張する.1937年6月に,宮本武之輔は6大臣技術者会議(Six Ministries Engineering Conference)を主催し,翌年には,7大臣技術者会議も主催した.さらに,1937年11月には,民間セクターも含めた全国技術者大会を開催し,1938年9月には,産業技術連盟を組織した.
  • 日中戦争の勃発は,技術報国を加速しただけではなく,政府が技術者の要求を取り上げることを促進もした.1938年に興亜院を設置し,そこに「技術部」が政治部や経済部と並んで置かれた(トップは宮本武之輔).=国家による本格的な科学技術動員がついに始まったことで,政策策定の中心に参画するという宮本武之輔の長年の夢を達成されることになった
  • 技術官僚の技術報国は,しばしば「日本的技術」,「日本的性格の技術」の議論に関わっていた.19Cの経済は,自由取引の原理に基づくもの.⇄20Cの経済は,ブロック経済=国家が地域的な経済圏をつくり,ブロック間での物資,商品,アイデアの流れが統制されるというもの.=「大東亜共栄圏(the Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)」は,自給自足されなくてはならない.そのためには,日本の科学と技術が必要である.西洋から独立した科学.日本独自の科学が必要である.
  • 日本的技術とは何なのか?何か具体的な内容があるわけではなく,多くの人々は,西洋の技術に日本の精神を併せるといった空虚なレトリックを用いていた.Ex 八田嘉明「時局と技術」『技術日本』(1937):日本精神は何から構成され,そうした日本精神と技術の融合が,いかにして違った形で技術を生み出すのかについては説明していない.
  • 興亜院技術部長として宮本武之輔は,日本的技術を「興亜技術」と定義した.それは,3つの性格から構成される.

(1)躍進性:中国技術の先に居続ける.中国資源を日本技術に結びつける「大東亜共栄圏」にとって重要な条件.

(2)総合性:様々な分野の科学・技術を効率的するために必要.

(3)立地性:日本特有の環境の中で開発される秘術は中国において最適とは限らない.大陸の現実を満たすように日本技術を修正する必要がある.

  • 宮本武之輔によれば,「日本的技術」とは,中国の資源+日本の頭脳を意味していた.そして日本の技術者の責任は,この日本帝国が立脚する分業を維持することだった.

≠1920sに工人倶楽部が定義した「頭脳労働者」:帰せずして特権的な学位を持ち,その専門知が資本家によって搾取される.

⇄技術者は今や,帝国の技術的階級を根本的に維持する「帝国の頭脳」だった.

  • しかし技術に関する日本的性格は,技術的ではなく規範的であり,現実的ではなく理想的であった.宮本武之輔でさえ,3つの性格をもつ「べき」であると述べている.
  • テクノクラートによる日本技術の特異性は,循環論法(=前提の中に結論が含まれている)である.日本技術は,新しいアジアを構築する(=西洋の影響から自由にする)というところにある.しかし,そのような構築の前に,まずは日本技術というものが存在する必要があるが,日本技術を構築し,西洋からのその独立を維持するためには,日本はアジアの資源(=西洋に依存しないリソース)を必要とする,とも主張している.〔①アジアを西洋から解放するものは「日本技術」であると定義しつつも(=結論),②その解放するはずの当の「日本技術」自体(=前提)が,西洋に依存しないアジアのリソースを必要とするとも主張している.これは前提の中に結論が入っているトートロジーである.〕
  • 結局,テクノクラートの主たる関心は,日本帝国における天然資源の効果的で効率の良い搾取にあった.日本技術とは,技術や科学の様式ではなく,日本の頭脳とアジアの資源の間の分業に関することを指している.科学者・技術者が,新秩序の「頭脳」にとって決定的に重要である.そして,テクノクラートがそれを牽引する.
  • 日中戦争が長期化するにつれて,政治の主導者の目において,科学と技術の重要性は高まっていった.1940年8月に,第二次近衛内閣は,科学の抜本的な促進と,生産合理化を基本国策要綱の中に取り入れた.国策の中に科学の促進をはっきりと歌ったために,近衛内閣はテクノクラートに歓迎された.さらに,近衛は文部大臣に橋田邦彦を採用した.彼は30年間で科学者として文部大臣になった初めての人間(歴史的には2人目)であったので,センセーショナルだった.さらに宮本武之輔も科学動員協会の委員に選出され,次いで企画院次長にまで上り詰めた.ついに彼の政治的野望は達成された.
  • 国家的帝国的行政の中心的な段階に科学がよりおおきな存在を示すにつれて,他の技術官僚らも様々な省庁や組織の間にバラバラになっており研究計画を統一・統率する独立の強力な行政システムを作るという最終的な夢を実現する機会を探した.彼らはそれを「科学技術新体制」と呼んだ.

 

 

2-3 Defining Science for the Empire (pp. 60–68)

  • 1940年以前には,科学と技術,科学及び技術,といった言い方がされており,この場合両者をはっきりと区別している.技術官僚らは,この区別を不必要なものと考え,彼らにとっての科学や,権力の要求を支持するような「科学」を定義する新しい言葉=「科学技術」を作った.企画院の藤沢威雄によれば,「科学技術」は,科学に関わっている技術のみを指している.例えば,社会科学,人文科学志向の科学というのは存在しない.なぜなら,それらは生産と国防という,国家が最も必要としているものに直接関係しないからである.
  • こうした狭義の科学は,(1)マルクス主義における「科学」(≒社会科学)と異なっていた.
  • (2)科学(上)-技術(下)とする,伝統的な知的ヒエラルキーとも異なっている.「科学技術」における「技術」は,科学にとっての単なる道具なのではなく,科学の目的であるとされる.科学成果は,実用的な技術,経済資本に体現された初めて重要性を帯びる.科学は技術を通ってのみ,国家に貢献しうるのである.
  • 1942年までに,「科学技術」は広く用いられるようになる.1942年には『科学技術』という雑誌が刊行された.第二次近衛内閣が,科学技術という言葉を採用して「科学技術新体制確立要綱」を閣議決定したため,1942年までにこの後が定着したことは驚くことではない.この「要綱」は,戦前のテクノクラシーの勝利の絶頂であった.大東亜共栄圏の資源を用いる「科学技術の日本的性格」を確立することが目的であるとされた.
  • (1)科学技術研究の推進,(2)研究の産業化,(3)科学的精神の涵養.
  • (1):ここでいう「科学」とは,産業化や実用的な応用を目的とした,計画され・統合された科学として理解されている.
  • (2):技術発展のための科学.①民間企業への報酬,②産業特許の効果的な利用,③産業の標準化,④総動員のための人員の体系的な訓練・配分
  • (3)科学的精神:人々がシステマティック・合理的に訓練されて初めて科学技術が可能になる.①科学教育の刷新,②技術教育,③設備の拡大,④国民生活の科学化.=人々の技術的・物理的訓練.
  • これらを達成するために,(1)技術院,(2)科学技術研究機関,(3)科学技術審議会を設立することを明記した.これらの機関は,有能な技術官僚らによって方向づけられ,技術官僚らによって配置される.
  • 「要綱」=科学的な帝国の青写真.要綱の最も強力な支持者は,技術者団体であった.ex 全科技連は,主要な新聞上で,要綱を支持する趣旨の見解を発表した.曰く,日本の科学は,西洋のそれに過度に依存し模倣しているので,ひとたび途絶すれば何も残らない.そうした惨めさを回避すべく,日本的性格の科学技術を打ち立てる必要がある.全科技連は,「科学技術」は,(1)日本の影響力が及ぶ圏内の資源を用いること,(2)日本民族に適した環境を作ること,(3)日本民族の力を高めること,(4)日本民族が世界に卓越する文化を作ること,を主張することで「要綱」の論理を一層強化した.
  • 全科技連の声明は,産業界,アカデミアにいる科学者・技術者は,テクノクラートの言語と論理を自分のものとして採用したことを明らかにしている.中には科学を限定的に定義することに反対するものもいたが,全科技連の大多数は科学技術新体制を擁護した.彼らは,技術官僚と法科官僚の間の摩擦に,なんの関心もない.日本独自の科学・技術といった技術官僚の主張を実際に信じていたかどうか,あういは法科官僚/技術官僚のいずれかによって組織が主導されるかどうかを本当に懸念していたかどうかは別として,彼らは科学研究の大きな予算,教育プログラム,研究資源の拡張に関心があった,科学技術プログラムが拡大することで,学生を戦場に送ることを拒否することもできた.科学技術の論理・言語が一度公になれば,自分自身の目的のためにそれを用いる日和見主義者らによっても利用可能なものになった
  • ⇄既存の官僚制度からの批判.「科学技術」は結局のところ,科学なのか,技術なのか?(が,そもそも既存の官庁を超越する組織を作ることが技術官僚の狙いでもあった.)
  • 最も批判的だったセクターの一つは,文部省.しかし文部省は,もともとは義務教育に力点を置いており,科学研究の促進を始めたのは荒木貞夫が文部大臣に就任した1938年からであった.1938年に荒木は科学振興調査会を設置し,1939年には科学部を設置した.要するに,日中戦争が勃発したのちに,技術官僚らが制度上の権力を得てきたことにしたがって,もともと科学政策に怠慢だった文部省が科学の分野に権力を主張することに乗り出してきた.
  • 文部省の理解では,科学は,基礎研究,応用研究,実用研究からなり,科学技術はこのうち実用研究を指す,というものだった.日本技術者協会のメンバーの中でさえ,科学は文部省の所掌であるといった見解を述べるものもいた.
  • 国会で起草案が通過したあとでさえ,対立は継続していた.特に,文部省,財財務,陸海軍の批判が大きかった.「主導者」という言葉は削除.技術院は,部数,人数も削減.結局は「航空省」ともいうべき性格のものになった.それは主導者というよりも,調整者としての性格がより強いものになった.
  • 1942年に設置された科学技術審議会は,国家的・植民地的製作を促進するという意味では,より重要な役割を担った.=西欧に追いつく「特急列車」
  • テクノクラートの主たる役割は,様々な部門・省庁の調整のままであったが,科学技術審議会は,少なくとも最終的には,行政間の障壁,割拠主義を超越し,より効率的・体系的に科学技術を促進するという彼らの目標を達成することができた
  • 技術官僚にとっての「科学的」日本:(1)戦争に勝ち帝国を維持するために必要な技術を能率的に発展させる日本,(2)その目標のために,技術の専門家が,国家的な優先順位や資源配分をやりくりすることができる日本

を意味していた.「科学技術」という言葉の発明は,彼らの法科官僚との闘争における最も重要な部分であった.

 

 

議論

  • ミズノの「あらすじに」は,アジア大陸への侵攻を批判していた技術官僚は含まれなかった.技術官僚も一枚岩ではない.この本では,技術官僚の思想ではなく,「宮本武之輔を中心とした技術官僚」の思想の歴史を扱った本であるというべきである.(本書で捨象された戦前では「マイノリティー」の技術官僚が,戦後に主流になったということもある.) もちろん,影響力の大きさを考えると,宮本武之輔が重要であることは事実.
  • 開発レベルではなく,技術の利用まで考えると,「日本的技術」と言える範囲は広がるのでないか?(ex 特攻機) レーダーを利用しなかったから,「人間の目」が使われた.
  • 「日本的技術の思想」に内実があったかどうかは別として,それがどう機能していたかは分析できる.

 

 

 

 

 

Mizuno (2009), Chapter 1

Chapter 1 Toward Technocracy (pp.19–42)

  • 世界的にみても,1910sには技術官僚(テクノクラート)が高い地位を求め,政治権力へ接近し始めるが,日本もその例外ではない.←重化学工業化,研究開発の推進
  • 技術官僚の運動では土木工学者≒非軍事技術者(Civil engineers)が中心的な存在であるものの,彼らの政策決定権へのアクセスは非常に限定的.←「文官任用令
  • 技術官僚/法科官僚との対立=日本の官僚運動の核であり,その中心にいたのが工人倶楽部の設立者である宮本武之輔
  • 工人倶楽部の軌跡は,科学や合理性の信念が,いかにして階級形成やナショナリズムと密接に関係していたかを示している.

:労働者(プロレタリア)運動の言説・政治により技術官僚の階級意識を統合しようと試みるが失敗→「科学的な専門知」により彼らのアイデンティティを確認するという形に変化していく.

=「階級ではなく国家」が彼らの文化資本を政治権力へと変革するのに必要な言語・イデオロギーを与えた.

テクノクラシーは,「科学的」な専門知をもつ技術者による国家管理を要求した.≠マルクス主義 (←「科学」の定義が異なる.)

 

  • Defining Engineers as Creators (pp.20-28)
  • 宮本武之輔:1892年生まれ.第一高等学校卒業後,1917年に東京帝国大学工科大学を主席で卒業し,内務省の土木工学課に入省.利根川,荒川の建設計画に従事.
  • また宮本は多作な文筆家でもある.かつては作家志望で,高校時代には文学者に惹かれていた(※夏目漱石『心』(1914年)).しかし,義理の兄の説得の末,工学専攻へ進む.
  • 中学生の頃から,労働問題へ関心を持っており,『平民新聞』などを読み労働者の貧困な状況を知る.→工学者は,技術を通じて工場所有者と労働者の間の対立を緩和することができるので,労働問題を解決するという特別な義務があると確信するように.⇄自身は男らしい「経世家」であるとみなすエリート主義.
  • 宮本の理想にとっての大きなハードル=社会・政府内での工学者の地位の低さ.

∵文官任用令:高等官吏試験を通過した者だけがトップの地位につくことができるが,工学系官僚(engineer-bureaucrats)は試験から排除されていた.(彼らは官僚として別枠で採用された.) =政府部門へのキャリアパスからは,工学系官僚は制度的に排除されていた.

  • また,工学系官僚は,(法科系に比べて)その専門家としてのキャリアのゆえに一つの部署に止まる傾向にあり,昇進するにも時間がかかった.給料も違った.政治のコネを巧みに使う個人も非常に少なかった.
  • WW1中に,技術官僚らが不満を声に出し始める.ex 工政会,農政会(1918)が,文官任用令の改正を訴える.

→工政会,農政会,林政会が,制度改正を訴える嘆願書を総理大臣に提出したものの,軽微な修正しか認められず,技術者への差別は依然残った.(cf 技術官僚を昇進させれば,「官僚秩序」が破壊される.)

  • 技術者が嘆願書作成だけではなく,組織を作り立ち上がる必要がある.「技術者はなぜ自身で統合しようとしないのか?」
  • 工人倶楽部の設立=宮本武之輔のそうした要求への対応.

工人倶楽部の2つの目標:(1)技術者の地位向上,(2)社会の変革.

  • 設立宣言に見られる(1)技術(者),(2)階級アイデンティティ・社会における位置,(3)合理/非合理についての定義:
  • 技術者とは,創造者である.技術とは,(手段ではなく)それ自体が目的である創造である.→1-1
  • 技術者は資本家と労働者の間に位置し,労働問題を解決する責任・能力を持つ.→1-2
  • 技術者は,「合理的な手段」を用いて社会を改善する責任を持つ.「ラディカルな直接行動」は合理的ではない.→1-3

 

  • 技術者を創造者とする定義=既存の官僚制度への野心的な反抗

∵技術官僚は,法科官僚が割り振った計画を実行する専門家という位置付けだった→技術者は単に技術を生み出すだけでなく技術的文化を創造者するという宣言.

  • 創造としての技術≠明治時代のスローガンに見られる技術

:明治の理解→科学は西欧から学習・導入されるもので,東洋の倫理と共存する.

⇄創造としての技術→西欧とのつながりを拒否し,西欧の科学・技術の消費者ではなく,新しい科学・技術を創造する者として日本の技術者の能力・行為を明示.

(≒WW1中,後における「科学・技術の普遍性」)

  • 「技術」という言葉を定義する試み自体も新しかった.明治期においては,工,芸,術,技といった言葉がよく用いられており,アートとテクノロジーの境界は曖昧だった.(英国でも同じ.) 日本においても現代的な意味での「技術」が出現するのは,1910s末から20sにかけて.
  • この時期に現代的な「技術」の意味が確立した背景

:(鉄道,遠隔通信,電力網,工場などの)大規模技術システムの構築(Loe Marx).従来の「機械(machine)」,「機械技術(mechanical art)」では,こうした機械,装置,知識の集積によって張り巡らされた巨大なネットワークを十分に説明できなくなる.=「機械の時代」から「技術ネットワーク」の時代へ.

←技術を新しい方法で定義しようとする試みが,巨大な国家インフラのネットワークの建設に従事する宮本武之輔やその同胞からもたらされたことは偶然ではない.またそれが1920年であったということも偶然ではない.

  • 創造としての技術≠大正時代に馴染みのあった技術のイメージ

:技術を楽しむ女性消費者(feminized consumer)&労働組合で闘争する男性(masculinized proletarian).

⇄技術を実際に設計・維持・開発する技術者が描かれていない.

→新しい社会秩序を創造し,資本家-労働者の対立に対処する技術者.

  • そうした一見すると人間主義的な理想の背後には,(傲慢とも言える)技術者のエリート意識がある.マルクス主義では,技術を生産手段として捉えるが,工人倶楽部が技術をそれ自体が目的であると捉える.そのポテンシャルを引き出すのは技術者.それを達成する手段が労働者・資本家.

 

  • The Proletarianization of Engineers (pp.28-36)
  • 工人倶楽部の規模が大きくなるにつれて,メンバーの政治的見解や社会経済的背景が多様化.

→技術者は階級として統合できるかどうか? 技術者の連合は,政治スペクトラムのどこに位置付けられるべきか? といった問題についての議論が生じた.

→工人倶楽部のメンバーは,自身の目的に「大正デモクラシー」運動にどのように反応し,それを流用したのか?

→工人倶楽部のメンバーは,「技術者のための平民運動」を展開し,技術者を(被差別部落のような)システムの犠牲者として訴える.

  • 関東大震災(1923年)の復興:後藤新平や工人倶楽部,工政会は東京の復興計画,都市インフラの再建についての詳細な提案を行うが,ほとんどの政治家は(ゆっくりとしたシステマティックな再建ではなく)素早い復興を求めており,却下される.

→東京の復興計画は,エリート技術者に大きな葛藤と無力感を残した.

  • (2)普通選挙法の制定(1925年)と労働者政党の発展

→工人倶楽部のメンバーの増加と影響力の拡大

:所得に関係なく25歳以上の男子(21%)全員に選挙権が与えられたことで,選挙権を持つ人数が4倍になる.1928年の選挙に向けて,労働者政党(proletarian parties)(≒コミンテルン主導で非合法の共産党)が活動

  • 宮本武之輔は,留学中に(学位取得の研究の他に主に英国の労働組合の状況を見学していた.

→工人倶楽部のマニュフェストは,労働者から技術者を分離することを明記していたが,小池や小山らは技術者運動と労働者運動を統合する議論を展開.

  • (3)WW1後の不況と雇用機会の制限

→若者の就職難,帝国大学で学位をとってもエリートのキャリアパスを歩めない.

→工人倶楽部の成長が意味していたのは,メンバーはエリート技術者を代表しているのではなく,労働者のそれに近いライフスタイル・収入を含むようになっていたということ.

  • 1925年までに工人倶楽部の政治的・イデオロギー的方向性の変化は明らかになっていた.(ex 『解放』に似たデザイン,「協調会」への接近〔≒左傾化〕)

労働者運動の言語・シンボル・組織能力は,1920s日本の政治闘争において強力なツールであることがわかったため,工人倶楽部はそれらを自分たちの強化のために流用した

=「資本家/労働者を媒介する存在」→「労働者と連帯し抑圧された階級として技術者」として特徴づけるようになった.

⇄階級政治によって技術者を統合することは非常に難しかった.

(1)「技術的階級 technological class」が意味することが明白ではない.(一方では労働者だが,他方では社会のエリートでもあるという不安定な位置にいる.)

=技術者と階級の関係の問題.

→中間階級vs 無産階級で分裂する

:無産階級→技術者を労働者として捉える.Ex 頭脳労働者,労働者知識人.

→無産階級の概念・社会経済的リアリティは,1920sにおいて決定される過程にあった.

  • 最終的には,工人倶楽部は,「頭脳能動者」という言葉を採用することで,技術者を労働者化することに決定した.→細則に盛り込まれる.

=衣食と引き換えに「技術」という商品を売る労働者,経済によって搾取される技術者.

  • (2)社会民主党(SMP)との連帯:技術者連合が公式に労働者政党を支持するのは前代未聞のことで,社会民主党の方は全体として工人倶楽部を歓迎していたわけではなかった.

→労働者政党のあからさまな支持については,工人倶楽部の中でも議論が紛糾した(1926年には55000人のメンバーがいた).⇄宮本武之輔は違和感を抱かなかった.「職業と階級は分離できず,従って労組運動は我々にとって社会を合理的に主導する最も効率で良い方法である.」

社会民主党との結託は,大阪,札幌支部からの批判に加え,政党に関わり続ける十分な資金もないために,長くは続かなかった.→分離.

  • 1928年に小池,小山は執行部から締め出され,細則から「頭脳労働者」,「労働組合」といった言葉も削除される.特定の政党を支持しないと宣言.

工人倶楽部の階級意識を通じての技術者動員の試みは失敗に終わった

←技術者のアイデンティティとは何か?彼らはいかにして統合され得るのか?

  • 1920s後半を通じて,工人倶楽部の政治スタンスは右と左の間で揺れたが,そのような政治スペクトルの中間を見出すことは容易ではなかった.
  • ただし,こうした問題は工人倶楽部に特有なものではなく,フランスの産業技術者(French cadre)の連合運動でも見られた.French cadreも,右と左の中間を維持しようと努めていた.

 

  • From Class to the Nation (pp.36-42)
  • 宮本の分析では,階級政治によって技術者を組織できなかったのは,彼らが社会経済的な階級を構成していなかったことに原因があった.

⇄筆者の分析では,メンバーの異なった社会経済的地位は原因の一つに過ぎない.もう一つの重要な要素:工人倶楽部が,社会経済的背景の違いに関わらず,技術者らは統合でき,また統合すべきであると確認させる言説を作り出す事に失敗したこと

ブルデュー:社会集団は,他との違いを生み出す言語やイデオロギーを持つことを必要とし,それは,個々人の現実の捉え方に根ざしていなければならない.

労働政治のイデオロギーや言語は,工人クラブのメンバーが捉える現実に根差していなかった

→1920s末までに,政党政治が機能せず,技術者が彼らの利益を示す効果的な手段を提供できないように思われた.=政治はもはや「合理的」には思えない.

→工人倶楽部のメンバーが階級に代わって見出したのが「国家」だった.

ナショナリズムパトロンにする.

  • 宮本は,階級闘争からは撤退し,新しい戦いに参入することを宣言.この移行は2つの理解に基づいている:
  • 伝統的に定義された労組と同様に,我々のような組織が発展することを望むことは不可能である.組織は異なったメンバーを含んでいるからである.
  • 民族間の対立が強まっている今日のような時代においては,「民族」を優先しなければならない.

→工人倶楽部の目的=技術的な見地から国家的な意見(national opinion)を導くこと.

=階級政治からナショナリズムへという一般的な意味での「転向」

  • 元来,宮本は職業と階級は不可分であると考えていたが,1934年までに労組と階級は少なくとも理論上は分ける必要があると考えるようになった.彼にとって今やもっと重要な関心事項は,階級ではなく日本民族の生存にあった.
  • 尤もナショナリズムの喚起は,1925年時点でも既に見られていており,労働政党と国家主義が相互排他的であるといった固有の理由は存在しない.

⇄だが,1929年前後で変わったことは,技術者のアイデンティティを確立する努力,技術者を統合する試み,政治権力へ接近する戦いにおいて,国家(民族)が階級に完全に取って代わったということ.

  • その転向を完成させたもの=濱口内閣によって推進された「産業合理化運動」.(←経済恐慌と禁輸措置に対処する)→臨時産業合理局が設置され,技術の標準化などが進められる.

:この産業合理化運動は,単に日本の経済の問題を解決するだけではなく,将来の日本の産業構造全体を変革することを意味していた.

  • 工人倶楽部はこの運動を支持し,1930年に『工人』でこの問題を扱った.

:労働政党は,この運動が資本家によって主導されているという理由だけによって反対していることを嘆く.宮本は,この運動は一階級だけではなく,国家を救うことを目的としていると述べる.労働政党は日本の「本当の」問題に対して何もしていない.日本の将来を導くことができ・導くべきなのは,労働政党ではなく技術者の専門知である.

  • 工人の技術者らの反抗的なエネルギーの矛先:経済的な搾取→法科系官僚(=意思決定権を共有することを拒み技術者の専門知を無駄遣いしている存在)

彼らは,国家の主要産業の変革が求められているときに,技術・産業に関わる政治が,工学・科学について何も知らない法科系官僚によって実行されていることは嘆かわしいことだった.

⇄工人倶楽部の主導的なメンバーは,自身も法科官僚と並んで仕事をする官僚であったために,これはトリッキーな問題だった.細則に明記されるまではいかない.

  • 国家を統制する能力があるという技術官僚の信念は,「科学的」であることを意味しているという主張からきていた.

←科学的な訓練は,社会問題を科学的に理解できる能力を必然的に彼らに与える.

マルクス主義の「科学」

宮本武之輔はマルクス主義について,数学や科学を知らない思いやりのある(good-hearted)社会主義者のドグマに過ぎない.

→日本の病理を治療できる科学的な方法を提供できるのは,マルクス主義ではなく技術者である.

∵技術者こそが数学とは何であるか,科学とは何であるかを本当に知っている.

:科学的教育は,「非合理」で「非科学的な」マルクス主義共産主義の広がりを防ぐ「精密で」「実験的」な態度の訓練を意味していた.

=技術官僚にとっての自然・社会の科学的理解とは,階級分析やプロレタリア科学などによるものではなく,(技術によって与えられた合理的手段を通じた)自然と,(産業合理化に通じた)社会の科学的な管理を意味していた.また,右翼政党との連合も否定していた.

 

 

Mizuno (2009), Introduction

Hiromi Mizuno, Science for the Empire– Scientific Nationalism in Modern Japan,

(Stanford University Press, 2009)

 

Introduction

  • 1942年7月:座談会「近代の超克」が開催.日本の血と西欧の知をいかに調和させるか?→最も問題のあるトピック=科学.

←日本の近代化は,(1)西欧によって近代化・文明かされた国家であると認められること,(2)国家のアイデンティティを打ち立てるべく日本の特異性を讃えること,という2つの相反する野望によって形成された.

←科学についての議論が困難であったのは,「近代的であるが,西洋的でない科学」を考えることが極めて難しかったから.

:近代科学:普遍的に立証・適用可能であり,ローカルな文化論理を重要でないものにさせる.

⇄帝国日本は,神話が国家アイデンティティの絶対的な核を構成しており,それは,近代科学によって重要でないものにさせることが不可能であった.

(神話:国家神道.日本は,紀元前660年に天照大神によって建国されたとされる.明治政府も神武天皇即位の日を建国記念日(2.11)とした.)

→国体の独自性を宣言することで,帝国の神話が憲法・法律に統合され,アジアにおける植民地化やWW2の動員を正当化するために用いられた.

  • 東洋の倫理と西洋の科学の同時促進はうまくいっていたが,日中戦争以後このような二項対立の特徴づけは存在しなくなり,西洋的であるとみなされるものが禁止されていく.⇄科学は,もはや「西洋的」なものとみなされなくなり,抑圧されなかった.(ex:

日本科学史学会の設立は1942年)

 

  • 本書の問い:戦時期の科学振興は,どのようにして,合理性(=神話を否定するもの)と,国家主義(=神話を促進する)の両方を擁護したのか? 日本人が「する」ことを期待された科学とはどんな種類の「科学」だったのか?「科学的日本」の「科学的」とは何を意味していたのか?
  • ここでいう「科学的」とは,〔科学の中身を〕定義する実践ではなく,政治的・イデオロギー的実践である.

→本書の狙いは,帝国日本が本当に合理的・科学的であったのかをジャッジすることにあるのではなく,当時の知識人・政策立案者によって,何が科学的であるとみなされ,主張されたのかを見出すことにある.

=「科学的」という言葉にある政治性(politics)を解剖すること.

  • 科学とナショナリズムがどのようにして協働していたのか?(←註8: 日本研究と科学論の不幸な距離を反映している.=日本研究で科学史は小さな下部領域とされ,科学論は西洋社会に専ら焦点を当ててきた.)

 

  • 本書の主人公:戦間期・戦時期の「科学的」日本の推進者の中で,最も影響力のあった3つのグループを取り上げる.
  • 技術官僚→第一部 (1–2章):工人倶楽部とその創設者である宮本武之輔を中心に,技術官僚の地位向上運動を検討する.⇄ファシズム(非科学的な潮流)
  • マルクス主義知識人→第二部(3–5章):戸坂潤,小倉金之助三枝博音ら=唯物論研究会の中心メンバーを取り上げる.⇄法科系官僚
  • 通俗科学の作家→第三部(6章):原田三夫を取り上げ,「科学的」という言葉に込められた「自然の不思議さを経験・理解する」という意味を検討する.⇄科学知識を欠如した一般人
  • 彼らの顕在性と重要性の他に,彼らが言説(discourse)を書いて,出版していた,という事情も,本書が焦点を当てる理由である.

→本書では,これらの言説を批判的に分析する(=どのようにして語られ,表現され,説明され,どこで言説が生成・消費されたか,に注目する).※検閲の下での言説.

→3つの集団は,太平洋戦争が開始するまでに,「科学的な日本」の過去,未来,ユートピアを構築することに参加していた.

  • 科学的ナショナリズム(Scientific nationalism)」:科学と技術が国家の統合,生存,前進にとって最も緊急かる重要な資産であるとする一種の国家主義.この概念が,戦間期・戦時期日本の科学政策を作ってきた.(現在もそうである.)

 

  • 本書が扱う時期:1920年代~

明治維新以降,科学は推進されてきたが,1920s以降は以下の点で様相が異なる.

(1)産業化が成熟する:WW1後の重化学工業化(heavy and chemical industries).

(2)研究開発が推進される:国産奨励を目指した研究開発の推進 (ex 理化学研究所)

(3)1920s初頭に科学が普遍化する(universalized):どのような文化の下でも近代的な科学・技術が生産できるという理解のもとで,国内で科学・技術が推進される.

(4)労働階級の矛盾が強まる:貧富の差,地方・都市の差.→ロシア革命(1917年),日本共産党(1922年).

→3つの集団が出現するマトリックスを形成していた.

 

 

 

Baker(1970), Chapter 21.

Chapter 21 The Post-War Scene (pp.177–182)

 

 第21章では、WW1後における無線通信市場の状況が外観される。WW1は無線技術を大きく促進させる契機になったが、その核は真空管の改良だった。戦後には民生市場に適合するような製品を生み出すことが企図され、Marconi-Osram Valve Companyが発足した。また、WW1によって大きく成長していたアメリカマルコーニ会社とGEが統合し、RCAも発足した。

 

 

  • 1919年6月にベルサイユ条約が締結され、戦争の疲弊した国々は平和産業とリハビリに向けて苦闘し始めた。
  • 目的が仲間の人間存在を破壊することにあるとき、科学知識がよりすばやい速度で進展するということは、残念ながら人間の本性である。WW1もその例外ではなく、無線ほど科学で進展した領域はなかった。無線が単なる「視覚通信の補助」であったものが、陸海空全ての軍が過度に依拠する重要な要素になった。
  • この進展の中で鍵となる構成要素は、真空管であった。1914年時点で、それは手製の、もろく、予測不能な、バラバラな性能を示すものだった。しかし戦時中に多くの研究が行われ、より効率の良いロバスト(頑強)な陰極や、真空技術の進展、製造技術の進展があったことで、1919年時点での真空管は、よりロバストで、能動素子として安定したパフォーマンスを持ち、均一な性能を示す製品を量産できるようになっていた
  • 戦時中に軍の仕事を受けもっていた多くの会社は、民生市場を開拓する仕事を再開することを強調した。民生市場に適する形態に技術と経験を導くような研究が求められた。そしてそれにはお金と時間が必要だった。
  • 資金は特になかった。帝国無線網のスキームは一向に進まなかった。また、会社の貨幣総量の大部分は政府が持っていた(局で受信される敵の通信を傍受するため)。
  • こうした仕事をハンドリングすべく、郵政省は、通信分一語あたり5ペンスの補助を出すという政策を申し出た。
  • 1919年11月以降は、強力な商業的プログラムが始まった。そのことは、多数の子会社や提携会社が内外に出てきたことにも表れていた(1918–23年に19が設立されていた)。
  • 1919年までは、マルコーニ社設計の真空管は商業的には、Ediswan Companyによって製造されていた。そのころまでに、真空管製造は特別な扱いが要求され、需要も大きくなっていたので、マルコーニ社とGEの真空管の利害(interests)をプールするという合意に至った。同年10月20日に、Marconi-Osram Valve Company(のちO. Valve Co.)が発足した。
  • こうした動きは、戦後社会を立て直そうという試みだった。そしてその努力はタイムリーであった。1919年以降は、多くの製造会社が現れ、戦前には小さかった会社も戦後に大きく成長していたからである。
  • 欧州での戦争には、真空管製造の抑圧を緩和する利点があった。この問題の基本は、デフォレストのオーディオンの基本特許が、独自のものか/フレミングバルブの改良にすぎないかという点であった。1911年に訴訟が始まり、両者は莫大な訴訟費用がかかるのにもかかわらず、負けることはできなかった。
  • だが、WW1という緊急事態の勃発により、その下ではお互いの国益のために、民の特許法に関係なく自由に真空管を開発することを何とも思わなかった。しかし当初は中立国であったアメリカは訴訟が継続・拡大し、AT&Tなども巻き込んでいった。
  • しかし、他の点では、アメリカの国益は中立によって促進された。欧州でのWW1は、新しい利益の見込める市場を作り出し、またそれまで欧州の製造業者に独占されていたその市場に参入する機会を提供した。このことは、アメリカの無線製造会社が、小さなサイズからアメリカ・マルコーニ会社にとって深刻な競合相手になるくらいにまで急速に成長することを促した。
  • 1914年まではアメリカマルコーニ会社は海洋の無線機や海を越える局を製造していた。WW1の勃発により、Aldeneに新しい工場を設置した。一夜にしてアメリカマルコーニ会社は巨大な製造会社になった
  • 戦争が終わるまでには、既存のマルコーニの火花式送信方法はアークやalternatorや三極真空管などのCW式によって置き換わりつつあった。そしてこの状況は、CW通信システムを覆う特許が複数の会社に分裂するという危機の前兆だった。
  • 米国海軍の後援のもとで、GEとアメリカマルコーニ社とが合併するということが提案された。これは、アメリカ政府が、新会社は国営であるべきで、外国の組織とは一切関係ない、と主張したためで、両者にとって明らかに有利なものだった。
  • 英国のマルコーニ社はこの提案を払い除ける地位になかった。1919年10月17日に、RCA(Radio Corporation of America)が発足した。
  • しかし、そのほかの重要な特許はライバルの手元にあったので、RCAの発足は問題の終焉を意味しなかった。ここでも米国海軍が仲介役を果たした。最終的には全てのライバル会社が相互に特許権を貢献できるような合意が締結された。このようにして、RCAは、マルコーニ、アレクサンダーソン、デフォレスト、フェッセンデン、アームストロング、ピッカードに関係する特許を所有するに至った。つまり、RCAは、豊富な実務経験を生かした現代的な無線通信システムを保有する立場にあった。
  • サーノフ(David Sarnoff)を参照することなし、RCAへの言及は完了しない。サーノフは1900年にアメリカに渡り、15歳のときにアメリカ・マルコーニ会社に入社し、1916年に契約マネージャーになった。WW1において無線電話がもたらした進展を目の当たりにして、彼は音楽や音声の放送(broadcasting)を目的とする送信局を建設すべきであると提案した。これは、彼が “radio music box”と呼んだ、エンタメ目的のラジオであった。経営陣は、その息を呑むような意味合いと、莫大なリスク、そして当時のバルブチューブの状況では不可能であったことを考慮し、熟考を重ねた。そしてその計画は1917年に米国が参戦したことでお蔵入りになった。

 

 

 

関連論文:

www.jstage.jst.go.jp

Baker(1970), Chapter 20.

Chapter 20 The Great War (continued) (pp.169–173)

 

第20章は、全章に引き続いてWW1とマルコーニ社との関係というトピックが扱われる。本章の記述からは、日本海軍が1920–30年代に開発した無線機の多くがWW1ですでに実装されていたことがわかる。例えば、戦艦用の真空管式送受信機、戦艦同士の隊内電話、航空機同士の隊内電話、超短波を用いた短距離通信などはすでにWW1時点で活用されていた。WW1で無線がいかに利用されていたかは、600台の無線機を積んだ飛行機、1000の陸上局、18000人のオペレータという数字が示している。WW1の参戦度が低かった日本では、こうした英国(特にマルコーニ社)の成果を、1910s末から20s初頭にかけて次々と導入していった。そして、20s後半以降、これらの輸入品を日本海軍の設計による製品に置き換えていくことになる。

(ここまでで第一部は終了であるので、少し休憩する。)

 

  • 1916年までに、陸海軍のサービスが無線に過度に依存していた。同年6月の攻撃の際には、無線は飛行機、砲兵、歩兵の間を結ぶ唯一の通信手段だった。さらに、ドイツの諜報を行う落下傘部隊にも無線が利用された。
  • 1916年初頭に、マルコーニ社は真空管式の送信機のセットを用いた試験を、航空機(Scape Flow=短距離の水上機)と英国海軍のCalliopeとの間で行った。試験成績は良好だったので、主力艦隊(Grand Fleet)75隻に同様の設計の真空管式セットを装備した。同時に、Uボートを監視するための海上機にも搭載した。
  • 1917年までに、無線の使用の重要性によって、Marine Observers’ School (R.N.)が設立され、そこでは多くのマルコーニ社の社員がスタッフとされた。
  • 1917年にはまだ飛行船が軍用目的で使用されており、製造もされていた。飛行船は可燃性の気体を含んでいるので、火花式無線機は危険であると考えられ、真空管式の送信機が搭載された。
  • 1917年末までに、イギリス陸軍航空隊(RFC)は夜間の爆撃機の納品があり、それらにはマルコーニ社のセットが装備された。同時に、連続波の電信機もRFCの地上ネットワークが導入され、電話は隊内間の通信用に導入された。戦隊のコントロールを可能にする新しい戦術は、敗戦が濃厚なドイツ軍にとって厄介なものだった。
  • Brooklandの学校では、無線電話の使用や、航空機の雑音の多い環境で明確な発音を行う訓練が行われた。
  • 航空機同士の双方向の電話(two-way telephony between aircraft)は重要な発展であり、それらが製造され始めると第141飛行隊の無線将校であったS. Mockfordは航空機にこれらを装備し、乗組員を訓練する任務を与えられた。
  • もう一つの重要な発展は、1917年にPrinceが航空機用送信機の変調回路に「チョーク・コントロール(choke control)」を加えて点である。これによって発話の質は大いに改善された。これらは”Mark Ⅱ choke controlled telephone set”と呼ばれた。
  • 終戦時には、無線機を装備した600台の飛行機、1000の陸上局、18000人のオペレーターが存在するまでになっていた。
  • ではこの間、マルコーニ本人は何をしていたか。1914年3月に彼はイタリアにて、Regina ElenaとNapoliとの間の45マイルの通信試験を行なっていた。この装置はラウンドによって設計され、彼のC valve(軟真空管)が用いられていた。1915年4月13日はアメリカマルコーニ会社とアトランティック通信会社(テレフンケンの子会社)との権利訴訟をめぐる問題の関係でアメリカに向かった。彼はそのときに、アレキサンダーソンの高周波発電機式の最初の設計を目にした。
  • 5月24日にイタリアは宣戦布告を行った。Lusitania船は英国の海で魚雷の攻撃を受ける可能性があるという警告が出された。そして実際に本当に魚雷の攻撃にあって沈没したことは多くの人々にとってショックだった。ただしマルコーニは身分を隠してセントポール船に乗って、5月31日にロンドンに到着した。そしてそのままイタリアに行き、陸軍無線部隊の組織の担当として中尉として仕事を行うことになった。
  • しかし、これは決して彼の職務の範囲になかった。それと並行して、海軍電気設備委員会は、マルコーニをして無線通信に最新の改良を施し、イタリアの戦艦において利用可能なものにせよとの要望もあった。さらに、彼はロシアとイタリアを結ぶ長距離無線通信の技術コンサルタントとしても仕事をしていた。
  • 1915年12月に、連合軍司令官の会合に出征し、無線を軍需への応用することについての新しいアイデアをイタリアに持ち帰った。
  • 一つの記す価値のある結果は、地中海で混信が激しかったことによってもたらされた。そこでマルコーニは1916年に波長が2m(超短波)に注目し始めた。このシフトは、従来、大出力+長波=長距離通信という経験法則に反するものだった。彼は今や長距離通信ではなく、むしろ超短波を用いた船舶間同士の(視覚的距離を超えた)通信を目的としていた。
  • この目的のために、フランクリンは火花式の超短波用送信機を設計した。この当時、まだこのような波長で発振を行うような真空管は存在しなかった。) 実験の成功によってマルコーニは喜んだものの、彼は当時この機会の歴史的重要性を十分に理解していなかった。これは明らかにターニングポイントだった。1916年の実験では、それまで無視されていたλ に再び注目することになった。さらに反射板を使うことで、これまで四方八方に分散していた電力を一点に集中させることができた。イタリアで行われたこの研究は、それ自体は短い距離の通信しか考えていなかったが、短波への道を開き、やがて世界の長距離無線回路の基幹であるビームシステムを進化させることになった。
  • 1917年6月6日に、マルコーニはコロンビア大学から名誉博士号(?)D.Scの学位を授与された。
  • 1922年6月に、IsaacsはWW1で戦死した348人(うち大部分がMarconi International Marine Communication Companyのメンバー)を追悼するために記念版(memorial plaque)を発表した。そこには、”THEY DYING SO, LIVE”と記されていた。

 

 

 

Baker(1970), Chapter 19.

Chapter 19 Wireless at the Outbreak of the Great War (pp.158–168)

 

第19章は、マルコーニ社(あるいは無線技術全般)と第一次大戦との関係に関する内容であって、本書の中でも重要度の高い章であると考えられる。

論点としては、戦時の電信員養成に平時のアマチュア無線家の訓練制度が役立ったこと、無線の方向探知機が戦術上極めて重要な役割を演じたこと、1915年にラングミュアのハードバルブの開発を受けてフランスでは直ちに高真空の「フレンチヴァルヴ」が開発されたこと、航空無線機が実装されたこと(及び航空用の電話の重要性が認識されたこと)などが挙げられる。

なお本章の記述を読むと、海外と日本の動向が連動していたことがよくわかる。例えば、マルコーニ社の派遣員がナウエン局の見学から撤退した後、同局は軍によって撤収された。このとき、日本からは林房吉がゲッチンゲン大学に留学しており、テレフンケン社やナウエン局の見学も行なっていたが、まさにほぼ同じ時期に(1914年)海軍技師として帰国している。この背景には、WW1によって日本人のドイツ滞在が困難になったという事情もあった可能性がある。

加えて日本陸軍は1910s末に東京電気に「フレンチヴァルブ」の製作を命じていたはずだが、このことからはWW1にフランスが製作したハードバルブをいち早く導入しようとしていたことが読み取れる。

 

 

  • イギリスとドイツの外交的な関係は徐々に悪くなっていたのに対して、マルコーニ社とテレフンケンとの「戦争」は平和的な共存の期間に入っていた。そこでは、双方の関係者の訪問による技術情報の交換が行われていた。1914年7月末、マルコーニの派遣者はベルリンを訪れ、変わらない友好的な扱い、寛大な慈善心を与えられた。その計画には、さまざまな工場、研究施設、200kWのナウエン局の見学が含まれていた。
  • しかし、彼らがナウエンを去った後、ナウエン局は通常のオペレーションを終え、(訪問者=マルコーニ関係者の出発を待っていた)軍がそれを引き継いだ。8月1日には英国の領海では、同国の船舶以外は無線の使用が禁止され、翌日には英国政府がメッセージの統制を行うようになった。8月3日には、英国海軍は領海におけるすべての商船による無線電信の使用を禁止し、アマチュア局も閉鎖させ、道具の押収を手配した。一方のドイツでも、ナウエンは不特定多数のドイツ商船に対して、近くのドイツ領の港か中立国の港へ向かうように呼び出しを行なった。
  • 戦争における最初の行動は、ドイツの海底ケーブルを切断することだった。これによって、ナウエン局がその国の唯一の対外通信手段となった。
  • 戦争が勃発するとまもなく、マルコーニ社は英国海軍によって引き継がれた。クリフデン–Glace湾間での商業通信は認められていたものの、海軍通信による妨害や波長の変更が許可された。加えて、Hall Streetの実験部は、ドイツの無線送信の傍受を行う場所となった。
  • 訓練された無線オペレータの需要は非常に大きく、この点で同社の平時の活動の興味深い側面が、予期しない形で実った。同社は褒賞などによってアマチュア無線家の関心を刺激し、モールス符号の実践セットを利用可能なものにしていた。
  • イギリス海軍志願予備員(RNVR)は、戦艦だけではなく、飛行船に設置されたマルコーニ社の設備を操作する電信員の数が圧倒的に不足していた。マルコーニ社は、すでに3000人商船に派遣されていたオペレータに加えて2000人の追加員を探すことを引き受け、この目的のために、King’s CollegeとBirkbeck Collegeの教室が、マルコーニハウスにかかる重圧を軽減するために使用された。
  • 帝国無線網の建築に怠慢だったことのツケは明らかだった。そのようなシステムの欠如は、低出力の局を高出力のそれに素早く置き換える必要のあった海軍において顕著だった。その結果、エジプトに緊急で局が建設された。
  • 8月9日にはドイツのDar-es-Salaamが破壊され、12日にはYapが破壊、24日にはKaminaを自爆させた。
  • 無線は、ボーア戦争時代の実験的なおもちゃ(toy)ではなく、本質的で不可欠なものだった。1914年に存在していた通信における空白が海軍にとって試練となり、広大な土地に散在するドイツ艦隊の一団を追い詰め、撃破するという不運な任務を担っていた。
  • 第一次大戦においては、無線電信が戦略上重要な役割を果たしたという数しれない自励がある。しかし、新型の技術=無線方向探知機(wireless direction-finding)が開発されたことが重要だった。1916年にはこれらの秘密の通信局が実装されていた。
  • 無線方向探知機は、ラウンドによって、ソフトバルブ(C valve)と、Bellini-Tosi方向システムを用いて、戦争の前に開発された。この知らせは軍需局に知らされ、ラウンドはインテリジェンスの任務に預かり、フランスに最初の2つの局を建設することを命じられた。
  • 英国海軍も英国島において同じような局を必要としていた。それは、潜水艦だけではなくゼッペリンやドイツの戦艦を監視することを目的としていた。1916年までに、英国の海岸線はこうした目的の局で覆われた。海軍の戦艦には、実験的な方向探知装置が設置されてもいた。
  • ドイツ海軍は方向探知機が用いられていることに気がついていたが、ドイツ自身のものよりもラウンドの真空管増幅器が進んでいるとは考えなかった。その結果、ドイツ軍艦は自国の海域では低出力無線電信を自由に使用し、イギリスではその信号を受信できないと確信していた。だが、実際にはこれらの船舶の方向はすべて捕捉されていた。
  • 1916年5月に、英国の報告探知局は、ドイツの戦艦が数の信号をやりとりしていることを報告した。英国海軍は、ドイツの戦艦は出港しつつあり、これらの信号は出港命令であると推測した。そして、このことは英国が長らく待ち望んでいた機会だった。というのも、それは効果的な攻撃を加える都合の良い時間を捉える機会を与えたからである。英国の艦戦は直ちにBightへと向かった。翌日に「Jutlandの戦い」が繰り広げられた。
  • 陸軍もマルコーニ社を必要としていた。1914年8月に、マルコーニ社の訓練学校の長が軍需局に出向し、将校の指示、陸上での無線電信の使用などについて大規模な訓練学校を組織する仕事を割り当てられた。ただし、当初から陸上での無線の使用の可能性が理解されていたわけではなかった。進歩的な(avant-garde)シニア将校でされ、無線を視覚とline signalingとの間を繋ぐもの(騎兵隊と参謀との通信)としか見ていなかった。しかし戦争が続くにつれて、軍団の参謀(HQ)が前線の状況について継続的に十分な情報を得る必要があることが認識されていった。
  • 1914年12月に、2台の方向探知局(ベリーニ-トッシ装置と、16式マルコーニ受信機。後者は鉱石検波器とラウンドの軟真空管増幅器が含まれている)がフランスに輸送された。そして12月16日にBlendecquesに設置された。それ以来、ドイツ陸軍の最新の位置(ゼッペリンや航空機の位置を含む)の情報を伝える地図が毎週作成されるようになった。1915年1月2日には、Wireless Signal Companyが発足したことで、英国陸軍における無線の重要性が認識された。
  • 翌月には、従来の鉱石セットがラウンドの真空管によって置き代わり、受信感度がますことで、傍受の量を増やすことができた。
  • 1915年にはラングミュアによるハードヴァルブの発明があった。そして高真空のタングステンフィラメントの真空管の製造について発表された。このことは英国とフランスの真空管製造に直ちに影響を与えた。つまり、フランスにおいては、Colonel (のちにはFerrie将軍)の指示のもとで、戦後に「フランスバルヴ」として知られるより優れた真空管が作られたのである。
  • 方向探知の重要性が示されるにつれて、陸軍用の多くのinstallationsが建設された。この中で、価値ある技術知識が蓄積された。マルコーニ社のTremellenは1915年に”Night Error”と呼ばれる現象を報告した。Adcockは、より正確なアンテナ構造を考案した。
  • 1911年以来、マルコーニ社は、陸上-飛行機間での航空無線の実験的な仕事を行なっていた。同社のBangayによって良好な航空無線機が考案されたが、雑音だらけのコックピットの中で受信するという点がボトルネックになっていた。そしてそれは戦争の勃発時点で十分に解決されていなかった。
  • 英国陸軍同様、イギリス陸軍航空部隊(Royal Flying Corps=RFC)も無線の役割を十分に認識していなかった。Captain Lewisは既存の偵察方法よりも時間を節約できる点に注目していた。
  • 航空機に無線を採用すること上での困難は、飛行機には搭載可能重量の制限があり、それゆえに無線機の重さを減らす必要があるということだった。1915年初頭に、改良された一連の受信機と火花式送信機がフランスにおけるRFCの任務のために、マルコーニの工場から送受信機が送られた。これは偵察機と地上基地間での共同作戦を目的とした装置であり、その価値が認められたため、海上での使用にまで拡大された。
  • 開発に尽力されたおかげで、1915年末までにマルコーニ社は20ポンドの軽量型の航空無線機を製造していた。さらにPrinceは航空機用の連続波を扱う(つまり電話)真空管式送信機の開発も行なっていた。1915年の夏には、300mの波長で、20マイルの機上–地上間での通信を達成していた。(垂下アンテナの長さは250フィートだった。)
  • しかしWW1において、地上–機上間での無線電話は一般的に採用されなかった。しかし、航空機隊内間での通信の需要は生まれていた。それは、哨戒時や戦闘時にリーダーが戦闘機隊をコントロールするという戦略上の目的に起因していた。このとき、電話技術にはメリットがあった。指令のスピード、単座での利用可能性、電信の特別な訓練を受けていなくでも操作できる、といった点で電話の方が電信よりも都合が良いからである。そして、Princeが航空機用の電話機の研究を進めた。